神の恩寵
原初の時代、それは漂流の時代であった。
生まれ育った土地から追放された彼らは、安住の地を求め、さすらい漂っていた。
放浪の旅は長く、苦しく、彼らはみなやせ細ろえ、赤子すら泣くことを忘れるほどであった。
その旅のさなか、周囲の山に隠されるようにして存在している、ぽっかりと開けた平野に辿り着いた時、彼らはみなみずからの目をうたがった。
そこに山のように積まれた食べ物を発見したのである。
彼らはしばしの間呆然と眺めていたが、いち早く我に返ったものが走りだしたことに気がつくと、我先にと駆け寄り、いっしんに貪った。
しかし、あせる必要はなかった。
食べ物は、彼ら全員を満たすのに充分なだけあった。
ひとしきり貪った後、彼らはすっかり重くなった腹を抱えながら近くの水場を探し、そこで眠りについた。
穏やかな夕べであった。
翌日目覚めた時、彼らは喜び、そして悲しんだ。
先日ような幸運は、もう二度とおきないと考えたのだ。
しかし、彼らの幸運は終わってはいなかった。
彼らが再び平原へ行くと、そこには先日と同様に大量の食べ物がつまれてたのだ。
すぐさま食べ物を水場へと運び、食べ、眠った。
翌日も、そのまた翌日も同様であった。
彼らは、この食べ物は神の恩寵であると考え、神に深く感謝した。
そして彼らは話し合い、平原に神殿を建て、水場に村を作り定住することを決めた。
こうして、漂流の時代は終わった。
それから長い時が流れた。
村はしだいに大きくなり、いくつもの村に分裂していった。
村々の間でいさかいが起きることもあったが、それらは平原の神殿が仲裁を行うことですぐに解決した。
神殿は穏やかな牧師であり、村々は従順な羊であった。
平和な時代であった。
しかし、そんな時代も長くは続かなかった。
時が下るにつれ、村の力はますます大きくなり、神殿の影響力はますます小さくなった。
神殿はもはや名目上の指導者に過ぎず、現世的な権力はその御者へと移っていた。
そのような情勢のなかで起きた、神殿の御者の立場をめぐっての二つの村の争いが、すべての村々を巻き込んだ戦争となることは、必然であったのかもしれない。
多くのあやまちが行われた。
多くの血が流された。
しかし、神の恩寵は、どんな時も彼らとともにあった。
戦争は永遠に続くかと思われた。
しかし、この世に不変なるものは存在しない。
最初に戦いをはじめた村たちには、充分な準備と、早期終結の為の計画があった。
しかし想定された情勢は、あくまで特定の村との戦いだけであり、周辺の村すべてが仮想敵となり、彼らの動向に常に注意を寄せないといけないような情勢ではなかった。
より多くの兵を周辺の村との境界にも展開する必要がうまれ、その結果、充分な兵力を集中できなくなった当初の主戦場では、決定的な勝利も敗北もないまま、戦いはずるずると続いた。
充分な準備をしないままで戦争に参加することになった村はもっと悲惨であった。
彼らはただただ情勢に流されるままに、場当たり的に兵を動かし、いたずらに消耗していった。
戦争は、泥沼の様相を呈していた。
どの村にも厭戦感情が蔓延し、勝利の方法よりも停戦の理由が模索されるようになった。
村たちは、ひとつ、またひとつと戦場から姿を消していった。
最後に残った村も、結局手に入ったものは荒廃した土地と、戦費に費やした膨大な負債だけであった。
こうして明確な勝者が無いまま、戦争の季節も終わりを告げた。
戦争が終わると、それまでのうっぷんを晴らすかのように、文化が爆発した。
街かどでは、画家、詩人、哲学者が、おのれの思いをぶつけあい、大学では、若い学徒たちがこの世のすべてを明らかにせんと無謀なる挑戦を続け、工房では、技術者達が競って珍奇な発明品を開発していった。
発展と退廃こそが、この時代のテーマだった。
その男が現れたのは、そんな時代だった。
幼き頃より俊英と知られ、異例の若さで大学の門をくぐることを許されたその男は、大学においても次々と革新的な論文を発表し、三十歳になるのを待たずして当代きっての知性とみなされるようになっていた。
その事件が起きたのは、平原の神殿が、当代随一の建築家の手によって大伽藍へと建て替えられた、その落成式での事だった。
請われて演説台に立った彼は、彼の名とともに歴史に残ることとなる演説を行った。
「我々が神の恩寵と呼んでいる現象は、その他の現象と同様に自然現象の一種であり、それを説明するために、神の存在を仮定する必要は無い」
彼はそう語りだし、そして続けて彼の新たな理論体系を発表した。
その理論体系の中心的となる原理は、神の恩寵が発生する間隔は、常に一定である、というものだ。
彼はこれに『恩寵間隔不変の原理』という名前を付け、彼の体系の第一公理とした。
さらに彼は、この原理を元に様々な定理、法則を導き出し、この世のすべてを説明した。
彼が示した原理と体系は、その時代であっても必ずしも最も先鋭的で、最も過激なものというわけではなかった。
それは、知識人や文化人といった人種が、彼らが集まるサロンにて語る与太話の種であった。
また、技術者たちが経験を元に理解し、彼らの発明品の開発に適用している法則でもあった。
しかし、それが神殿の聖堂という場所で語られる事は、別の意味を持っていた。
彼の理論は発表されると同時に、激しい批判にさらされた。
その時代において、神殿はすでに現世的な力を失ってはいたが、なおも彼らの精神的支柱として、尊ばれていたからだ。
特に、聖職者や老人達からの批判は、激しいものであった。
人生の大部分を神とともに過ごした彼らにとって、神の存在を否定することは、世界の否定に他ならない。
幾度も討論が行われ、幾度もの査問が行われ、幾度もの裁判が行われ、彼はついには処刑された。
しかし、彼の理論体系は消えることはなかった。
そして、信仰は敗北した。
それから、長い時が流れた。
時間という試練にさらされた彼の理論体系は、しだいに完全性を失っていった。
一つ不備が見つかるたびに、科学者達は新たな法則を発見し、体系にパッチを当て続けていたが、それがだんだんと古びていくことをとめることはできなかった。
そして、その補修作業も限界をむかえ、パラダイムの変換が起きた時、ついに彼の理論は過去のものとなった。
それから何度ものパラダイムの変換を経た現代において、彼の体系は、頭に「古典」の文字を付けて語られるものとなっている。
しかし彼が最初に定めた『恩寵間隔不変の原理』は、いずれのパラダイムにおいてもまた、不変の公理と扱われていた。
しかし、この世に不変なるものは存在しない。
彼の発見した原理も、また同様であった。
最初にそのことに気がついたのは、アマチュアの観測者だった。
彼は独自に恩寵現象の観測を続けているうちに、それが起きる間隔がときおりずれることを発見した。
彼は大喜びでこの発見を学会に報告したが、この報告が重視されることはなかった。
どの時代にも、その時代で最も支配的な理論体系を反証することだけに情熱を燃やす手合というものは存在するが、彼もまたその一種として学会では有名な人物であったからだ。
しかし、同様の報告が次々と集まり、恩寵がまったく発生しないという現象すら観測された。
あいにく恩寵は、その後しばらくしてまた通常の運行に戻ったが、この原理がすでに正当性を失っていることは、誰の目にも明らかであった。
科学者達はようやく現象を認め、原因究明へと乗り出したが、彼らが重い腰を上げて動き出した時には、事態はすでに手遅れとなっていた。
科学者たちが公式な発表を行うより先に、軽薄なマスコミはこの現象を、センセーショナルな事件として報道した。
世界は激しく動揺した。
冷静さを説く言葉は冷笑され、ただただ耳目を集めるための派手な言説ばかりがはばをきかせた。
彼らは混乱し、絶望し、救いを求めた。
この時代、信仰はすでに時代の傍流に位置していたのにもかかわらず、多くの新興宗教が興隆した。
しかしこれらの新興宗教は、いずれも古い宗教の教義を切り貼りしたものに、お決まりの終末思想を加えただけの安直な存在でしかなく、彼らのこころを真に救済することはなかった。
科学者達もまた、この事態をただ座視していたわけではなかった。
彼らは熱心に観測を続け、様々な仮説を検証し、新たなる理論体系の確立を急いだ。
そしてついに、最初の科学者が演説を行った聖堂の演説台にて、すべての事象を説明する新たなる『万物理論』が発表されようとしていた。
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「……ったく、また動いてねーじゃないか」
そう言って、男はケージに付けられた自動給餌装置を乱暴に叩いた。
この装置は設定された時間間隔ごとに、自動で給餌を行うために付いている。
ケージと一緒に買って以来、一日も休むことなく餌を与えつづけていたこの装置も、寄る年波には勝てないのか、ここ最近は正常に動作しないことが多かった。
「そろそろ修理に出すか、買い換えるかするしかないのかね……」
男は装置のカバーを外し、中身を見ながら、そうぼやいた。
しばらくのあいだ装置の内部をいじった後、修理を諦めた彼は、そばにおいてあった買い置きの餌箱を掴み、中身を餌の受け皿に流し込んだ。
すると、それを待っていたのか、白くて丸い、小さな動物たちが受け皿のまわりに集まり、いっしんに餌を食べ始めた。
これまで書いた分のショートショートは
http://ncode.syosetu.com/n6700co/
にまとめてあります。
よろしければ読んでやって下さい