龍
「リュウっていると思う?」
「なにそれ」
「りゅうだよりゅう。ほら、蛇みたいな体でさ、大きくて、強くて、空を飛んでる」
「ああ。想像上の」
「そうそう。虎みたいな顔したやつ。雨の日に出る恐い生き物。――知ってる? 大雨の日に人間が怒ると龍になるんだよ。それでね」
「いないんじゃないかな」
遮るように言うと、一瞬の間があいて、
「ぼくはいると思うんだ」
「……見たの?」
茶化して訊いてみた。当然、「いやいや、見たことないけど」なんて言葉が返ってくると思った。
でも級友は、
「…………」
難しそうな顔をして沈黙を保ったのだった。どうしたのだと僕が顔を覗きこむと、級友ははっと顔を上げて、ひとめでわかる愛想笑いをつくり、
「ううん、なんでも」
そう言って、わざとらしく声をあげて笑った。そして最後には、自分でそんな話題を振ってきたくせに
「やっぱ龍なんていないよね」と付け加えて、また笑った。
小学校の頃の級友が亡くなったのは、その一週間後のことだった。自殺だった。
なぜ僕がこんなことをいまになって思い出したのかというと、少しだけその一幕と関連すると思われる現場に立ち会ったからだった。
僕の妻に、待望の子ができたときのことだ。
夫婦生活六年、僕の両親も相手方の両親も孫がみたいと、年の瀬なんかで会うたびに、言葉にしなくてもそう伝わってきた。無言の圧力、というと聞こえが物騒だが、こう、なんというか。会話の節々に、ふとできた空白の時間に「そういえば子どもは……」なんてことを発するのだ。
僕はそれが嫌だった。
夫婦の問題は夫婦で解決する。親といえども、見守ってくれる気概はないのかと密かに思っていた。
でもこのままではいけないということはわかっている。
子は必要、らしい。僕はあまりそうは思わないけれど、妻がいよいよはっきりとそう口にしたのだから、冷たく突っぱねることはできない状況になってしまった。
そして、妻が妊娠した。女の子だ。
きっと、可愛い子が産まれるだろう。妻が望んだ子育てがはじまる。妻が望んだ幸せな家庭がまたひとつ進み、大きな幸福となる。
「わたし、幸せです」
朝、新聞を読んでいるふとしたときに妻は言った。僕は無言でコーヒーをすすり、その苦さを舌の上ですりあわせた。
ずいぶんとおなかが大きくなった。僕が「本当に大丈夫なのか」と訊くと、妻は笑って頷いた。
そんな状態で自宅の階段から、妻が落ちたと知らされたとき、僕の背筋がぞわりとし、胸は大きく跳ねた。
「本当ですか」
病院に運ばれた妻自身の体は無事だったが、お腹の中の赤子は死んでしまっていた。二階には極力のぼるなと言っていたのに。そして用があったとしても、しっかりと取り付けた手すりを掴んでいるようにと言っていたのに、そのような事故が起きた。
僕たちのショックは計り知れないものだった。しかし時間が経つと、互いに冷静さを取り戻す。いや冷静というよりも、あれは放心とか無気力の状態と言った方が適切だったかもしれない。
そんななかで僕は妻に、念のために訊いてみたのだ。
「どうして階段から落ちたんだい」
――手すりが壊れたの
たっぷりの間のあと潜めた声でそう答えた妻は、そっと僕の顔を見て、しばらく見つめ続けた。
その目は、ひどくぼんやりとしていたのを憶えている。
慰めてほしいのだろう。そう思った僕は、声を絞り出した。
「不運な事故だったんだよ」
「…………」
妻はその次の日に、僕の目の前で自殺をした。
雨の日だった。仕事から帰ってくるとリビングの机の上に離婚届が置かれており、何事かと動揺していると電話が鳴った。
『落ち着いて訊いてください』
警官の声は、ほとんど聞こえなかった。ただ内容を要約すると、都内の高層ビルで自殺をすると喚く女性がいるということ。そしてそれは僕の妻だということ。
僕は現場へ向かう準備をする。けれどそのまえに、離婚届の方が気になった。
自殺を決めたから、僕にけじめとしてこれを……。
冷たい紙が机に置かれている。離婚届。
と、一つの封筒。
「…………」
見てはいえないものな気がする。でも僕は操られるようにそれの中身を検めた。
――わたしはあなたを許しません
愛想のない字だった。ただボールペンでさっと書いたような、冷たい文面。妻はこれをどのような表情で書いたのだろう。
妻は、気づいていたのだろうか。
現場ではひとだかりができていた。みなが傘を傾げさせ、一様に空を見上げている。厳密には空ではない。高層ビルの最上階だ。
警察もいるが、まだクッションの準備はできていないらしい。それでも身を乗り出す妻。
息を荒らげている僕のケータイが鳴り響く。
『……来ましたか?』
妻の声だった。ひどく冷えた密やかな声音だった。
「ああ」
『そうですか。じゃあ』
「なあ、待ってくれ。君は――」
「きゃあああ!」
周囲が一気に騒がしくなった。目を剥く男性、目を背ける女性。
僕はケータイを耳にしたまま、上空を見た。
雨が顔にぶつかる。その向こうから大きな影。
鬼の形相、そして虎のような獰猛な顔つきをしている。長い髪と細い体がふわりとなびいて、あおられている。ぎょろりと剥かれた目が、僕を射竦めるように見ている気がした。
妻はまるで、龍のような姿だった。
真っ赤に染まるアスファルト。大きな水風船が割れたような音が、耳にこびり付いて離れない。そしてあの表情。
雨が強くなる。
妻は気づいていたのだろうか。いや気づいていたに違いない。
妻が死ぬ間際まで当てていたケータイは、ずっと通話状態だった。風を切る音がずっとしていたから。
そして落ちる瞬間に、こんな声が聞こえたのだ。
『……人殺し』
彼女は龍になった。漠然とそう思ったとき、不意に級友のことを思い出したのである。
龍の姿を見たのであろう級友。彼もおそらく、この様な場面に出くわしたのだろう。
――知ってる? 大雨の日に人間が怒ると龍になるんだよ




