神様は、
神様なんていない、とキミは言う。
なにを根拠にそう言うのかは知らない。わたしの記憶している限りでは、たしかキミは十四、五歳くらいから無神論者になったと思う。
正しいか正しくないかはどうだっていい。ただキミのような人たちは大変多く、大抵同じ思考からその答えを導き出している。
悟ったわけではない、むろん神とは何たるかを考え悩んだわけではない。おしなべてキミのような人たちは決まってこんなことを言って、結果、神はいないという。
「いまの生活が幸せとは思えないからね、だから神様はいない」
「小さい頃からよく貧乏くじを引かされるタイプだったんだ。それはもう理不尽も多くて、いまもそうなんだけど」
「寺とか神社とか? ああいうのにお願いしてみたりするんだけど、それが叶ったことはないんだよね」
「神様がいるんだったらそうだな……。戦争をなくす、とか? まあとにかく世の中をさ、もっと良くしていって欲しいもんだよほんと」
本気で言っているのかは定かではないが、それでもこういった言葉が浮かび、口にするということはそれなり思うところがあるのだろう。自分が、あるいは世界が不幸で不快であった場合、ひとはみな一様にこう言う。
そして、神の責任だと押し付ける。神はいないと言っていながら。
キミが死ぬ間際、命を落とす瞬間にわたしは現われる。無神論者のキミは目を丸くし、しかしやがて落ち着きを取り戻してこう言った。
「……ああ神様、おれにもう少しだけ時間をください」
信じない者に、救いはこない。
わたしはただキミを眺め、絶命するのを見届ける。独りで逝くのは恐怖だと知っているから。これがキミたちの言う無責任な神の、せめてもの施しだ。
さて、次は……
「神様……」
幼い男の子が、わたしを呼んだ。
穏やかで柔らかい、けれどどこか力のない魂の抜けた声音。一瞬、人の子とは思えないほど大人びたものに聞こえた。
わたしの移動は早い。声がして数秒にも満たないうちに、その者のもとへ行く。
幼い男の子は、その小さな体に似合わない場所に立っていた。眼下にはだいの大人でも足をすくめるほどの高さだ。
なぜ彼はこんな場所に……
「おねがい、神様……」
また、わたしの名を呼ぶ。
なるほど、わかった。
おおかた自身の運命を恨み、それをわたしにぶつけてきているのだろう。その男の子は確か、じつの母が病で倒れ、もう長くないという業を背負わされている。
苦しく耐え難い。けれどそれを受け止めなくてはならない。息もできない暗中模索の中、運命に抗い、受容し、やがて前へ進まなくてはならない。
それが人の道。そこに神は介入できない。
「神様……」
ああ、見ている。キミが命を投げ捨て息絶えるまで、わたしは最期まで見届けよう。
「いままでありがとうございました」
……?
わたしは、はじめて自分の耳を疑った。
絶望の淵。誰もがわたしという概念を恨み、忘れ、死んで行くというのに。彼はわたしの存在を信じている。いまなお、無垢な心のままに。
「お母さんがここまで生きていたのは、神様のおかげです。……もう死んじゃうって、病院の先生もお母さんも……言って、たんだけど……」
彼は、ようやく年相応の表情となった。
頬を真っ赤にして、眉尻を下げ、涙を流し、息を詰まらせながら懸命に呟く。
「お母さんはねっ……それで、それでいいって……言って……。ぼくも、ちゃんと……お母さんの前では……うんって……」
わたしはじっと、彼の言葉を待つ。静かに傾聴する。
「頑張るからって……約束っ……したんだけど……」
寸前のところで、彼は踏みとどまっている。涙も濡れた声も絶え絶えに溢れているが、まだこらえている。
大した子だ……。
そんな彼の願いは、いったい何なのだろう。
「おねがい、神様……」
彼の涙がぴたりと止まった。そしてふっと消えた瞳の光は、ひどく大人びていて、声の抑揚もなくなった。
一変する空気。そして彼は、淡々とこう言ったのだ。
「ぼくには耐えられない。弱いから……。でもお母さんは強いんだ、もう死んじゃうかもしれないのに、ぼくのことだけを考えてる。――だからね」
――ぼくが死んだ引き換えに、お母さんのこと助けてください。
「……おねがいします、神様」
ありがとうございました、と言って、彼は身を投げた。
地に落ちた真っ赤になった彼を見下ろし、わたしは呟く。
「馬鹿な子だ……」
本当に、愚かなことだ。眩暈がするほど浅はかで、胸が痛くなる。
キミが死んでしまえば、母親はどうなる? キミの望みどおりわたしが母親の命を永らえさせても、キミがいなくては、おそらくキミの母親は悲しみに暮れるだろう。そんな運命を、愛する母親に背負わせるのか?
まったくもってけしからん。人に運命を背負わせるなど、神にでもなったつもりか。
そんなことをしてまで自身の運命を呪うのか。いや、違う。この子は運命を受け入れ、自分自身をも受け入れた。だから身を捨てることができたのだ。
母親の運命を変えるために。
「…………」
信じないものに、救いは来ない。けれど彼は信じていた。信じるがゆえに方法を間違えた。
つくづく皮肉なものだ、人の道というものは。
彼の願いは聞けない。二つの意味で、その望みは叶えられない。
「すまんな、人の子」
純真無垢な哀れな少年……。しかしその姿と想いは、しかと見届けた。
白衣を着た男がかけつけてくる。その男はかすかに息をする少年を抱き、他の白衣の者を呼ぶと早急に建物内へ連れて行った。
わたしはその場を立ち去った。
それ以降、まだ少年とその母親とは逢っていない。