黒の未亡人と狐の使い魔
「2週間前に夫が死んだんですよ」
マリィ・デイヴィスは小さな村に住む平凡な女性だった。
小柄な肢体は出すぎもせず引っ込みすぎもせず、顔立ちにも際立った端正さも特徴もなく、髪色だって瞳の色だって平凡なブラウン、まさに平凡。
魔法が使えるわけでもなく、特別頭がいいわけでもないが悪くもなく、運動神経だって凄いと褒められたことはないが、けなされたこともないのでやはり普通だろう。
そんな彼女は2年前に唯一の家族だった父を亡くし、先祖が建てた家で先祖が遺したというガラクタを整理したり畑を耕したりしながら1人で暮らしていた。
そして彼女は幼馴染の男性に求婚され半年前に結婚したのだが……
「ふ……ふふふふふ」
思い出すだけで腸が煮えくり返りそうだとマリィは暗く嗤って腕を擦った。
彼女の前を歩いていた同行者が「ん?」と首を傾げてマリィを見たが、彼女はそれを黙殺して、黒いレースで縁取りされたベールから覗く口元に笑みを浮かべ、淡々と話を続けた。
全く、良く晴れた森の中ではふさわしくない話だとマリィは内心1人ごちた。
「私たちは新婚でした。平凡な二人でしたがとても幸せでした。ですが……」
村に来襲した美しき吸血鬼、魔物の中でも恐ろしいそれに彼女は隠れていた自宅で夫を殺された。
夫は美しき吸血鬼の気まぐれによって下級吸血鬼にされたのだ。
これだけなら新婚夫婦の悲しい物語だろう。
真っ黒の簡素なドレスを身に纏い、慣れた仕草で裾を捌いていく彼女を同行者の男は森の中の獣道へと誘う。
この森は次の街への近道だと同行者に勧められたのだが、獣道はとても歩きづらく足が疲れてきたし、肩掛けのカバンの紐が食い込む。
口元しか見えない黒いベール、黒い靴といった弔いの色を全身に纏った彼女を、すらりとした体躯の青年は晴れた日の空のような色の瞳で見つめた。
「続きを聞くのが怖いなぁ……」
「あら、聞きたいと言ったのは貴方でしょう?コンコン」
怖いと口では言いながら男の目は好奇心で爛々と輝いている。
マリィは口元に笑みを浮かべながら、落ち着かなさげに手の甲を擦ったり、自らの両の手を絡ませたりした。
「……マ~リ~ィ、コンコンじゃないって!僕にはティルっていう名前があるんだって何度言ったらわかってくれるの」
コンコンもといティルと名乗った青年の頭には、髪色と同系色の金の毛並みの三角耳が存在していて先っちょのほうだけ白い。
枯れ草色のカーゴパンツのお尻からふっさふさの金の尻尾が伸びていて、パンツの色との色彩の対比は美しいなと、特に獣の尻尾に興味はないマリィはどうでもいいことを思った。
人懐っこそうな顔を歪ませながら煩く文句を言うティルはキツネの魔物 妖狐だ。
「下級吸血鬼となって飢えたあの人はすぐに血を求めたわ。それで村でも美少女と名高かった村長の娘さんを襲ったのよ」
「…………へ?」
胡乱な顔をしたティルを彼女は心底嫌そうに半目で見返したが、ベールを被っているのでへの字にした口元しか彼には見えなかった。
「だから目の前の私ではなく、わざわざ村の奥にある村長さんの家の娘さんを襲ったの」
思い出すだけで腹が立つとマリィの足取りは地面を抉らんばかりに荒くなった。
「吸血鬼になって性格が変わった夫が変わらない顔立ちで言ったわ。『俺は美女の血しか吸わん!!!』ってね」
「…………あー」
男の吸血鬼は美女を好む傾向にあるので、それは理解出来る。
理解は出来るが納得は出来るはずもなく、
「それでカチーンときて先祖が作ったガラクタで引っ叩いたら」
「それがかつて魔物ハンターとして有名なデイヴィス家の退魔具で、偶然発動したそれに尻尾を巻いて旦那さんも吸血鬼も逃げ出した、と」
「そうよ」
結婚までした相手は殺されて吸血鬼なって、そして目の前にいる凡庸なマリィを襲わず、遠くの美人を襲った。
何たる屈辱。
仮にも将来を誓い合い、共に半年だが暮らしたというのに、スルーされたこの悔しさ。
村長の家まで追いかけたあの当時のマリィは怒りで震えた。
震えたついでに、ついつい武器代わりに家から引っつかんで持ってきた角ばった水晶で力いっぱいぶん殴った。
「というわけで逃げた夫の死体という名の腐れ吸血鬼を捜してるの」
「……その心は」
「乙女心を踏みにじった輩には天誅をくれてやるわ」
腕を組んで仁王立ちしたマリィにティルは面白そうに笑みを浮かべた。
「こわ」
ちなみにマリィ個人は平凡で吸血鬼どころか、最下級の魔物といわれるスライムですらどうにかする力はない。
なので彼女は何故か吸血鬼を追い払うことが出来た、家にあった訳のわからないガラクタを持ち出したのだった。
2年前に亡くなった父にもこれらがどういうものかを聞いていないので、どうやって使うかはわからない。
わからないがどうにかなるさと怒りのまま、猪のごとく彼女は村から出てきた。
そうして運悪くも犠牲第二号となったのが妖狐のティルだったというわけで、彼は使い方がわからなくて不発に終わることが多い彼女の退魔具の餌食となり、使い魔となってしまったのだ。
不発に終わるのは、使い方がわからないものはひとまず魔物に向かって投げるせいだが、彼女を襲ったわけでもないのに巻き込まれたティルは不運だと自らの身を嘆いた。
けれどマリィにはティルが本当に嘆いているのか、何を考えているのかはわからなかった。
「まぁ、デイヴィス家の退魔具だったら効き目は抜群だろうね。使い方がわかれば」
「そうなんですよね」
それなりに長生きしている妖狐のティルはかつて退魔師として100年ほど前に活躍していたデイヴィス家をよく知っているらしい。
さすがに退魔される側でもある魔物の彼では使い方まではわからない。
「使い魔の契約の解除は何とかするので、それまでは申し訳ありませんが、我慢してください」
マリィの言葉にティルは目を細めて笑った。
事故で使い魔の契約がなされたわけだが、彼女はこれ幸いと契約したままにすることに気が咎めたので、吸血鬼になった夫を捜すのと同時に契約を解除する方法も探しているのだ。
魔物としては格が高い妖狐の彼がいれば、目的は容易に進むだろう。
けれど、マリィが父から受けた教育は自分でやれることは自分でやること、だった。
出来ないことと出来ることの見極め、手を貸して貰うことは恥ではないけれど、すぐに他人に頼ることは褒められたことではないと教育されてきた彼女は自分で手を下さないと意味がない、そう考えている。
そう考えてふと夫のことをマリィは思い出した。
素朴で優しい笑顔を浮かべて優しい声で「マリィ」と呼びかけて、夫が差し伸べた手は土いじりで汚れていた。
けれどマリィの胸はときめきこの上なく嬉しかったのを覚えている。
彼女は手を握り締めて俯いた。
その拍子に頭に被ったベールがずれて、マリィは慌てて押さえつけた。
(危ない)
ベールが落ちそうだったという事実に冷や汗が出そうだった。
マリィはあれ以来、誰にも顔を晒したくなくて人目がある場所ではずっと黒のベールを被って生活している。
全身黒尽くめの異様な様は辿りついた町や村で忌避される原因となっているのだが、彼女にはどうしようもなかった。
自分に自信がなかった。
平凡だと思っていたけれど、吸血鬼となった旦那が忌避するくらい酷い容姿だったのかもしれないと今は思っている。
だからマリィの容姿はティルも見たことはないし、彼は好奇心が強い狐の性分なのか見たいと駄々をこねたりもしたが、マリィの強硬な拒否によりそれは果たされていない。
「? どうしたのさ、マリィ」
「!」
下から覗きこんできたティルに驚いたマリィは反射的に装飾もないそっけない金の指輪がはまった右手で彼の頬を力強く押しのけた。
「うわっ!?」
それはあくまでか弱い女性の力だったけれど、弾くような衝撃音と共にティルの体躯は宙に吹っ飛ばされる。
狐でもある彼は空中でしなやかに一回転すると受身を取って地面に降り立った。
「ちょっとマリィ! 契約の指輪で殴るのやめてよ! 危ないじゃないかっ」
「え? あ……ごめんなさい。でも貴方が」
「心配しただけなのに!」
憤慨するティルに弁解しようとしたマリィだったが、結局黙り込んだ。
にやにやと笑っている彼は確信犯だろうが、言っても無駄だとわかりきっているだからだ。
契約の指輪を細い指先でなぞる。
これはデイヴィス家の退魔具のうちの一つで、魔物を縛り付け強制的に契約を結ぶ効果がある代物だ。
縛れるかどうかは運次第という博打要素のある代物だが、それに不幸にも事故で引っかかったのがティルでもある。
これを身に着けて拒否の感情を抱けば、ご覧の通り使い魔は吹っ飛ばされたりする。
「……ごめんなさい」
重ねて謝ったマリィに気まずくなったのかティルは視線を逸らした。
だが、すぐに耳をぴくぴくと動かすと遠くを見つめて目を細め、表情を険しくする。
「ねえ」
「はい?」
「魔物が来たみたいだよ」
遠くを見ていた彼がこちらを振り向いてにこやかに笑った。
さらりと言われた台詞にマリィは固まる。
「あーあ……、街への近道だったけど、そういえば凶暴なキラーベアがいたの忘れてた。…………ごめんね?」
狐は非常に用心深く、賢い動物で好奇心の強い動物で弱いものをいたぶるような残酷さ、狡猾さも併せ持つ。
「いいえ」
彼がこの森に誘ったことを用心すべきだったろうかとマリィは自問したが、意味のない問答に首を振った。
彼は故意ではなかったとはいえ、自分を無理矢理縛ったマリィにずっと好意的に接してくれたが、ふとした時にこちらに向ける瞳は冷たかった。
今回ももしかしたら何かあるような気がしていたが、結局のところ、彼の誘いに乗ったのは自分だ。
森の奥から葉が擦れる音が近づいてくる。
逃げたほうがいいかとも思ったが、獣タイプの魔物の足に敵うはずもないとマリィは覚悟を決めて、肩に掛けたカバンに手を突っ込んで使用方法がわからない金属で出来た円盤を取り出した。
銀色の円盤は3つの穴が開いており、重量は軽いものの縁は古代文字が刻まれ尖っている。
ひとまずいつもどおり投げるかとマリィが決意すると、後ろから声が掛かる。
「俺に命令しないの?使い魔の俺に命令すればあっという間だよ?」
「……」
確かにあっという間だろう。
狐は用心深いから自分を脅かすような危険な魔物がいる森へは絶対に入らない。
マリィはどうあれ、自分自身は無事に出てこれるからこの場所に案内したのだろう。
「しないわ」
視線を前方に向けたままそっけなく答えた。
彼はマリィが言葉違えるのを待っている。
使い魔の契約を解除する方法を見つけると言いながら、道具のように彼を使う姿を嘲笑ってやろうと待ち構えている。
茂みを掻き分けて目の前に現れた真っ黒な体毛を持つキラーベアの大きさには体が震えたけれど、ティルを呼ぶようなことはしなかった。
それはマリィの意地のようなものだった。
「ええいっ!」
渾身の力で振りかぶった円盤はキラーベアの硬い体毛に刺さっただけでポトリと下草に落ちた。
(ああ、やっぱり投げるだけじゃ無理よね)
いい加減、この道具を使う方法を知っている人間に会いたいものだと現実逃避のように考えるが、勿論それで事態が好転するわけはない。
巨体のわりに素早い身のこなしでキラーベアがマリィの襲いかからんと距離を詰めた。
「っ!!」
肉薄するキラーベアは鋭い爪を持った腕を振り上げる。
恐怖のあまり、身構えるように体を小さくしてマリィは目をつぶった。
しかしいくら待っても何の衝撃もないどころか、獣の悲鳴が聞こえ、目をつぶったままのマリィは体を竦ませる。
「!?」
「あーあ……意味わかんないよ、マリィ。死にたいわけ?」
のんびりとしたティルの声に恐る恐る目を開けた彼女の視界に映ったのは、彼の背中。
そして彼の背中越しに見える燃えるキラーベアの巨体だった。
マリィは重たい音を立てて地面に倒れこんだそれから漂ってくる異臭に息を呑んで、彼女は慌てて目を逸らした。
「何で戦えって言わないのさ?本当に意味がわかんない。何なの、君?」
へなへなと座りこんだマリィの前に、しゃがみこんで心底不思議そうに彼は首を傾げた。
「生き残りたいなら使えるものは何でも使う狡猾さも必要だよ。狐も吸血鬼も狡猾で残虐だ。君に縛られた狐は君を殺せないけど、騙したり、他の魔物に襲わせたりは出来るんだよ?それとも僕が助けに入るってわかってたわけ?そんなわけないよね。だって僕は本当に助けるつもりなかったんだからさ」
不満そうに頬を膨らませる妖狐に安心して脱力しきったマリィは力なく笑った。
膝に触れれば膝も笑っている。
「……そう、ね。でも」
「でも?」
「それをしたら貴方は、私を信じてくれないでしょう?」
何となく滑り落ちた言葉だったが、彼は変なものを見るようにマリィをまじまじと見つめた。
「……君は僕に信じて欲しいわけ?」
ますます意味がわからないと呟いたティルだったが、マリィにだってわからなかった。
ただ嫌だった、それだけだ。
子供のように「わかんないな~、ほんとわかんない」と繰り返し呟いて、首を捻っていた彼がマリィを見てにんまりと笑った。
嫌な予感がして、ドレスが汚れるのも厭わずに土の上を尻で後ずさろうとする前にティルが動く。
「えっ!?」
いつもは黒の紗越しだったのに、いきなり明るくなった視界、はっきりと見える風景。
まじまじとこちらを見つめるティルの指先にはベールの裾が摘まれていた。
「へぇ」
「~~~っ!」
顔が晒されている。
そう理解した瞬間に羞恥で顔を赤く染めたマリィは、ティルの指先を払おうと腕を振り上げようとするが、それよりも早く彼が不思議そうに首を傾げたので、彼女は動きを止めた。
「う~ん、ちゃんと人間じゃない?何で隠してるのさ、マリィ」
「うひゃあ!」
ぺろりと頬を舐められてマリィは奇声を上げて後ずさった。
ティルが指先をベールから離したので、視界がまた黒いベールで遮られるが隠されたのに動悸も頬の熱も収まらなかった。
心臓が口から飛び出そうという有り得ないことを体験した気分に陥る。
「ななななななっ!」
「ななな?」
頬を押さえたまま叫ぶマリィに、首を傾げるティルはけろりとしていた。
「何するんですかっ!なな舐めっ、舐めたっ!」
「あ~……うん。隠してるから、他の人間と何か違うのかな?と思ったけど普通だったね」
「普通って……普通って、私」
黒いベールの下でマリィは困惑したように首を振った。
普通のはずはない。
普通ならば新婚なのにあんなことにはならなかったはずだ。
あの悲劇の日にも泣かなかったのに、マリィは何だか泣きたくなった。
「……醜いのに」
だから顔を隠してたのに、と俯いてぼそぼそと言うマリィにティルは不思議そうに首を傾げた。
「そうなんだ?」
「そうなんだって……」
心底不思議そうな様子に彼女は絶句する。
「だって僕、人間の美醜ってわかんないしね。狐だし」
けろりとしたティルの態度に、何だか馬鹿らしくなってマリィは長い息を吐き出し体の力を抜くと、手に力を入れてよろよろと立ち上がった。
それを面白そうに見つめているティルは、当然のことながら手を貸そうとはせず「生まれたての鹿みたいだね」と言った。
楽しそうに、にこにこと笑う彼は何事もなかったように「じゃあ次の街に行こうか」とマリィに声を掛けると、跳ねるように歩き出す。
魔物である彼は結局のところ相容れない感覚の持ち主なのかもしれない。
ついていくのを逡巡して、頬に触れたマリィは結局ついていくことを決めて、彼の背中を追った。
今年最後の作品として、キーワードを決めて書きました。
・狐が好きだから狐を出す
・5000文字くらい
・さらっと読めるもの書けるもの
描写を削りつつも実際は6000文字ちょいくらいになってしまったんですが、さらっと読んでいただけると嬉しいです。
皆様、よいお年を~。
の前にメリークリスマス!