濡れ衣で「酒に水を混ぜた」と宴に晒された令嬢は、焼き鏝を伏せて触れません——冬で、お宅の酒だけ酸っぱくなりましたわね
【秋の宴の広間】
「おや。ずいぶん薄い」
パスカル様の声より先に、杯を受け取った客の頬がゆるんだ。口をつけ、隣へ回し、わたくしを見る。笑いというものは葡萄酒より回りが早い。しかも酔わずに品性だけを落とす。たいへん便利だ。
「姉上が見ている樽だ。水を混ぜれば量は増える。嫁入りから十二年、ずいぶん賢いやり方を覚えたものだな」
「水ですって」
「まあ、伯爵家のお嬢様が」
短い言葉が卓をひと巡りして、最後には立派な罪状へ育っていた。葡萄なら豊作でございます。わたくしが育てた覚えは一房もございませんが。
杯がわたくしの前へ戻った。鼻先を寄せ、舌へほんの少し乗せる。薄い。けれど水の軽さではない。北側の三段目、七年樽。冬の前に痩せる右下の継ぎ目が、今年は早く乾いた味だった。
パスカル様は新しい外套の襟をつまみ、客たちへ見せるように胸を張っている。あの銀留め一つで樽が三本、裏地まで含めれば十四本は締められる。人の仕事を笑うために樽十四本を肩から下げるとは、豪勢な案山子ですこと。
「何か申し開きは?」
「その外套、よくお似合いですわ」
パスカル様の眉が寄った。噛み合わない返事は、噛み合う必要のない相手にたいへん有効である。
「酒の話をしている」
「ええ。わたくしも樽のことを考えておりました」
また笑いが起きた。身内は杯を掲げ、客も真似をする。パスカル様は満足そうに腕を広げた。彼の目利きで不正を暴いた、という具合に。
わたくしは杯を卓へ戻した。七年樽の右下。指一本ぶんの乾き。今ならまだ、箍を締め、二日待てば間に合う。
けれど今夜、誰も樽の話をしてはいなかった。皆さまが欲しいのは薄い酒ではなく、薄く笑える女だったのでしょう。お代は樽十四本。ずいぶん高い余興でございます。
* * *
【十日後・蔵】
ヨナタンの親指が、継ぎ目をなぞって止まった。六十二年かけて樽板に合わせたような、平たい指である。わたくしが燭台を下げると、乾いた隙間が髪の毛ほどの黒い線になって見えた。
「七年」
「北窓の三段目ですものね」
「右下」
「去年は春に一度。おととしは秋に二度締めました」
ヨナタンはうなずいた。わたくしどもは夫婦でも親子でもないが、樽の話だけなら老夫婦より通じる。世間ではそれを色気がないと申します。樽が漏れているのに色気を優先する方は、どうぞ桶を抱いてお眠りくださいませ。
「澱引きは二日ずらします。先に箍を締めて、木が戻るのを待ちましょう」
「締めるか」
「締めます。酒に罪はございませんもの」
背後で靴音が鳴った。パスカル様は蔵へ入るなり鼻を押さえた。酒蔵で酒の匂いに驚くとは、魚屋へ来た猫より覚悟が足りない。
「澱引きは明日だ。客へそう知らせてある」
「二日ずらしてくださいませ。今年は冷えが早く、継ぎ目が戻っておりません」
「また樽の機嫌か。葡萄酒は葡萄と樽でできる。暦どおりに進めればいい」
「二日を惜しんで一樽を捨てる。たいへん豪勢な節約ですこと」
パスカル様はヨナタンを見た。わたくしへ向けていた声より半分ほど太くなる。反論しない職人には、言葉もよく育つらしい。
「明日やれ。姉上は水を足した疑いがある。箍にも樽にも、勝手に触れるな」
ヨナタンは返事をしなかった。ただ、親指を継ぎ目へ当てたまま、わたくしを見た。
七年樽だけではない。入口の五年樽は左の板が痩せる。奥の十一年樽は冷え込む夜に二番箍が浮く。壁際の九年樽は北風が三日続けば口を噛む。十二年かけて覚えた癖が、蔵の暗がりで一斉にこちらを向いていた。
「承知いたしました」
わたくしは燭台を上げた。命じられたのは、箍にも樽にも触れぬこと。ならば、わたくしの判断で手を入れることはできない。
ヨナタンが七年樽を一度叩いた。鈍い音だった。
「明日じゃ遅い」
「ええ」
それだけでよかった。分かる人間が二人いても、決める人間が一人きりなら、樽はたいへん平等に酸っぱくなる。
* * *
【二十日後・宴の席】
一人目の客は、眉を上げた。二人目はひと口を飲み込めず、杯の縁を布で拭うふりをした。三人目は卓へ戻した。秋にはわたくしの一杯を掲げた手が、今夜は婚家の杯だけをそっと遠ざけている。
「酸っぱいな」
「仕込み手が手を抜いたのでは」
「今年の葡萄が悪いのだ」
パスカル様は言葉を継ぐたび大きくなった。声量で酸味が飛ぶなら、鐘楼へ樽を置けばよろしい。領内すべての酒が甘くなりますわ。
「姉上。蔵を見ていたのだろう」
「口出しはするなと承りました」
「それでも異変には気づくべきだ」
「気づいておりましたので、二日ずらすよう申し上げました」
身内の一人が皿へ目を落とし、別の客は咳をした。秋の笑いは保存が利かなかったらしい。葡萄酒より先に傷むとは、繊細なことである。
その夜、わたくしは冷えた黒パンを外套の隠しへ押し込み、自分の財布を持って蔵を出た。夕餉を座って食べる時間はない。隣家の三年樽、その向こうの六年樽、坂下の十年樽。これまで頼まれ、わたくしの印を入れた樽だけは、今夜の冷えを越せない。
箍を買うと、財布が樽二本半ほど軽くなった。もちろん樽で払ったわけではない。そんなことをすれば箍を買うための樽がなくなる。お金という仕組みを考えた方は偉い。できれば夕餉も一緒に考えていただきたかった。
「持て」
暗い路地で、ヨナタンが箍を肩へ担いだ。
「お帰りになったのでは?」
「帰った」
「では、なぜこちらに」
「来た」
説明は終わりらしい。ヨナタンの会話は樽の栓に似て、必要なところでぴたりと止まる。
代表の三年樽は戸口近くにあり、風を正面から受けていた。わたくしが焼き鏝の印を確かめ、ヨナタンが古い箍を外す。新しい鉄輪を噛ませ、交互に木槌を振るうと、乾いた板が少しずつ寄った。
「次、六年」
「坂下の十年も動いています」
「分かってる」
「わたくし、まだ何も申しておりませんけれど」
「九年前も動いた」
覚えていたのだ。あの樽を初めて締めた年も、翌年に板の向きを変えたことも。
夜半を過ぎて三樽目を終えるころには、黒パンは石材としての価値を増していた。噛めば歯が負ける。煮込みがあれば浸せるのに、と考えたところで腹が鳴り、ヨナタンがこちらを見た。
「樽ではないですわ」
「知ってる」
焼き鏝の印がある樽だけを締めた。頼まれ、責任を預けられ、わたくしが冬を越すと決めた酒だけ。それが十二年の仕事の最後になるとは、まだ口にしなかった。
* * *
【その夜・広間】
屋敷へ戻ると、宴の客がまだ残っていた。卓には酸っぱくなった杯が並び、誰も手を伸ばさない。パスカル様はわたくしの泥のついた裾を見るなり、椅子を蹴って立った。
「どこへ行っていた」
「頼まれていた樽を締めてまいりました」
「ならば、なぜうちの樽を締めなかった!」
秋には、わたくしが触れたから酒が薄くなったとおっしゃった。今夜は、わたくしが触れなかったから酸っぱくなったとおっしゃる。同じ口でここまで両側を塞げるのなら、樽の栓に雇いたいくらいである。
「異変を知りながら放っておいたのか。十二年もこの家の蔵に置いてやった恩を忘れたか」
「置いてやった」
身内がその言葉を短く重ね、パスカル様と目を合わせた。笑いかけた口が二つ、三つ。けれど秋のようには広がらない。卓の杯が、先に答えを出していた。
「お前の仕事だろう。今から全部締めろ」
わたくしは外套の内側から焼き鏝を出した。柄には十二年ぶんの手脂が染み、鉄の印には煤が残っている。これを火へ入れ、頼まれた樽へ押すたび、春まで持たせる責任がわたくしの側へ移った。
卓の端に、一つの空いた場所があった。わたくしはそこへ焼き鏝を置いた。
「印のないものには触れません」
「何を言っている。ここはお前の家だ」
「いいえ。家の酒なら、家のご判断に従います。澱引きは暦どおり。箍締めは不要。わたくしの口出しも不要。それがパスカル様のご判断でした」
「屁理屈だ!」
パスカル様の手が卓を打った。杯が揺れ、酸っぱい匂いが立つ。誰かが鼻元へ布を当て、秋に笑っていた客はその手を途中で下ろした。
「今すぐ蔵へ行け。命令だ」
わたくしは焼き鏝の柄から指を離した。
鉄が卓へ伏せられる。印の面は見えない。
七年樽の右下。十一年樽の二番箍。北窓から落ちる冷え。夜ごと指で測った板の痩せ。誰にも頼まれぬまま先回りし、朝には何もなかった顔で食卓へ戻った冬が、十二回。
「わたくしはこの一印に、十二年、この領の冬を押してまいりました」
声は震えなかった。震えてはならないからではない。もう、押すものが手の中になかった。
ドレスの袖を引かれた気がして振り返ったが、誰も触れていない。笑っていた顔が並んでいる。どの口からも、今度は何も出なかった。
いい気味ですわ、と胸の奥のわたくしが一度だけ申した。十二年も働いたのですもの。そのくらい席を譲っていただいても罰は当たりませんでしょう。
わたくしは伏せた鏝を残し、広間を出た。
* * *
【一月後・組合の老婦人の家】
「七年樽は右下。十一年樽は二番箍。九年樽は北風が三日で口が動く」
ヨナタンは暖炉の前でも、蔵にいるときと同じ声で言った。ドゥニーズ様は肘掛け椅子に座り、膝へ両手を重ねている。わたくしはその向かいで、壁の厚さを目測していた。樽を十二本並べても冬を越せそうな壁。暖炉を含めれば二十本。たいへん頼もしいお宅である。
「婚家の酒だけではないのね」
「近隣も見てた。年と癖を全部」
ドゥニーズ様の目がわたくしへ向く。低く、静かな目だった。値踏みされているのに腹が立たないのは、こちらの顔ではなく仕事を見ているからだろう。
「あの人の印が入ってたから、あの酒は冬を越してたんだ」
ヨナタンが言った。
暖炉の薪が崩れた。わたくしは膝の上で指を組み直した。誰にも見られていなかった仕事は、見られないから仕事なのだと思っていた。そう思わなければ十二年も続けられなかったし、思い込むことなら無料で、樽も一つ減らない。
「二十年前、わたしも同じ一杯で蔵を失いかけた」
ドゥニーズ様はそれ以上を話さなかった。慰めの言葉も、婚家へ仕返しをしろとも言わない。ただ卓上の杯を持ち上げ、灯りへ透かし、ひと口だけ含んだ。
「近隣の三年樽ね」
「はい。戸口で風を受けますので、今季は新しい箍へ替えました」
「自分の酒を仕込む気はあるかい」
「わたくしの、ですか」
「家の不足を埋める酒じゃない。誰かの名目を支える酒でもない。樽を選び、時を決め、失敗も出来も自分で引き受ける酒だよ」
返事を探していると、扉が開いた。大鍋を抱えた女たちが、相談の途中など知ったことかという勢いで入ってくる。
「話は食べながらにしな。冷めるよ」
「そこ、詰めて。アニェスは鍋の前」
「黒パンは浸しな。歯で戦うものじゃない」
椅子ごと鍋の前へ運ばれた。深皿へ豆の煮込みがよそわれ、黒パンまで手渡される。湯気が頬へ当たり、匙を持つ指がほどけた。
豆が温かい。パンまで温かい。冷える夜に必要なのは爵位ではなく鍋ですわ。十二年かけて、ようやく分かりました。
「どうする」
ヨナタンが短く聞いた。
わたくしは黒パンを煮込みへ沈めた。豆がしみ込み、石材から食べ物へ戻っていく。なんという奇跡。これを毎晩いただけるなら、樽五十本ぶんの壁にも負けない。
「仕込みます」
ドゥニーズ様は一度だけうなずいた。
「なら、名を決めな」
「もう持っておりますわ」
女たちが笑った。今度の笑いは、わたくしへ杯を回すためのものではなかった。
* * *
【冬・領の市】
最初の客は婚家の杯を口元まで運び、止めた。匂いを確かめ、眉を寄せ、売り台へ戻す。秋に掲げられたのと同じ形の杯が、今度は音を立てずに置かれた。
隣の台では、夜に締めた三年樽の酒が注がれていた。ひと口飲んだ客が二杯目を求め、その連れも銅貨を出す。同じ年の葡萄、ほぼ同じ手順、同じ冬。片方だけが舌を刺した。
「これは保管の場所が悪かっただけだ」
パスカル様の声が市のざわめきを割った。客の前では、相変わらずよく響く。
「家の蔵は代々続いている。うちの名を知らぬ者はいない。組合が一度見誤ったくらいで、酒の価値は変わらん」
(酒など、葡萄と樽だ。誰が仕込んでも同じことだ——)
ドゥニーズ様が杖をついて売り台の前へ立つと、パスカル様の声は急に外套の襟へ潜り込んだ。
「ドゥニーズ様。これは、その、家の名誉に関わることでして。わが家の名をご存じでしょう」
「知っているよ」
「でしたら格付けを。去年までと同じ場所へ戻していただければ、客も誤解を——」
ドゥニーズ様は婚家の杯を取った。飲み下さず、舌先で確かめ、元の場所へ置く。秋の宴で囃していた客が、目を合わせぬまま隣の台へ移った。
「あいにく、おたくの酒は並べられませんので」
「家の名を考えてください」
「杯の中身を考えた結果だよ」
組合の女が格付け札を外した。紐が木釘をこすり、札は売り台から離れてドゥニーズ様の手へ収まった。パスカル様が伸ばしかけた指は、空いた釘の前で止まった。
わたくしはその場にいなかった。裁定を見届ける時間があるなら、新しい蔵の北壁を測りたかったのである。あの壁は樽十八本ぶんの補修で風を止められる。十八本! 外套一着と少々。実に安い。
市から戻った女たちが一杯の顛末を話し、ヨナタンは外した札のことだけを告げた。
「客は?」
「置いた」
「何を」
「あの家の杯」
それで十分だった。
婚家の酒は冬の宴へ呼ばれなくなった。半年もしないうちに、パスカル様の外套の銀留めを褒めていた人々も、別の台で杯を取るようになったという。外套は十四本ぶんでも、喉を潤しませんものね。
* * *
【春・新しい蔵】
焼き鏝を火から抜くと、鉄の先が赤く息をしていた。十二年使った同じ鏝である。あの夜、卓へ伏せたものを、ドゥニーズ様が引き取ってくれていた。
老婦人は返すとき、印の面をわたくしの側へ向け直した。それだけだった。誰の家のものか、誰に許された道具か、そんな確認は一つもなかった。
目の前には、新しい蔵の最初の樽がある。板目を確かめ、鏝を押す場所を布で拭う。今までは持ち主の家の印の下へ小さく入れていた、頼まれて責任を預かった樽だけの印。婚家では一度も求められなかったそれを、今日は樽の正面へ置く。
鉄を押し当てた。
焦げた木の匂いが立つ。煙が細く上がり、樽板にわたくしの名が残った。
鏝を離しても、文字は消えない。家の名の添え物でも、誰かの目利きを支える印でもない。仕込みの時を決め、箍の代金を払い、この酒の出来を引き受ける者の名だった。
「アニェス」
女たちの一人が呼んだ。
「アニェス、最初の一本はいつ抜くんだい」
「秋までお待ちくださいませ。今抜けば、たいへん正直な葡萄汁です」
「待たせるねえ」
「待つのも仕込みのうちですわ。豆の煮込みを出していただければ、わたくしは何年でも待てますけれど」
「三杯までだよ」
「樽で数えてくださらない?」
笑いが蔵の梁へ上がった。ヨナタンは何も言わず、次の樽をこちらへ転がしてくる。最初の樽とぴたり並べ、平たい親指で正面を一度叩いた。
「八年もつ」
「十年もたせます」
「箍が先に負ける」
「では替えましょう。わたくしの財布でなく、蔵の帳面から!」
「進歩したな」
ヨナタンにしては長い褒め言葉である。樽一本ぶんはありそうだ。これは大切に胸へしまって、利息をつけて老後に返して差し上げよう。
門の外で馬車が止まった。女たちの笑いが少しだけ薄れ、ヨナタンが扉の方を見る。
パスカル様が立っていた。冬より痩せた外套は同じもので、銀留めだけが妙に大きく見える。蔵へ入ろうとして、ヨナタンの肩に道を塞がれた。
「姉上。話がある」
「こちらで伺います」
「家の酒が売れない。客も来ない。樽師を雇っても、どれを締めればいいか分からないと言う。十二年見ていたのは姉上だろう」
後ろで、女たちが最初の樽を囲んで待っている。焼き鏝はわたくしの手にあり、まだ熱を残していた。
「戻ってくれ」
パスカル様の声は、秋の広間ほど大きくなかった。
「蔵だけでいい。以前のように見てくれれば、宴の件は不問にする。家の者にも、姉上を責めないよう言っておく。箍の代金も——」
「印のないものには触れません」
パスカル様の口が開いた。けれど、もう受け取る言葉はない。わたくしは門の内側へ一歩戻り、ヨナタンが扉を閉めた。
「アニェス、火が弱くなるよ!」
「今まいります!」
名を呼ばれた。誰かの不足を埋めるためではなく、わたくしの酒を待つ人から。
焼き鏝をもう一度火へ入れる。女たちは鍋の相談を始め、ヨナタンは三本目の樽を転がしてくる。豆が温かく煮えるまでに、あと二樽は押せそうだ。
わたくしは自分の名が赤く焼けるのを待った。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




