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麻雀牌殺人事件

作者: 香住景

 静寂が生み出す微かな耳鳴りだけが、部屋を支配していた。

 目の前に突き付けられた事態を、努めて冷静に、客観的に把握しようと試みる。しかし、足元から脳天を目指してぞろぞろと這い上がってくる恐怖は、到底自制の効くようなものではなかった。私の体は意図せず小刻みに震えている。

 この空間にいる誰もが口をきかず、ただただ押し黙っていた。私を含めて三人の男が、呼吸以外の動作を忘れてしまったかのように呆然としている。呆然と、見つめている。頭部から流れ出した血で床を染め、倒れている死体を。

 この状況を全くの他人が端から見たら、一体どんな感想を抱くだろうか。

 死体は俯せになっていて、幸いなことに無惨な死に顔を見ることはできなかった。誰も見ようとはしなかった。この部屋に入ってきて、これを目の当たりにした瞬間に、もう皆が彼の死を確信したからだ。

 とにかく、すべきことをしなければならない。一刻も早く。このままここで、なにかの儀式のように死体を見つめて直立していると、狂い出しそうだった。人間としての尊厳を失わないために、人間らしい行動をしなければ。

「警察を……」

 やっとの思いで絞り出した声は、掠れていてほとんど音になっていなかった。

 色をなくした瞳で死体を見ていた二人は、私の言葉にやっと我にかえり顔を上げると、人間らしい顔つきに戻って執拗に頷いてみせた。



「やぁ、どうもどうも! 遅くなりました」

 警察から事情聴取を受けている最中、鑑識員が奏でるシャッター音を掻き消すような陽気な声が響いた。声の主はまるで自分の家であるかのように、ずかずかとリビングまで入ってきた。自然と事情聴取も中断される。

「あ、七瀬警部、お久しぶりです。ひとつきぶりですかねぇ。なかなか協力要請の連絡がこないから、もう僕は干されたのかと思いましたよ」

「お前に頼むような事件が起こらなくてな。俺としては、今回もお前を呼ばずに解決したかったところなんだが」

 私たちに尋問していた七瀬と呼ばれた警部は、一度微かに舌打ちをして苦虫を噛み潰したような顔で彼を見た。彼は全く気にするふうでもなく、今度は私たちに視線を移す。

 一人一人を文字通り舐め回すように観察する。それから気持ち悪いくらいに作られた笑みを、その顔に張りつけた。

「初めまして! 何やら胡散臭い男が来たとお思いでしょうけど、怪しい者じゃありません。僕は警察から忌み嫌われながらも、彼らに有効な助言をもたらし事件を解決へと導く、言わば救世主です」

 そのいやに仰々しい物言いに、私の右隣に座っている入須が噴き出した。即座に右手で口許を隠し「失礼、」と言って目を伏せる。肩が震えていた。

 入須が笑っているのに気づいているのだろうが、彼はその道化のような態度を変えることなく、素早く私たち三人に名刺を渡した。黒地の紙に白い文字で印字された名前は「榎尾冬也」とあった。名前の左上には、救世主でなく私立探偵とある。

 改めて目の前の救世主を名乗る男を見る。歳は三十路を少し超えたくらいだろうか。痩身を包む黒のスーツ、黒のネクタイという出で立ちは喪服さながらである。前髪はうっとおしげに左目を覆っているのに、左右から後頭部にかけては短く刈り上げてある。黒髪の合間から覗く吊り気味の眼は、油断ならない光を宿していた。

 あまりに凝視しすぎていただろうか。不意に榎尾と目が合う。彼は一瞬眉を上げてみせてから、そのセールスマンのような笑顔を私に向けてきた。

 背筋を冷たいものが走った気がして、私はすぐに目を反らす。

「さて、僕の自己紹介が終わったところで、次は皆さんのお名前をお聞きしましょうか」

 当事者たちが口を開く前に、七瀬警部が私たちを簡単に紹介した。次いで持っている手帳をめくると、淡々と事件の状況の説明をする。榎尾のペースに呑まれまいとしているように見えた。探偵の登場に訝る私たちに、あくまで主導権は警察にあると示したいのだろう。

「被害者は菅山太一、32歳。死因は後頭部強打による脳挫傷。自室で倒れているところを発見された。死亡推定時刻は今日の午前2時から3時」

「凶器は?」

「クリスタル灰皿だ。菅山の自室の窓付近に落ちていた。指紋を拭き取ったあとがある。それからその窓なんだが、片側だけが割られていた」

「窓が割られていた……?」

「それと、不可解な点がもう一つ。被害者の両手に麻雀牌が握られていたんだが」

「麻雀牌? この家には麻雀牌があるんですか」

「菅山は大の麻雀好きでしたから。自室に自動卓、このリビングには手積み用の卓があります」

 私の横槍に榎尾は低く唸って暫く固まってしまった。

「……まぁ大体の状況は分かりました。あとで菅山さんの部屋の様子を確認しましょう。それであなた方はなぜ菅山さんの家に?」

「菅山に徹マンしようと誘われて、昨夜からここに来てるんです」

 ノンフレームの眼鏡を軽く上げて、蜂矢が答えた。この男は淡泊と言えば聞こえがいいが、普段から何に対してもあまり興味を示さない。そのため警察が来てからずっと無表情を貫いている。榎尾の登場にも、動揺しているそぶりはなかった。さすがに死体発見時は、眉間に深い皺を寄せてはいたが。

「徹マンとは?」

「徹夜で麻雀をすることです」「……七瀬警部。麻雀にお詳しいですか?」

「いや、俺はギャンブルはやらん」

 七瀬警部の言葉を聞いた榎尾は、いきなり両手で頭を掻きむしりながら意味不明な言葉を発した。暫くそうして気が済むと、腕から力を抜き体の横にだらりと下ろす。同時にがっくりとうなだれて動かなくなった。ワックスできっちりセットされていた毛髪は、あらゆる方向にはねたり飛び出したりしてしまっている。探偵の態度は先ほどまでと打って変わって、ひどく億劫そうな無気力なものになった。

「……警部。僕もね、麻雀はやらないんですよ。麻雀の牌や卓なんて見たこともないし、専門用語なんてもってのほかだ。それなのに彼らは平然と意味不明な単語を出してくる! しかも死体の両手には牌が握られていたときた! 死ぬ間際にそんなものを握る意味は?! まだ断定はできないが、もしかしたらそれは菅山なりのダイイングメッセージかもしれない。でなければ今まさに死ぬかもしれないときに牌なんて手にしないだろう。いくら菅山が麻雀好きだったとしても。しかし麻雀知識が皆無な僕は、きっとそのメッセージを解読することはできない。……駄目だ、この件は僕に向いていない。帰ります」

「お、おい、待て待て! それはいくらなんでも短気すぎるだろうが!」

 好きなだけがなり立てて出ていこうとする榎尾の腕を勢いよく掴んで、七瀬警部は必死に引き止めた。

 私は開いた口が塞がらなかった。入須はまた口許を押さえたまま体を小刻みに震わせている。蜂矢は探偵の奇行が終わるのを、じっと待っている様子だ。

 私には彼の心情がどのように変化したのか、全く理解の範疇外だった。蜂矢が「徹マン」と言うまでは至って探偵然としていたのに、これは一体どういうことだろう。相当麻雀が嫌いなのか、もしくは榎尾という男はかなりの短絡的気性の持ち主なのか。

 なんにしろ、警部の手からどうにかして逃れようと、子どものように駄々をこねている榎尾を見ていると、憐れに思えてきた。自らを救世主などと豪語していた男の、あの自信はどこへ行ってしまったのだろう。

 とにかく放っておけば、探偵と警部はいつまでも喜劇を繰り返しそうな勢いだ。私は思わず、榎尾を宥めるような言葉をかけていた。

「榎尾さん、分かりました。僕らも専門用語は使わず、解りやすいように説明します。必要でしたら麻雀のルールでもなんでも教えますよ」

「麻雀のルールを一から教わらなきゃならないのか……」

「捜査に必要なら、ですよ。とにかく早くこの事件を解決してほしいんです。そして僕ら三人の中に犯人がいないと証明してください」

「……分かりました。しかしあなた方の中に犯人はいないという証明は、おそらくできかねますがね」



 榎尾が一旦外へ煙草を吸いに行き戻ってくると、いくらか当初のような状態に回復していた。髪は乱れたままだが。

「どうも、先ほどは失礼しました。それでは昨日皆さんがここに来てからの様子を、順を追って説明していただきたいのですが」

「俺が話そう」

 これには入須が名乗り出た。

「俺たちは昨日の夕方6時頃、この家に集まりました。到着したのは蜂矢、俺、成沢の順です。リビングで暫く雑談したあと、麻雀を始めました」

「どんなことを話したんですか?」

「なに、他愛のないことですよ。この4人で会うのは久しぶりだったので、各々の近況や仕事の話などですかね」

「皆さんは被害者とどういう関係だったんですか?」

「大学の同級生です」

「なるほど。続けてください」

「はい。23時を少し回った頃だったか……菅山が急に寝ると言い出したんです。徹夜麻雀の誘いをしてきた当の本人がですよ。俺と成沢なんかは強く止めたんですが、あいつはさっさと2階の自室へ行ってしまいました。菅山が抜けてすっかり興が削がれてしまいましてね、俺達も寝ようと思って2階のあてがわれた部屋へ行ったんです」

「皆さん同じ部屋だったんですか?」

「いいえ。確認していただければ分かると思いますが、2階には菅山の部屋の他にあと3つ部屋があるんで、別々でした」

「それからは、皆さん朝まで一歩も部屋から出ていないんですか?」

 榎尾の問いに、三人揃って首を縦に振る。

「夜中になにか物音を聞いたりしませんでしたか?」

「ああ……気がつかなかった。仕事帰りにここへ来たので、横になるとすぐ爆睡してしまいました」

 入須に同調するように蜂矢も頷く。これには少し意外だった。彼は財布に入れる紙幣の向きをやたらと気にしたり、小さなことをいつまでも悩み続けたりと普段から神経質ぶりを発揮していたからだ。

 私も記憶を手繰ってみるが、怪しい物音などはしなかった気がする。窓が割られていたんだから音は確かにしたはずなんだが、まず私は一度眠ってしまうと多少の物音では目が覚めない性質なのだ。

 そんな人間の証言などあてにならないだろう。私は蜂矢と同じく小さく頷くだけで、積極的に口を挟むことを慎んだ。

「分かりました。それで、被害者を最初に発見したのはどなたですか?」

「僕です。朝7時頃、ここへ三人集まって食事をしたりテレビを見たりしていたんですが、昼になっても菅山が降りて来ないんで、様子を見に行ったんです。倒れている菅山を見つけて、すぐに階下の二人を呼びました」

 蜂矢が話している間、探偵は顎に手を置いて彼の目をじっと見ていた。蜂矢のほうも榎尾から目を反らすことなく、抑揚のない声で事実だけを述べていた。

 証言が終わると、榎尾はおもむろに立ち上がった。

「では、現場を見に行きましょうか。皆さんはここでお待ちください。ああ、そうだ。成沢さんは一緒に来ていただきましょう。被害者が持っていたという牌についてお伺いしたいのでね」


 2階へ続く階段を上がると、すぐ壁に突き当たり、右に向かって細い廊下が伸びている。左右に2部屋ずつあり、廊下を進んで最初の2部屋の右側が入須、左側が蜂矢にあてがわれた部屋だ。その奥の部屋は右側が私、左側が犯行現場である菅山の自室となる。

 廊下を行きながら榎尾にそれを伝えると、軽く相槌を打ってちらちらと左右の部屋を見ただけで、足はまっすぐ現場へと向かっていた。

 その10畳ほどある室内では、鑑識員が作業をしている最中であった。私たちはなるべく邪魔にならないよう、気をつけながら部屋へ入る。榎尾は早々に死体があった場所へ近寄っていった。

 今朝、菅山が倒れていた床には、白いテープが輪郭をかたどったように貼られていた。雀卓のすぐ脇で、両腕を少し曲げて上に伸ばした恰好だ。そのそばにはいくつかの牌と煙草の吸い殻が散乱している。

「警部、確か死体は牌を握っていたとか言っていましたね」

 警部は手帳を開くと、一枚だけ破り取って榎尾の前に差し出した。それ受け取った榎尾は露骨に眉をひそめる。

「この三種類はなんとなく読めるが……こりゃなんだろう」と紙に書かれたものを指差しながらぶつぶつと呟いていたが、やがて首を振り私にそれを突き出してきた。

「成沢さん、これらがどういった意味を示しているか分かりますか?」

 今度は私が紙を手にする番になった。

 紙のちょうど真ん中には線が引かれ、右手と左手に分けて牌の絵が書かれている。

「右の牌は(トン)ですね。同じ牌が2つなので、麻雀の中では雀頭、通常アタマと呼びます。左の牌はイーソウ、リャンピン、スーワンと読んで1、2、4を表しています。この3つが揃っても麻雀的には特に意味はありませんが」

「はぁ……アタマの牌と意味のない3つの牌。単純に考えると、この3つの頭文字が“入須”となりますねぇ」

「そんなばかな!」

 私が声を張り上げると、榎尾は大袈裟に首を竦めて口をへの字に曲げ、困ったような目で私を見た。芝居がかったその仕草は、私の怒りを大いに増幅させた。

「入須さんが菅山さんを殺害するに至った動機に、なにか心当たりはありませんか?」

「ありませんよ! 入須どころか蜂矢や僕にだって動機はありません」

「そうですか。随分仲良しだったんですね」

 なにやら馬鹿にされた気がして、喉元まで汚い言葉が出かかったが無理に飲み込んだ。冷静になるよう自分に言い聞かせる。

「別に特別仲が良かったわけではないですが、誰も菅山を殺すほど恨んではいませんよ」

「言い切りますね」

「そりゃあ友人が殺人犯だなんて、考えたくありませんから」

「しかし真実とは常に残酷なものです。僕は今のところ、貴方たち3人の中に犯人がいると思っています。さっきリビングで窓が割られていたと聞いたとき、外部犯の可能性もあると考えていましたがね。ここへ来て、それが偽装だと分かりました」

 言いながら割られた窓へと移動する榎尾に、私と警部もついていく。窓は、片側のほぼ一面が割れていた。

「床を見てください。こんなに広範囲が割れているのに、室内に落ちている破片が少ないと思いませんか? 外から侵入するために割ったのなら、普通はもっと室内に破片が飛び散るはずです」

「2階の壁もすでに調べたが、何者かが外から昇ってきた形跡はなかった」

 警部が追い打ちをかけるようにつけ加え、榎尾が満足げに頷く。私は反論できずに、床へ視線を落とした。

「本当に入須が……?」

 とてもじゃないが、信じられない。入須が人殺しをする場面を想像することだってできない。

 入須は大学時代から、快活で、人懐こい男だった。楽観的思考の持ち主で、誰とでもすぐに親しくなるから大学時代も今も彼には知り合いが多い。菅山とも不仲なようには見えなかった。

 しかし、私の見てきたものが全てではないのも事実だ。二人の間に、第三者の知り得ない何かが起こっていたのかもしれない。その可能性をも否定できるほどの情報を、私は持ち合わせていなかった。

 こちらの葛藤などお構いなしに、榎尾は現場の隅々を見て回る。

「麻雀牌が散らばっているだけで、室内は特に荒れてないなぁ。最初から殺すつもりだったかどうかはともかく、犯人は菅山さんがなにかに気をとられている隙に、後ろから殴ったんでしょう。この場合、麻雀の話でもしていたんじゃないのかな。こう、卓に向かっている間に、ガツンと」

 榎尾はまるで、事件を再現するかのように、雀卓で牌を弄るふりをしてから後頭部を押さえ、その場にうずくまった。

「けれど菅山さんは、まだ意識があったんでしょう。なんとか犯人のことを示そうと最後の力を振り絞って、例の5つの牌を両手に持ち……」

 そこまで言葉通りに実行してから、急に探偵の動きが止まった。彼は私に背を見せて卓に向かっているため、表情を伺うことはできない。

「おい、榎尾」

 警部が肩に触れると、彼はやっとこちらを向いた。けれど目は虚空を捕らえていて、なにか考えこんでいる様子だった。やがて上向かせた右の人差し指で、円を描きながら口を開く。

「あの5つの牌は、さっきの読み方で間違いないんです。それ以外は考えられないし、偶然も有り得ません。あんなに綺麗に特定の人物を指し示しているんだから。だけど、これはあまりにも出来過ぎてるとは思いませんか?」

「どういうことだ?」

 警部が尋ねると、榎尾は低く唸りながら親指を噛んだ。

「僕は後頭部を殴られたことがないのでこれは憶測でしかないですが、そんな大変な状態で、たくさんの牌から5つの牌を選別して握りこむなんて、できるんでしょうか。それに犯人を示す牌なんて、死に際でとっさに思いつきますかね」

「つまりあれは犯人が故意に握らせたものだと言うのか」

「その可能性もなくはないです。成沢さん、あなたハンカチをお持ちじゃないですか?」

 思いがけず話を振られた私は「いや」と短い返事をして首を振った。ハンカチやポケットティッシュは持ち歩かない主義なのだ。

「そうですか。いやね、ちょっとこの辺の麻雀牌を調べたいんですが、今日は愛用の手袋を忘れてきてしまいましてね」

 言い終わらないうちに、警部が自身ではめている手袋を榎尾に差し出す。

「それをやるから、あの悪趣味な手袋は捨てちまえ」

「悪趣味な手袋?」

 私が聞き返すと、警部は鼻を鳴らして実に馬鹿にしたような様子で「花柄のな」と答えた。



 現場を一通り調べ終えた私たちは、1階のリビングへ戻ってきた。ちょうど蜂矢がキッチンで珈琲を煎れている最中だった。独特の香ばしいかおりが部屋全体に充満している。

「僕も一杯貰いましょうかね。蜂矢さんが戻ってきたら、また皆さんに聞きたいことがありますので」

 どっかりとソファに腰掛けた榎尾の向かい、入須の隣に少し距離を空けて私も座る。

 警察も探偵も、私たち3人を疑っていた。私が犯人でないのは私が一番よく知っている。とすると、犯人は蜂矢か入須のどちらか、ということになる。私は死体を発見してからずっと二人と一緒だったが、どちらも必要以上に動揺していたり挙動不審な態度をとったりはしなかった。死体発見時を除いては、どちらも至極冷静だ。たった数時間前に人を殺した人間が、冷静に警察や探偵の相手をできるだろうか。私には無理だ。

 やがて盆にコーヒーカップを5つ載せた蜂矢が、キッチンから戻ってくる。それらが皆に行き渡ると榎尾が口を開いた。

「それにしても、この家は大きいですね。菅山さんは一人ものなんでしょう?」

「いいや、もうすぐ結婚するらしい」

 怠そうな声だ。入須は探偵と目を合わせずに、ソファに体を預けて天井を眺めていた。

「はぁ……結婚のために家を買ったってことですか」

「そ。俺らを呼んだのも、見せびらかしたかったんだろうな」

 浅く腰掛けて膝の上で手を組み、前屈みの姿勢で榎尾はじっと入須を見ていた。気まずい沈黙が流れるが、すぐに榎尾自身がそれを打ち破る。胸の前で両手を鳴らすと、大袈裟な笑顔で一同を見渡した。

「さて、と。実は僕ね、犯人が誰か分かってしまったんです」

「なんだって?!」 七瀬警部が榎尾の横から、今にも噛みつきそうな勢いで叫んだ。榎尾がそれを片手で制すると、まるで舞台の前口上でもするかのように芝居がかった口調で続ける。

「先ほど現場を見て、僕は様々な情報を手に入れました。まず外部犯の可能性ですが、これはまずないでしょう。確かに窓ガラスは割れていましたがね、これは明らかに部屋の中から割られているのです。外から割ったなら大抵の場合、破片が室内に多く飛び散るものです。しかし菅山さんの部屋には、外から割ったにしては明らかに破片が少ししか散乱していなかった」

 おもむろにスーツの内ポケットからシガレットケースを取り出す榎尾を、蜂矢が睨みつける。火をつける段階で榎尾がそれに気づき、両掌をこちらに向けた。

「蜂矢さんは嫌煙家ですか」

「蜂矢だけじゃなく、三人とも吸いませんよ」

 私の言葉に、探偵は観念した様子でZippoをしまう。煙草はくわえたままだ。

「まぁ、そういうわけで外部犯の線は消える。となると、犯人は貴方がたの誰か……もしくは貴方がた全員か」

「探偵さんよ。菅山は麻雀牌を握っていたんだろ。ダイイングメッセージになるうるとあんたは言ってたじゃないか。それは解読できたのかい」

 容疑者扱いされるのが心外なのだろう。入須が割って入る。榎尾はよく聞いてくれたと言わんばかりに手を打った。

「それなんですがね、ちょっと麻雀について成沢さんに聞いただけで、すぐに解読することができましたよ。入須さんのおっしゃる通り、あれは貴方がた三人のうち一人を示していました」

「誰なんだ、それは」

 榎尾はにやり、と嫌な笑い方をした。

「菅山さんが握っていた牌は、イーソウ、リャンピン、スーワン。それから(トン)が二つ。これらが意味するものは、麻雀に詳しい貴方がたならすぐにお分かりになるでしょう。そうです、菅山さんが示した人物というのは……」

 榎尾の言葉は、コーヒーカップが倒れる音で遮られた。

大袈裟に演説をしていた榎尾の腕が、目の前のコーヒーカップに当たったのだ。倒れた白い陶器からは黒々とした液体が、テーブルを伝い、フローリングに落ちていく。煎れたばかりでまだ熱さを持ったそれは、微かに白い湯気を立てていた。

 即座に立ち上がっていた榎尾は、なんとかコーヒーでスーツを汚すことを免れていたようだ。すぐさま、蜂矢がハンカチを取り出す。

「ああ、すみません。自分でやりますから、ハンカチを貸していただけますか。ちゃんと洗ってお返ししますので」

「いえ、それは差し上げますので、結構です」

 相変わらず無表情の蜂矢をちら、と見てから、榎尾は折り畳まれたハンカチを丁寧に広げた。タオルを持ってこようと私が席を立つと「成沢さん!」と強い口調で榎尾に制された。キッチンへ向けて足を差し出していた私は、そのままの体勢で振り向く。榎尾は真剣な面持ちでハンカチを凝視したままだ。

「成沢さん、席に戻ってください」

 こんなにも真剣な顔は、ここへ来て初めてだ。私は何も言えず、黙って従うほかなかった。立ち上がっていた蜂矢も、静かに腰を下ろす。入須は踏ん反り返ったまま、訝しげな目を探偵に向けていた。

「蜂矢さん。貴方は煙草を吸わないはずですよね」

「……はい」

「しかしどうしたことか、貴方のハンカチには煙草の灰のようなものが付着している。おまけに微かに煙草臭い」

 即座に七瀬警部が榎尾の手からハンカチを取り上げた。目を懲らし、鼻に近づけると「確かに」と呟く。

「凶器のクリスタル灰皿には、指紋を拭き取ったあとがありました。そして室内には吸い殻が散乱していた。このハンカチの灰は、おそらく凶器を拭いたときについたんでしょう」

 興奮気味に榎尾が言い放つ。蜂矢は何も言わなかった。判決が下るのを待っているかのように俯いて。

「麻雀牌の話に戻りましょう。同じ牌二つ――この場合は(トン)ですが――で雀頭、アタマとも言うそうですね。そしてイーソウ、リャンピン、スーワンという、麻雀のルール上では意味を成さない牌。僕はこの意味のない3つの牌の頭文字を取ってみました。すると……」

「入須……」

 入須が小さく呟く。目は見開かれ眉間はきつく寄せられて、驚きを隠せない様子だった。膝の上で固く握られた拳は微かに震えている。

「そう。でも僕は、このダイイングメッセージに疑問を持ちました。死の間際だというのに、こんなに凝ったものをすぐさま思いつくのかと。そして頭を強打されて、明滅した視界で果して5つの牌を正確に握り込むことが可能なのか。そこで僕は、菅山さんの周辺に散らばっていた牌を調べました。担当の鑑識員に話を聞いたところ、牌には菅山さん以外の指紋は見当たらなかったそうですが、一つだけ不自然に菅山さんの指紋が消えかかっているものがあったそうです。そしてその牌こそが、菅山さんが本当に示したかった人物を表しているのです。その牌は……」

 榎尾はそっと蜂矢を見た。道化のような笑みも消え去って、殺人者に対しての憎悪の色を、その目に宿していた。

八萬(パーワン)だったんですよ」



 がっくりとうなだれていた蜂矢は、上体をゆっくり起こすと焦点の合わない瞳で、どこか一点を見つめていた。貫いていた無表情はそこになく、苦悶のそれに変わっていた。

「僕が、殺しました、菅山を」

「どうして……」

 信じられなかった。信じたくなかった。こんな身近に殺人者がいることを。蜂矢は哀れみのような目で私に視線を寄越すと、小さく息を吐いた。


「お前は知らないだろうな。僕は、菅山に女を寝取られていたんだ。僕の女と知っていてだ。僕は身を引いたさ。彼女が幸せならそれでいいと思った。でも、僕の選択は間違いだった」

 そこで一度言葉を切ると、蜂矢は眼鏡を外してこめかみを押さえた。

「菅山はさんざん彼女に貢がせてから捨てたんだ。婚約までしていたのに、他に女を作って……。昨夜、僕は菅山の部屋へ行って問いただした。なぜ彼女を捨てたのか。なぜ幸せにしてやらなかったのか。そうしたらあいつ、なんて言ったと思う」

 当時の怒りが込み上げてきたのだろう。顔は蒼白で、声が震えていた。私はショックで何も言えなかった。彼らの間で、そのようなことが起こっているのを察せなかった自分に、ひどく嫌気がさしていた。けれど私がそれを知っていたところで、殺人を防げたかというと、疑問だ。私にそれほどの力があるとは思えない。結局は同じ結果になったかもしれない。

「菅山はな、ただ一言、飽きたんだと。金を出す以外はつまらない女だったと言うんだ。それを聞いた瞬間、僕は我を忘れた。菅山の注意が麻雀卓にいっている隙に、灰皿で殴った。麻雀卓に縋りつき悶え苦しむ菅山は、死ぬ直前に八萬を握りしめた。僕はやつが完全に動かなくなったあと、牌を別のものとすり替え、捜査を錯乱させるために窓ガラスを割った。大きな音が出ないよう灰皿をハンカチに包んで割ったから、誰も気づかなかったんだろう。けれど所詮は怒りに任せてやったことだ。騙し通せると思っていなかった」

「外部犯に見せかけておいて、なぜ入須さんに罪を着せるような真似を?」

 榎尾の声にびくりと体を震わせると、蜂矢は再びうなだれた。

「入須には、本当に申し訳ないことをした。僕は……万が一、警察が内部の人間の犯行と断定した場合の保険をかけたんです。麻雀牌で示せる人間は、僕以外には入須しかいなかった」



 榎尾が吐き出す紫煙が頼りなく宙を漂うのを、私は放心したまま眺めている。警察と蜂矢が去ったあとは、皆が口をつぐんでいた。あれだけ口達者だった榎尾でさえも。入須は蜂矢の独白の途中からずっと目を閉じている。

 一体どれだけの間そうしていただろうか。腕時計に目を落とすと16時12分を指していた。13時に通報を受けた警察がやってきて3時間。あの非現実は、たった3時間ほどで幕を下ろしてしまった。目の前の探偵によって。

 榎尾は煙草を携帯灰皿で揉み消すと、一息ついてソファにもたせ掛かった。

「成沢さんはいいとして、入須さん。貴方は本当に昨夜、不審な物音を聞かなかったんですか?」

「どういう意味ですか」

 私が尋ねると、榎尾は顔の前で手をひらひらさせながら「一目見て思ったが、君は鈍感そうだものね。ガラスが割れた音に本気で気づいてなさそうなのは君だけだった。僕は早い段階で君を容疑者から外したよ」などと宣った。初対面時から随分と私への接しかたが変わっているのを、彼は気づいているのだろうか。

「これはただの好奇心ですので、警戒しなくてもいいですよ。僕は警察の犬じゃありません。告げ口なんて姑息な真似はしませんので」

 入須はしばらく微動だにしなかったが、やがて目を開くと掠れた声で語り始めた。

「探偵さんの言う通り、俺はガラスが割れる音を聞いていた。扉を少しだけ開けて廊下を覗くと、ちょうど蜂矢が菅山の部屋から自分の部屋へ戻っていくところだったんだ。俺は何分か待ってから、菅山の部屋へ向かった。音を立てないよう注意してな。血を流しながら倒れている菅山を見て、驚いた。けれど助けてやろうとは思わなかった。俺もまた、菅山を憎んでいたから。俺は蜂矢の片棒を担いだんだ」

「どうして入須も……」

「菅山が近々結婚する予定だった相手は、俺の女だったからだよ。正直あいつがいなくなって清々してる。そして俺がやつを手に掛ける前に蜂矢が殺してくれて、安心してる」

 入須の言葉に、私はまた愕然とした。友人たちは私の知り得ないところで、菅山に対する憎しみを腹に溜めながらも、平然を装っていたのだ。探偵の言うことは当たっている。私はなんて鈍い男なのだろう。

 榎尾は入須の返答に、心底つまらなそうな顔をした。「痴情の縺れか」とごちると、また一本煙草を取り出した。

「でも……まさか俺が危うく犯人にされるところだったとは、思いもよらなかったよ」

 そう言って苦しそうに笑う入須を、私は直視できなかった。


・終

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― 新着の感想 ―
[良い点] 今作品の舞台設定も良いですね。家の中で起こる殺人事件、三人の容疑者、ダイイングメッセージ。好みの条件です。 短編としての分量も丁度良く、主人公成沢さんと探偵のキャラクターも味わい深いです…
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