夢と現 ―白い野牛―
前回、出たハンブレチアについての説明をするのを忘れていました……。すみません。ハンブレチアとは通称ビジョン・クエストと言って、夢から啓示を得ることを指します。特にこれはインディアンの成人の儀としてよく知られています。アメリカンインディアンはこれを行うことによってワカンタンカ、つまりは大いなる神秘から己への啓示を得るのです。もっと詳しく知りたい方は、ウィキペディアにも出ているのでそちらを御覧ください。正直、私の解釈を以て書いているので人それぞれ違う解釈をすると思います。ここであまり「こうだ。」と決めつけるのはいけないと思いますので。
今日も僕はあの赤い人に会っている。あのハンブレチアの出来事については僕はどうしてあんなことをしたかさっぱり覚えていない。それこそ夢現でのことだった―もちろん、ここ自体が夢の世界なのだけれど―。
どうして、僕がこんな世界を夢の中に作り出したかはわからない。ハンブレチアなんて、そんな言葉さえ知らなかったのだから。けれども、僕はこの夢の世界が大好きだ。誰も僕をいじめないし、そしてこの人は僕をとても可愛がってくれる。
柔らかな緑に覆われた丘の上、彼はその緑の絨毯に寝そべっている。その隣で僕はゆっくりと草を食む。彼が隣にいるだけでいつもよりずっとおいしく瑞々しく感じられた。僕の胸は幸せでいっぱいだった。
僕の周りにはもう仲間たちはいない。僕と彼が会うときはいつもそうだ。つまりは僕が群れから抜け出しているのだけれども。まだ、小さい僕が群れを離れるのは命がけだ。体は小さいし、角だって生えていない僕では狼や、クマにはかないっこない。だから、いつも同じ時間にこっそり群れを離れる。そうすれば、彼とうまいこと合流できるからだ。それでさえ、あの烏めは目ざとくそれを見つけてしばらく後を付けてはギャアギャアうるさいのだけれども。
僕がこの丘に来るといつだって彼は先に来ている。きっと群れを離れてやってくる僕の身を案じてのことだろう。そして、決して、僕が群れにいるときには近づかない。僕は正直、夢の中での僕の親がどれなのかはさっぱりわからないが、僕が襲われそうになったら群れの誰もが僕を守ってくれる。それはどの子供に対してもそうである。狼やクマがやってくると僕ら子供のバッファローは群れの中心に集められ、その周囲を大人たちが守る。狼やクマが襲おうものならばその力強い足で蹴飛ばしてしまうのだ。人間もまた、僕らにとっては天敵であるから群れの大人は人間に対しても神経質だ。だからなのだろう、彼はもし僕のいる群れとかち合おうものならばすぐにそっとその場を立ち去る。
僕はお腹いっぱいになって、彼の横に足を折る。そんな僕の背を彼は優しく撫でてくれてポカポカと上から照らす太陽の暖かさもあって僕はついうとうとしてしまった。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ!!
そのまま僕はストンと眠りに落ちてしまった。
夢の終わりは現実の始まりである。僕は夢の世界が恋しくて布団をぐっしょり濡らした。
現実というものからはどんな人間だって逃れることはできない。逃れようとした多くの人間はたいていは心を壊したり、その命を終えてしまうのだ。けれども、そうしたって現実から逃れられたことにはならない。心を壊しても自殺したとしてもそれは結局現実に囚われているからなのだ。
布団の中でどれだけ学校に行きたくないと思っても、親に心配をかけたくないとついつい思ってしまい、結局はいつも学校に行く。
学校に行けば待っているのはいじめだ。
うわぐつがないと思ったらゴミ箱に突っ込まれているし、机の上には「死ね」や「学校来るな」といったものからとうてい、口に出せないような罵詈雑言が油性マジックで書かれている。教師は見て見ぬふりだ。休み時間になれば殴る蹴るは当たり前だし、給食をひっくり返されるなんて序の口で時には床にこぼされた給食を犬食いすることを強制されたりもする。授業でグループを組むときには誰も僕を入れてくれない。クラスメイトは皆、いじめが自分にも及ぶかもしれないとビクビクしているのだ。
今日は最悪だった。トイレに頭を突っ込まれたのだ。それも大便器の方だ。後から水道で頭を洗ったが、不自然に頭からしずくが垂れる。晴れであったなら家に帰るまでになんとか乾くだろうし、雨だったら濡れていても不自然ではないのに中途半端な曇り空のせいで僕は濡れたままの頭で家に帰るはめになった。ついでに言うと下駄箱に入れてあった靴は中に泥がぎっしりと詰められていた。
家に帰るとすぐさま、自分の部屋へ走る。こんな姿、親には見られたくない。 僕は布団が濡れるのも気にせずに布団の中に潜り込んだ。夢の中だけ僕は自由である。結局はそれも現実に囚われているからこそ、そう思うのだろうが。




