中途半端は嫌なんだ
「ったく、桜が咲いてるってのになんだよ、この寒さは!」
花冷え、とか花曇り、ってやつなんだろうけどさ。
やーだね、この感じは。
夜なのに、薄く雲が出ているからか、空が妙に明るく感じるよ。
こーゆー中途半端なの、嫌いなんだよね、俺。
『――中途半端は嫌なんだ』
不意に声が耳に蘇ってきて、俺は顔をしかめた。
「あーもーやだやだ。散歩なんて切り上げて、とっとと帰るか」
歩きながら上体を捻る体操を無意識にしてしまい、俺は苦笑した。
「――俺も相当、しつこいね。まだこんなにはっきり覚えてるよ……」
グラウンドの端を体操しながら歩く陸上部の面々。
その中にひときわ目立つのが、一人。
誰よりもしなやかで動きにキレがある、あいつ。
毎日のように、教室の窓から見ていた。
「阿木坂……」
卒業するまで、という条件付きでも、俺の告白を受け入れてくれた、優しい男。
思い出すと、会いたくなる。
卒業までの一年半を、とても鮮やかに思い出してしまえるから……
俺は何を思ったのか、高校でも中学と同じ、吹奏楽部を選んでしまった。
女の子ばっかりの練習に飽き飽きすると、窓辺に椅子と譜面台を引きずってって、グラウンドで練習してる運動部の奴らを見ながら、一人で練習してた。
俺、自分で云うのもなんだけど、上手かったからね。
俺一人外れたところで練習してても、誰も何も云わなかった。
それとも、云えなかったのかな?
俺、愛想良くなかったし。
……まあ、それは置いといて。
サッカー、野球、ラグビー……、コートではバスケにバレー、テニス。
運動部の中でも、特に俺の目を惹きつけたのは、陸上部だった。
ただ純粋に、速さを追求する競技。
俺はその中でも、そのころはまだ無名だった阿木坂をいつも目で追っていた。
阿木坂も、視線に気づいてか、ちらっと俺を見上げることが多かった。
まだ小柄で、少年といった雰囲気だった阿木坂は、たった一年で見違えるほどになった。
背はすらっと高くなり、声は同学年の他の誰よりも深みがあって落ち着いたバリトンに。
そしてその走力は『俊足の阿木坂』と云われるまでに。
運がいいのか悪いのか、二年に上がったとき、阿木坂はクラスメートとして俺の前に現れた。
『好きだ』
その時の俺は、何をとち狂っていたんだろう。
日直で一人教室に残っていた阿木坂を部活の途中で見かけた俺は、楽器を手にしたまま、思わず……そう、声をかけていた。
『……乃木、だっけ。
そうか。いつも俺のこと上から見てたの、お前か』
面食らいもせずに俺の顔をまじまじと見た阿木坂は、楽器に視線を落として、そう呟いた。
『やっぱり、気づいてたんだ。
で? 俺のこと、嫌い?』
『……別に。つーか、初めて話したばっかで、お前のことも、良くわかんねーし』
『じゃ、友達からでもいいからさ』
『俺、中途半端は嫌なんだ』
鞄に教科書類を詰める作業を再開しながら、阿木坂が云った。
そのとりつく島もない雰囲気に、当たり前だけどやっぱり駄目か、と諦めかけたとき。
『俺がお前を好きか嫌いか、って訊かれたら、嫌いじゃないって答える。
つきあってもいいぜ。卒業までって期限付きだけど』
『え?』
思いも寄らない答えが返ってきて、俺は心底、びっくりした。
阿木坂はキスしか許してくれなかった。
それ以外ではお互い、相手の躰には触れないと、約束を交わした。
まあ、キスするときは別として、だけどさ。
だから抱きしめられたこともないし、ましてや肌を重ねたことなどある筈もない。
それでも良かったんだ。
友人と恋人の狭間みたいなもんだったけど、誰よりも近くで、阿木坂のことを見ていられたから。
修学旅行で行った沖縄では、珍しく羽目を外した阿木坂と朝まで騒げたし、受験勉強も一緒にやった。
……そう、沖縄で、二人でテラスに出て朝日を眺めたときに、阿木坂にキスされたんだけど。
その時に阿木坂が俺の腰に腕を回しかけてやめたのを、目を開けたままキスを受けていた俺は知ってる。
ぼんやり、あー俺たち恋人同士みたいじゃん、って。
あのときだけは思ったんだよなぁ。
三年に上がって、クラスが別れて。会うのが休み時間と放課後の図書室だけになって。
阿木坂は名門私大を目指して、俺はそこそこの私大を目指して、受験勉強を始めた。
阿木坂の家にも行ったし、俺の家に呼んだこともある。
学校で会えない分、互いの時間をやりくりして、休日には必ず会ってたっけ。
俺が無理矢理に頼んだことなのに、そういえば阿木坂、嫌がらずに俺のわがままにつき合ってくれたよな。
この頃からだ。何となく阿木坂がキスを避けはじめたのは。
あと数ヶ月で別れるからかな、とあの頃は思ってたけど、不意打ちみたいなキスのあとは、阿木坂がもの言いたげに俺を見てたっけ。
なんとなく理由を訊けないまま、俺たちは大学受験を終え、そして卒業の日を迎えた。
二人とも大学は見事合格して、四月からは大学生だ。
『悪かったな、色々迷惑かけて』
『いや、それなりに楽しかったぞ、俺は』
卒業式が終わって、最後のホームルームが済んだ教室。
俺と阿木坂は、誰もいなくなった教室に残って、最後の別れをしていた。
『あ、これ、俺の新しい住所な』
俺は大学近くのアパートで独り暮らしをすることになってた。
『……』
無言でそれを受け取った阿木坂は、ポケットに紙片を入れると、机に座っていた俺の腕を掴んで、引き寄せた。
『ん……』
最後に一度だけ、阿木坂は俺を強く抱きしめた。
『さよなら』
阿木坂の顔を見ないでそう云って、俺は逃げるように教室をあとにした。
「あー、なんかすっきりした」
出会いから別れまで、思い返してみたら安っぽい恋愛ドラマみたいでなんか笑えた。
気づけば、もうアパートの前まで来ていた。
「よーし、明日っからまた頑張るぞ!」
俺は自分に気合いを入れた。
もしかしたら、新しい出会いなんてのにも巡り会えちゃったりするかも知んないしさ。
勢いよく、リズムをつけて階段を上がった俺は、登りきったところで立ちすくんだ。
「よっ」
俺の部屋のドアの前に、べったり座り込んでた男が、立ち上がって片手を上げた。
廊下の蛍光灯にぼんやりと照らされたそいつは――
「あ……阿木、坂?」
「なんかさ、卒業してから周りがスースーするんだ。で、俺なりに色々考えてみたんだけどさ、やっぱよくわかんなくて」
パンパンと尻に付いた埃を払い落としながら、阿木坂が近づいてくる。
「……」
それなのに、俺は馬鹿みたいに躰が硬直しちまってて、動けない。
「でもさ、お前に会ったら、お前に会って話をしたら、なんか判りそうな気がしたんだ」
だから会いに来た、と当たり前のように口にして、阿木坂は俺の真正面に立った。
「!」
何故か後ずさった俺は、階段から転げ落ちそうになって、阿木坂の腕に抱え込まれた。
「大丈夫か?」
後頭部を手で自分の胸に押しつけるようにして俺を抱き留めた阿木坂。
「どうして逃げるんだ?」
「に……」
逃げてなんかない。
「逃げてないなら、どうしてこんなに震えてるんだ?」
俺にも判んないよ。
「なぁ、乃木。顔、上げろよ」
今、顔を上げたら。
阿木坂の顔を見てしまったら、必死で堰き止めていたものが溢れてきてしまいそうで、俺は阿木坂のシャツをきつく掴んだ。
「!」
夜風にすっかり冷え切った、シャツ。
どれくらい、此処に座り込んでいたんだろう。
「乃木?」
「……っく」
堪えきれずに、涙が頬を伝った。
「おい、どうしたんだよ」
答えられない俺。
参ったな……と小さく呟いて、俺を抱く阿木坂の腕に力が入った。
「?」
耳元で、阿木坂が何かを囁いた。
何を云っているのか聞き取れても、俺はその意味を理解できないでいた。
「どういう、ことだ?」
涙でぐしゃぐしゃの顔で見上げると、阿木坂はまず何も云わずにポケットから取り出したハンカチで俺の顔を拭いた。
阿木坂の体温が染みこんだハンカチは、いい匂いがした。
「だから、云ったとおりの意味だって」
『好きだ』
この言葉を、額面通りの意味で受け取っても、いいのだろうか?
「俺、中途半端は嫌なんだ」
約二年前、放課後の教室で聞いた言葉を、また阿木坂が呟いた。
「物足りない気がする理由が判って、もしそれが自分の傍にあった方がいいと思うんだったら、なにがあっても俺はそれを繋ぎ止める」
「……」
俺は黙って、阿木坂の声を聞いていた。
大好きな、低音。
「さっきやっと判った。物足りない気がする理由」
俺の額と自分の額をこつんと合わせて、阿木坂が俺の目を覗き込んだ。
「約束、もう必要ないな。キスだけじゃなくて、その先まで……」
唇が触れ合いそうなほど近くで茶化すように云った阿木坂が、そのまま唇を重ねてきた。
いつ誰が通るか判らない廊下だけど、真夜中だから、ま、いいか。
「好きだぜ」
阿木坂の言葉は、唇を震わせる吐息と一緒に、今度はゆっくり、俺の心に染みこんだ。
嘘は云わない阿木坂。
信じても、いいのだろうか?
「……取り敢えず、部屋に入れよ。こんな所に長いこといたら、風邪引いちまうぞ」
俺の手を握り込んだ阿木坂の手は、冷たい。
「そしたら看病してくれるか?」
「……馬鹿」
ふざけたことをほざく阿木坂を、俺は部屋の中に押し込んだ。
新しい出会い、とは云い難いけど。
これからの季節、もしかしたら幸せに過ごすことが出来るかもしれない。
十代後半から二十代前半くらいに書いたのだろうことは、発掘したときに前後にあった文章から予想はついている。
ほんの少しでも楽しんで頂ければ幸い。