痛がりなわたし 下
高校生の頃、不本意ながら文化委員になった。じゃんけんで負けたのだ。文化委員は夏休み前くらいから、初秋の文化祭に向けて活動しだす。といっても、何をしたいか決め、簡単な企画書にそれを記入するだけだ。
期末テスト終わり、浮き足立つ教室。教壇に立ったわたしはそんな騒がしいクラスに問いかける。
――文化祭に向けて、何かやりたいこととかありませんか。
誰も、聞いてくれない。
皆が口々に近くの人と喋り、笑い声をあげている。我関せずとケータイをいじり続けている人もいれば、寝ている人もいる。
もう一度呼びかけても無視される。どうすれば皆、こっちを向いてくれるのか。教卓でも倒せばいいのだろうか。いや駄目だ。それでは威嚇行為だ。逆撫ではしたくない。
そうなるとやはりとれる行動は、一つしかなかった。
――……え、ちょっと……。
――嘘、何で泣いてんの?
――あーあ……。
誰かが気づくと、誰かに伝染する。学校特有の空気の伝染は波紋のように広がり、やがて水を打ったように静かになった。
耳にうるさい沈黙の中、すすり泣くわたし。たったこれだけで衆人環視を奪える。注目の的になる。
ここで誰かから心配の声が――、
――なに泣いてんだよ文化委員。
男子生徒の声が響いた。なじる言い草に、わたしはあっけに取られる。
クラスは空気を伝染させる。男子生徒のやじを始めに、皆が発言しだす。わたしをなじる方向に傾く。
――そうだよ。なに泣いてんの。しっかりしなさいよね。
――ちゃんとまとめられないからって泣くことはないでしょう。
――っていうか、高校生にもなって泣くとか意味わかんないんですけどー。
……なにが起こってる?
――女の涙は武器になるって? はは、鬱陶しい。
――もういいからさ、さっさと進めろよ文化委員。
誰も心配の声をくれないなんて。おかしい。わけがわからない。わたしが泣いているのに。誰も話を聞いてくれないと心を痛めているのに。
同情の目は一切なかった。そのときのわたしを見る周囲の人は、一様に冷ややかなものだった。
大学生の頃、二十歳を過ぎたわたしはお酒を飲み始めた。といっても、美味しいなどとは思わず、ただサークルの飲み会で最低限いける口になっておかないといけないと思ったからだ。いまだにビールのあの苦味と炭酸は不愉快だし、日本酒のあの消毒液臭さは慣れない。頭が痛くなる。
その日もサークルの飲み会が合った。別に楽しくもない席に参加し、美味しくもない料理と酒をすすめられ、無常に時間だけが過ぎていく。ただ参加費用だけはしっかり奪われるという、わりに合わない時間。
下卑た男が顔を赤らめて絡んでくる。不快。
下品な女が胸元を大袈裟に見せ誘惑する。不快。
それを見て鼻を膨らませる男。不快
その反応を見て満更でもない女。不快。
吐けと言われれば容易く胃の中をぶちまけてやれるのは、ただ酔っていたからだけではないだろう。周囲の空気が汚らわしくて、それと同じ空気を吸っている自分が嫌だった。
――飲んでる? あー駄目じゃーん、全然飲んでないじゃーん!
男が一人、集ってきた。息が酒臭い男は、へらへらとしながら酒をすすめてくる。わたしは努めて笑顔で断りを入れる。しかしこういった人種は話を聞かない。会話にならない。
――ええー、何でそんなこというの、ひどいなあ。せっかく飲ませてやろうと思ってるのに。
冷えた心に反して、わたしのおべっか精神は発揮される。
渋々ながらわたしはジョッキを手に、ビールを飲んだ。それを見て、男は笑っていた。
そのあとから記憶がない。ジョッキを呷ったのはまだ飲めるからだったし、いつだって人前では酔いつぶれないようセーブしていた。そのときもだ、酔っているといっても、意識を保てるレベルのの酔いであり、記憶が飛ぶほど飲んだ覚えはなかった。
まどろみのなかで、頭痛に襲われていた。薄く瞼を開けると、視界がぐるぐると回っている。
ああ、酔ってるんだな。ここはどこだろうか。そう思った矢先に、下腹部に激痛が走った。肉を裂かれるような鈍痛が脳天まで響く。
――っ!
声が漏れた。すると、声がしたのだ。はっきりとしないけれど、男の声。
――あ、目え醒めた? いやあごめんね、寝てる間にこんなことしちゃって。でもこれはお互いの合意の上だから。
眩暈? 睡魔? わからない。視界がぼやけて考えも定まらない。
ただ痛いということが体に響く。あと、全体が一定間隔で揺れている。ゆるい地震のように揺れていて、その振動と共に痛みが増す。水の音がする。くちゅくちゅと、水の中で手を弄んでいるような音。けれど体は酒のせいか熱く、水の気配は周囲にない。
やがて、男の顔が見える。酒臭い口を近づけてくる、顔を赤くした不愉快な男。わたしを卑しい目で見下ろしている。
悟ったときには、もう全部終わっていた。
事を終えて満足した男は、わたしを乱暴に外へと捨てた。受け身ひとつとれないわたしはアスファルトで膝を擦り、痛かった。
車のエンジン音がする。真っ暗で見えない中、男はわたしを置いてそれを走らせる。排気ガスが顔に吹き付けた。瞬間、わたしはむせ返る。
寒かった。ついさっきまで熱かったのに、いまはただただ寒い。衣類一つないわたしは自分の体を自分で抱いた。股が痛い。どろりとした液体が太ももをつたっている。
わたしは、はじめて泣いた。
声も出ない。息も上手くできない。胸に突如として湧いた強烈な何かを吐き出したいのに、吐き出せない、涙だけが流れ出ていく。けれど浄化されない。
痛い。痛かった。全部が、痛々しい。わたしの全部が汚らわしい。
その場で肩を震わせていた。もう立つ気力もなく、いますぐ死にたくなった。
背後から、ヘッドライトがわたしを照らした。その気配を感じても振り返ることはない。
わたしのすぐ後ろで車は停まり、ドアを開け閉めする音がした。
――あ、あんた……。
死にたいと思ったわたしの前に現われたのは一人の男性。逆行で顔は見えないけれど、声は柔和で温かかった。
頼みの綱だと思った。そう考えるとわたしの咽喉から、声が漏れ始めた。濡れた身悶えするような声。
やがてそれは泣き声となり、助けを請うシグナルとなる。
――あ、ああ。わかった。話は後だ。とにかくいまは車に乗りなさい。裸じゃ寒かったろう。
男性はわたしの肩を抱き、自分の車に促した。わたしはずっと涙を流し、次の言葉を待った。心
の中で、わたしは言う。
――痛かった、辛かった。だからこんなにも泣いてるの。お願い、助けて。
男性はわたしを後部座席に乗せる。そして、男性はわたしの隣に座った。
目を丸くするわたし。何か、慰めでもしてから運転して送っていってくれるのだろうかと、そんな淡い期待を込めて、男性を見た。
男性の顔が見えた。醜い顔をした、男だった。
鼻を膨らませ、だらしなく眉を下げた顔つき。脂汗を滲ませた額と歪んだ口許。
――悪く、思わないでね……。
男の声が発せられた口は、ぽっかりと空いた穴のように真っ暗だった。
泣いたのに、わたしの本当の痛みは消えなかった。