痛がりなわたし 上
幼稚園児の頃。思いきり走っている時に足をもつらせ、派手に転んだことがある。
べしゃ! といった具合に。
先に手を出すことができたから顔や顎なんかは無傷だったけれど、次に地面につけた膝が、それはもうひどかった。擦りむいて、それから小石で切ったらしく、毒々しい赤い液体がどろり。それが付着した砂と相まって、汚らしくもあった。
人前で泣いた記憶が一番若いのは、そのときのことだ。わんわんとサイレンのように大声で泣き、しゃっくり声。本当に痛かった。それと当時はそんな感情のことを知らなかったけれど、情けなかった、というのもあった。
そんなとき、一緒に遊んでいた友人が近づいて声をかけてくれた。
――だいじょうぶ?
わたしは首を左右にぶんぶんと振り、泣いていた。
――いたいの? せんせ呼ぼっか。うわすごい血だ。
見るからに心配そうな表情を浮かべ、わたしの膝をみる友人。するとたちまちほかの子たちも寄ってくる。
――だいじょうぶ?
――こけたの? ああ、いたそう。
――せんせい呼んでるからね。がまんだよ。
取り囲まれるようにされたわたし。顔も名前も知らない子達もわたしに同情の声をかけ、見下ろしている。
膝の痛みはとれない。じんじん、じくじく、血が脛のあたりまで流れている。
皆に心配されているそんなわたし。転んで悲しかったのは事実だけど、何より気分は悪くなかった。
小学生の頃。男子生徒にからかわれたわたしは、ついかっといてその男子生徒を叩いたことがある。すると彼も、まさかわたしが手を挙げるとは思わなかったらしく、つい反射的にわたしを叩き返した。
肩だったと思う。乾いた音がした。本当に痛かった。泣いてやった。
すると周囲にいた数人のクラスメイトが、突如泣き出したわたしを見て目を丸くし、こちらに近づいてきた。
――おい、だいじょうぶか?
――なにがあったの?
――叩かれたの?
わたしは小さく頷き、その場でうずくまった。そしたらどんどん、どんどん人が集まってくる。わたしは皆に聞かせるように「痛かったよぅ」と泣いた。
――どうしたの?
――叩かれたんだって。
――誰に?
――あの子に。
――は? なんで?
――知らない。喧嘩じゃない?
――喧嘩だったらお前、この娘がこんなに泣く訳無いだろ。
クラスメイトに糾弾されるのは、わたしを叩いた彼。けれど彼は震えた声で弁解する。
――ち、違うって! こいつがさきに叩いてきたから、それでおれは。
誰も聞く耳をもたない。クラスメイトはわたしの前に立ちはだかり、彼から壁を作りながら言った。
――それでやり返したのか。最低だな。
――そうよ。何も泣かせるまで強く叩くなんて。
――ほんとサイテー。
涙声になり、彼はなおも自己弁護する。
――泣くなんて、おれは、おれはただ……
その後、彼はクラスで孤立した。かわいそうなことをしたと思ったわたしは、彼に謝った。その様子を見ていた一人のクラスメイトがわたしに近づき、その子を見ていたまた別のクラスメイトが近づいてきて、声をそろえてわたしに言った。
――謝ることないよ。こいつが悪いんだから。
――そうそう。キミは何も悪くない。だいじょうぶ? もう痛くない?
わたしはこくりと頷いて、自分の肩をさする。痛みは叩かれたあの瞬間からちっともなかったけれど、何気なく「ちょっと、まだ……」と言ってみた。
皆、わたしを心配してくれた。心配の目、同情の目、かわいそうなものを見る目。
わたしの口許に笑みが浮かぶのを自覚した。
中学生の頃、好きな人ができた。でもその人はわたしではなく、別の女の子が好きだったらしい。当たって砕けろの精神で告白したら、そう返された。
――ごめん、キミの気持ちはありがたいけど、僕には好きな人が……、え?
泣いてみた。
傷ついたわけでもない。悲しかったわけでもない。確かに了承してくれなかったのには少し胸を突かれた気分になったけれど、でも泣くほどでもなかった。たぶん、わたしは彼のことを好きだったけれど、本当の好きという意味合いとは別の好きだったのだと思う。
断られた時点でどうでもよかった。でも泣いてみた。
すると彼は目に見えておろおろとして、両手を忙しなく動かしながらこんなことを言った。
――ああ、いや、そんな泣かないでよ。ああ、もうどうしたら、ううん……。
泣き止もうとしたらできたけれど、そうはしなかった。このまま泣いていたら、どうなるのかな。
そう思ってただその場にうずくまり、肩を震わせた。
――その、ごめん。僕、本当に嬉しかったんだよ? 嬉しかったんだけどその、ほら……どうすればいいの。
このあと、なし崩し的に交際することになった。その場では特に進展はなかったけれど、あとになって彼と顔を合わせると、声をかけてきてくれるようになったのだ。「大丈夫?」とか「元気?」とか、そんな何気ない挨拶。
大方、罪悪感からでる言葉なのだろう。彼はわたしを泣かせたという事実をずっと胸に忍ばせ、それは毒のようにトクトクと、彼の心まで侵食して蝕んでいったのだ。それに耐えかねて、わたしに告白してきたのだ。
けれど、交際は長くは続かなかった。わたしは彼のことを好きではない。話すことも、手を繋ぐことも、キスをすることも、わたしにとってはその相手は彼ではないのだ。
でも彼にとってはそうでもなかったらしい。付き合ったからにはそれなりのことを求めてきていた。うざったくなったわたしは、ある日の昼休みの廊下、彼をわざと挑発し、彼の口から少々辛らつな言葉を引き出した。
それを聞いた刹那、わたしは泣いた。
――どうして、そんなこと言うの?
――……何でキミが泣くんだよ。だいたいキミは、
――おい! どうしたんだ?
介入してきたのは体育会系の、いかにも強そうな男子だった。名前は知らない。でも顔は見たことある。校内でも目立つ人だ。
わたしは笑い、彼にすがりついた。
――あの人が、ひどいこと言うんです。殴ってくるんです。
――なっ……? 僕は手を挙げたことなんて一度も、
――どういうことだ? 話を聞かせてくれ。
人が集まってくる。それもそうだ。昼休みの廊下、突如泣き出すわたし。目立つ男子とその矛先にいる彼。
多感な時期だ。恋愛関係のもつれは蜜の味。泣き出したわたしを見て皆が注目する。もちろん、悪者は彼。わたしは皆に心配される。
――大丈夫?
――何があったの?
――彼氏さんと何かあったのか。
わたしはその場でしゃがみこみ、膝に顔を埋めた。
誰にも見られない。誰にもわたしの顔は見えない。かわいそうなわたし。
ああ、気持ちいい……。