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誰が為の日々  作者: 織田
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失恋はチョコレートのにおい








 ふわりと香る甘くて優しいにおい、この心地よく鼻にまとわりつくような独特なにおいは、彼の大好きなチョコレートのにおいだ。

 そして、わたしのきらいなにおいでもある。


 におい自体は好きだ。むしろ部屋にこのにおいのするアロマでも置いて、胸いっぱいに吸い込みたいと思ったときもある。けれどこのにおいに意味が持たれたとき、わたしは一気に嫌になった。


 ふと目を横にやると、赤で目立つ広告が貼り出された洋菓子店があった。チョコレートの気配を漂わせているのは、あの店だ。証拠に広告の内容にはこう書かれている。


『二月十四日 バレンタインデー 仲のいい友人と、密かに想う相手に!』


 もう一年になる。

 わたしがあの広告に踊らされ、ついでに店内にいる女性店員にも煮え湯を飲まされたあの日。たぶんわたしは一生忘れないだろう。いや、女性店員にもあの広告にも悪意はなく、ましてやわたしピンポイントで狙い撃ちしたわけではないのだから、恨むのはお門違いだろう。それに、


「…………」


 それに、恨むのなら、自分のことを恨むべきなのだ。


 弱い自分、情けない自分。いまもこうしてチョコレートの香りだけで一年も前のことを思い出す女々しい自分。


 馬鹿馬鹿しいと吐き捨ててみるも、胸にある淀んだ(おり)は出ていってくれない。どろりと、まるで溶かしたチョコレートのようにそこにある。


 一年前、わたしは好きな人にチョコを渡そうとした。


 した……、したのである。渡そうとしたという未遂に終わったのである。


 彼がチョコを好きなのはリサーチ済みだった。数少ない友人になんとか頼み込み、その情報を得たわたしは、当日にここでチョコを購入した。


 渡すつもりはなかった。買うつもりも毛頭ない。リサーチしたのはただの自己満足に過ぎず、ただ彼の好みの一つを知るだけの些細なものだった。バレンタインなど、わたしには関係のないことだと言い聞かせていた。


 けれど羨望の眼差しがいやしく滲み出ていたのだろう。学校帰り、この通りで見つけたこの店。いまと同じくこの甘ったるい香りを周囲に漂わせていた。


 いつのまにか広告に視線を注いでいたわたしを捕まえたあそこの女性店員は、口達者にわたしをその気にさせ(断じて悪気はないのだが)、チョコを購入させた。


 買ったからには渡さなくてはならない。


 そう思ったわたしは急いで学校に引き返し、愛しの彼に会いに行った。


 夕暮れ時、この時期のこの時間は、あっという間に暗くなる。けれど彼は教室にいた。一人でぼんやりと、なにかを待っているみたいだった。


 チョコを期待しているのだろうか。きっとそうに違いない。

 モテるタイプではないことは知っていた。でもわたしは素朴で優しい彼を好いていた。

 わたしだけが、そう思っていた。


 息を切らしながら教室に入ったわたしを見て、彼は心底驚いたようだった。目を丸くする彼にわたしは努めて笑顔で近づいて、けれどすぐに俯いて、


「……これ」


 チョコを手渡した。

 ついさっき買ってきたもので手作りでもなんでもない風情のないものだけど、気持ちだけは本物で、わたしはあなたを好きなのだ。


 言葉にしていないのだから、そんなことが伝わるわけもなく、ただ不器用に震えた手で彼の前に差し出した。

 あのとき、彼はどんな顔をしていたのだろう。ずっと下を向いていたからわたしには想像しかできない。


 でもいまなら思う。きっと彼は、笑っていた。

 彼は笑って、こう言っていたのだ。


「おれ、甘いの無理なんだよね」


 顔を上げられなかった。

 けれど予想外の返事にわたしは少なからず動揺し、ぴくりとわずかに視線をあげた。


 床、机の脚、彼の体、机の上、彼の鞄……。


 それらだけしか見えなかったけど、わたしは全て理解した。

 どうして彼がこんな時間に一人で教室に残っていたのか。ぼんやりとしていたのか。このような返事が返ってきたのか。


「……ごめん、なさい」


 チョコを胸に抱き、わたしはその教室を逃げるようにして出て行った。


 息が詰まり、胸が痛む。そして瞼が熱くなったその裏で、机の上にあった彼の鞄がいやに焼きついている。

 開けっ放しの鞄の中に、可愛らしい紅いリボンと、口の開いた透明な袋が覗いている。


 彼は待っていたのではない。余韻に浸っていたのだ。


 教室には、甘いチョコレートのにおいがしていたのだ。


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