夫との電話
「いけないわね私ったら、あなたが相手だとどうしても長話しちゃう」
『いまさらだな、キミは僕と出逢ったときからそうじゃないか』
「あら心外ね。あなた、そんなこと思って私の相手をしてきたの?」
『いや、まあ、そうじゃないわけではないけど……』
困った風に声がしぼみ、電話の相手は息をついた。私は微笑み、明るく返す。
「やーね冗談よ。ごめんなさいね」
『適わないなあ……」
そう言って、あなたは鼻を撫でている。見えていないけど、私にはわかる。
伊達に二十年も夫婦生活を過ごしてきたわけではない。喧嘩やすれ違い、小さなことでの言い争いもたくさんあったけれど、考えてみれば人生の半分以上もこの人と一緒にいたのだ。電話でのクセなんて、見なくてもわかる。
たぶんそれは、あなたもそうなのだろう。
『キミのその笑顔には、随分と助けられた』
「どうしたの急に。ゴマすり? もう遅いわよ」
私はつい笑う。するとあなたはやや慌てた様子で片手を目線まで上げ、わずかに頭を下げる。
『手厳しいな、法子さんは』
そして低い声に温もりを与え、あなたは言う。
『いやね、電話とはいえこうして一対一で話す機会ってじつはけっこう少なかったろう? だから顔が見えなくても、どんな様子なのか気になってね』
「それで私が笑ってると思ったのね、あなたの勝手で」
『笑っていないのかい?』
「それは……」
ハズレ、と嘘をついても意味はない。あなたは知っているであろうから。
私の中途半端な返答に、あなたはくすりと笑った。
『ふふ、やっぱり僕の思った通りじゃないか』
「……そうですよ」
『見当違いじゃなくてよかった。その笑顔は人を明るくする力がある』
どうかしらね、と気のないふりをして返すと、あなたは首を横に振る。
『現に僕がそうなんだから、間違いはないよ』
「見ていないのに?」
『見てるさ』
ふと私は視線をあげる。何の変哲もないいつもの白い天井がそこにある。そのまま後ろへ目を移すと、だだっ広いリビングが静寂を保っていた。その中央にガラステーブルと黒い皮製のソファ。あなたはいつもそこに座っていた。
いつもあなたが座っていた場所に、いまは誰もいない。冷たいソファの黒が、照明の光を反射して一部白くなっている。その位置からキッチンに立つ私を、あなたはいつも見てくれていたのに。
胸が苦しくなってくる。じわりと、濡れたタオルで肺を包み込まれるような冷たさと圧迫感が、息をするたびに痛みを帯びる。
目頭が熱くなってきたところで、あなたは決まってこう言う。
『泣くことはない。……法子さん、キミには笑ってて欲しいんだ』
出逢った当初、私に声をかけてきたあなたが不器用にも言った台詞。
あれが口説き文句になった。交際を始めるもっと前の一幕。当時を思い出すと、笑いがこみ上げてくる。
ズボンのファスナーが開いていたのだ。ぱっくり大きく。
「――ふふ。カッコつかなかったわね、あのときのあなた」
『またその話かい、忘れてくれと頼んだだろう』
忘れるものか。あの日は私にとって大切な日。あなたにとっては恥ずかしい歴史でも、私には面白くもあり、温かさのある大きな出来事。
あなたも、本当はそうでしょう? だからこうして、私が不安定になるとあのときの台詞を言ってくれるのでしょう?
忘れろと言うあなたが忘れることはないのなら、私だって忘れるものですか。
『そう、そうやって笑ってなさい。悲しむことはない。そのうち嫌でもまたこっちで会うんだから』
「当分私はそちらにいく予定はないですよ」
『はは、その意気だ』
沈黙、心地よい沈黙。
やがてあなたはひかえめに咳払いをして、ぽつりと言う。
『そろそろ切るよ。今日はありがとう。おかげで綺麗になった気がする。身も心も』
「私もです、ごめんなさい毎年」
いやいや、とあなたは笑い、そして名残惜しそうにあなたから別れの挨拶を告げてくれる。
私が返事をしないのを知っているあなたは、もう一度「じゃあ法子さん、また」と言い残し、通話を切った。
私はしばらく電話の前で立ち尽くしたまま、ツー、ツーという無機質な音を余韻に、深く息をついた。
壁にかけたカレンダーを見る。九月二十三日、お彼岸の季節はおはぎを食べないといけない。
もちろんあなたの分も買わないと。