もっと早く
――子どもに向かって、トラックが突っ込んでいた。
それはもう猛烈なスピードを出していて、急ブレーキを踏んだのか、鼓膜をつんざくほどのタイヤの音とそれが地面のこすれる音が周囲に響き渡った。
――間に合わないだろう――
信号待ちをしていたわたしは、目の前の横断歩道を挟んでの向こうの一幕を、そんな漫然とした気持ちで眺めていた。子どもはそこで立ち尽くし、ただじっと迫るトラックを凝視している。
表情はわからなかった。わたしがその子の顔を見ようと思った時にはすでにトラックの陰にその子は隠れてしまい、見えなくなったから。
ただ音だけが聞こえた。ドゴンッという鈍い音と、かすかな水滴の音、数秒後の悲鳴。
わたしは動けなかった。恐怖とインパクトで、頭の中が真っ白になった。反して、おっかない場面に出くわしたものだと思う、妙に冷静な自分もいた。そんな相反するものが胸に同居していて気持ちが悪かった。
口を押さえ、しゃがみこむ。
――この場を離れよう――
強く閉じた瞼をゆっくりと開け、覚束ない足取りでわたしは引き返そうと踵を返した。
「……え?」
振り返った背後の景色に、わたしは目を疑った。
――子どもに向かって、トラックが突っ込んでいた。
それはもう猛烈なスピードで、大きな生物の悲鳴のようなブレーキ音があたりに響き渡る。
――もう間に合わない――
横断歩道の向こうにいる子は、ただじっとしている。そのトラックが自分にぶつかるのを待っている。
わたしは動けなかった。恐怖とインパクト……ではない。この不可思議な現象に、混乱していたのだ。
やがて、誰かの悲鳴。
子どもはやはり轢かれた。
「なによ、これ……」
自然とわたしは頭を抱える。事故現場から目を逸らした。
すると目の前に広がったのは、
「なんで……」
――子どもに向かって、トラックが突っ込んでいた。
猛烈なスピードで、けたたましい叫び声のようなブレーキ音をさせながら暴走したトラックはその子に向かっていく。
わたしの体は……ようやく動いた。
走った。ただ前だけを見て、向こうにいる子だけを一点に見つめた。
トラックはこの際関係ない。どうせまたあの子に向かって突っ込んできているのだ。いまどこにいるとか、あと何秒後にとかは考えるだけ無駄だ。
動かなければ未来は変わらない。
気づけば周囲の音はかき消されていた。自分の心臓の音と足音だけが鼓膜の奥からしているみたいだ。
不思議な感覚だった。死はもうすぐそこにあるのに、恐怖はなかった。
いや全くないわけではないが、それ以上に子どもを救ってあげたいという一心でわたしは駆けていた。
手を伸ばす。視界の端で、黒い何かがぶわっと侵入してきた。
トラックだ。あと一秒もしないうちに、子どもとわたし共々轢かれてしまう。
やはり間に合わないじゃないか……いや、
わたしは思いっきり跳んだ。歯を食いしばり宙を舞い、子どもに向かって飛び込んだ。
その子は驚いた表情をしていた。目を剥きわたしを見つめ……
二人でごろごろと地面を転がった。その背後でトラックが電柱に突っ込む、凄まじく鈍い音が響いた。
胸の中の子ども。わたしは息を切らしながら視線を落とし、抱いているの子の顔を覗きこんだ。
「無事、かしら……」
子どもはぎゅっと目を閉じていた。しばらくするとそっと瞼を持ち上げ、わたしの顔を見上げた。
そしてほっとした表情で、こう言ったのだ。
「ありがとう、お姉ちゃん! でも、もっと早く来てほしかったな!」