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請求書3027枚、夫君はもうお読みになる権利がございませんが?

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/29

「君は、請求書ばかり見ているね」


 夫君エセルバートの冷笑が、夜会の戻りの馬車の中で、ぽとりと落ちた。


「貴族の妻が、いつまでも金勘定をしているなんて、みっともない」


 私は、紅茶のカップを口元から下ろした。


 3度、湯気を見つめてから、また下ろした。


「夫君。請求書をご覧にならない貴族の妻は、領地を1つ、消費なさいますわ」


「……は?」


「先月のグリュンヴァルト伯爵家の支出超過は、2300金貨。内訳は、宝石店『七つ星』が1200金貨」


「な、なぜ、お前がそれを」


「シュテルンベルク伯爵令嬢が、ご病弱でいらしたお身体で、お選びになったそうですね」


「……」


「絹織物の店『月の絹』の店主からは、お詫び状が届いておりました。『ご病弱のお嬢様を5人がかりでお支えしながらドレスをお試しいただくのは、当店、開業以来、最大の業務でございました』と」


「……」


「『青い鳥』の店主は、新しい7段積みのマカロン塔の試作を、進めていらっしゃるそうです。ご病弱の方の、たってのご要望で」


「……」


「5人がかりで支えられ、7段積みのマカロン塔を完食できるご病名を、私は存じ上げません」


 夫君は、馬車の窓のほうへ、視線をお逃がしになった。


 その視線の先──公爵家の屋敷の、門柱の陰。


 灰色の外套をきちんと羽織った男性のお姿が、ちらりと、見えた気がした。


 王宮会計監査局・副長官、ヴェルナー・フォン・アドラーシュタイン卿。


 家門会計法理事の、ご子息。


(なぜ、こんな夜更けに、この道筋に)


「アグネス、聞いているのか」


「はい」


「僕はね、君と離縁したいと思っているんだ」


「申し訳ありません」


「申し訳ない、で済ませる癖をやめてくれないか」


「いえ、夫君のおっしゃる『離縁』を、お引き受けしたうえでの、申し訳ない、でございます」


「……は?」


 私は、紅茶のカップを、膝の上の絹のハンカチの上に置いた。


 カップは、震えなかった。


「離縁の手続き、本日中に進めて参ります。ただ、1つだけ、確認をさせてくださいませ」


「な、何だ」


 私は、ハンドバッグの中から、薄い革表紙の帳面を取り出した。


「グリュンヴァルト伯爵家の請求書、ここ10年分。3027枚ございます」


「……それが何だ」


「全て、私の字で、署名されております」


「……」


「家門会計法第23条をご存じですか、夫君」


 馬車の蹄の音だけが、夜の静寂に、こつ、こつ、と響いた。


「当主が会計実務を委任し続けた場合──実務担当者は、当主代理権を発動する権利を有する」


「な、何を言っているんだ」


「離縁の手続き、私のほうで進めて参ります。ただ、廃嫡されるのが──どちらか、ということだけ、ご記憶ください」


 夫君は、口を開けたまま、何も仰らなかった。


 私は、もう一度、馬車の窓の外を見た。


 灰色の外套の男性のお姿は、もう、見えなかった。


 ただ、私の頬の内側を、何かが、ゆっくりと、撫でていく感触だけが、残っていた。


(私の請求書を、もしや、どこかで、お読みくださっていたのでしょうか)


 紙のように平たい納得が、私の中に、すとんと、落ちてきた。


 ♢


 翌朝、私は、グリュンヴァルト伯爵邸の書斎にいた。


 書斎の窓辺には、私が嫁いだ10年前から、ずっと、変わらぬ位置に、革表紙の帳面が積み上がっている。


 ハインリッヒが、眼鏡の縁を、長い指で押し上げた。


「奥様。家門会計法第23条発動のための、当主代理権発動申請書、こちらでございます」


 ハインリッヒは、グリュンヴァルト家の家令にして、当家の会計補佐官。


 私が嫁いだ10年前から、ずっと、私の隣で、請求書の山を、整理し続けてくださっていた方。


「ハインリッヒ。証言、お願いできますか」


「もちろんでございます。請求書3027枚の署名筆跡、10年間の出納帳、領地経営の月次決算──全て、奥様のお手によるものと、私が証言いたします」


「ありがとうございます」


「奥様」


 ハインリッヒは、眼鏡を、もう一度、押し上げた。


「お疲れ様でございました。10年間」


 私は、口を、開きそうになった。


 開きそうになって、閉じた。


 紙のように平たい納得は、感情の言葉に、変わらなかった。


「いえ。仕事ですから」


「仕事、でございましたか」


「はい」


 ハインリッヒは、それ以上は、何も言わなかった。


 ただ、机の上の、革表紙の帳面の山に、もう一度、目を落とした。


「奥様」


「はい」


「アドラーシュタイン卿が、本日、王宮会計監査局の門前で、奥様をお待ちでございます」


「……どうして、そのことを」


「卿のご使者が、本日早朝、こちらへいらっしゃいました」


「……」


「奥様のご署名のための証人を、ご自身でお引き受けくださると」


 私は、革表紙の帳面の表紙に、指先を、軽く触れた。


 紙の感触は、10年前と、変わらなかった。


 ただ、表紙の角だけが、少しだけ、擦り切れていた。


 ♢

 その日の午後、私は、王宮会計監査局の門前にいた。


 申請書を提出するため。


「アグネス嬢」


 門の前で、その方は、私をお待ちになっていた。


 ヴェルナー・フォン・アドラーシュタイン卿。


 王宮会計監査局の制服の上に、薄い灰色の外套を、きちんと羽織っていらした。


「ヴェルナー様」


「家門会計法第23条、発動のお手続きでいらっしゃいますか」


「はい」


「……お一人で、よろしいのですか」


「はい」


 ヴェルナー卿は、少しだけ、首を傾げられた。


「貴女は、書類に署名をなさるとき、必ず、一度ペンを置き、もう一度持ち直されます」


「……え」


「お茶を口に運ばれる前には、湯気を、3度、見つめてから召し上がります」


「……」


「夕刻、馬車に乗られる前、御者に必ず、一礼をされます。10年、欠かさず」


「……」


「グリュンヴァルト伯爵領の、収穫祭の朝。貴女は、必ず、領主館の窓から、領民の方々の様子を、半時ほど、お見守りになります。私は、その時間を、欠かさず、書面でお見受けしておりました」


 私は、ヴェルナー卿のお顔を、見上げた。


 ヴェルナー卿は、私と目が合うと、ほんの少しだけ、耳の縁を、赤くなさった。


「……失礼いたしました」


「いえ」


「ですから、私は、貴女がお一人で参られると思っておりました。お一人で、全てを片付けるおつもりだと、判断いたしました」


「……はい」


「相互報告と、認識いたしました」


「相互、ですか」


「はい」


 ヴェルナー卿は、ご自分の鞄から、薄い革表紙の帳面を、取り出された。


 帳面の表紙は、私の手元の帳面と、よく似た色をしていた。


 ただし、ヴェルナー卿のものは、表紙の角が、私のものより、少しだけ、丁寧に扱われていた。


「グリュンヴァルト伯爵家の請求書、過去10年分の写し。私のほうでも、独自に保管しておりました」


「……どうして」


「家門会計法理事の補佐として、業務優先と、判断いたしました」


 ヴェルナー卿は、ぱたんと帳面を閉じた。


 そして、お続けになった。


「……業務外でしたが」


「……え」


「業務外でしたが、お読みしておりました。3027枚、全てを」


 ヴェルナー卿の耳の縁が、もう一段、赤くなさった。


 私は、ハンドバッグの持ち手を、強く握った。


 指の関節が、白くなった。


(私の、たった一人だけ、見ていてくださった方が、いらしたの)


(ずっと、ずっと、いらしたの)


「ヴェルナー様」


「はい」


「申請書の証人欄に、ご署名を、お願いできますでしょうか」


「終身、お受けいたします」


「……今日のことです」


「失礼いたしました。本日のご署名のことを、申し上げました」


 ヴェルナー卿は、咳払いを一つなさってから、ペンをお取りになった。


 ペンを取られる前に、一度、卓の上にお置きになり、もう一度、お持ち直しになった。


(うつっていらっしゃいますわ)


 私は、口元を、ハンカチで、そっと押さえた。


 私は、申請書を差し出した。


 ♢


 家門会議の招集状が、グリュンヴァルト伯爵家に届いたのは、その3日後だった。


 招集状を見た夫君エセルバートは、書斎のテーブルを、一度、強くお叩きになった。


「家門会議だと? なぜ僕に何の相談もなく」


「家門会計法第23条第3項。当主代理権を発動した者は、家門会議を直接召集する権利を有します」


「アグネス、お前は……」


「ハインリッヒ。今月の領地収支、ご報告ください」


 ハインリッヒが、眼鏡を押し上げ、書類をめくった。


「奥様。先月の支出超過は、2300金貨。主たる費目は、シュテルンベルク伯爵令嬢に納めた、宝石店『七つ星』の請求書、1200金貨。鹿狩り3頭分の馬車手配料、400金貨。白百合の花束、月20束、未払い分が300金貨」


「白百合の花束、未払いなのですか」


「花屋が、最も、怒っておりました」


「マカロンは、どちらの店からですか」


「中央広場の『青い鳥』。6段積みのマカロン塔を、シュテルンベルク伯爵令嬢が、お一人で完食された日の請求書が、90枚ほど」


「……6段積みを、お一人で」


「はい」


 夫君は、口を開けたまま、何も仰らなかった。


「夫君」


「……何だ」


「シュテルンベルク伯爵令嬢が、ご病弱でいらしたと、伺っておりましたが」


「……」


「6段積みのマカロン塔を完食できる病名を、私は、存じ上げません」


「……」


「ハインリッヒ。他にございますか」


「はい。狩猟舞踏会、連続3日間。シュテルンベルク伯爵令嬢、障害柵を7つ越えられたそうです。お馬の保険料、50金貨」


「……7つ越えられて、ご病弱、なのですか」


「同感でございます」


「他には」


「楽器店『黄金の弦』からの請求書。シュテルンベルク伯爵令嬢、新型の竪琴を7台、ご注文。総額800金貨」


「……竪琴を、7台」


「はい。書面によりますと、お一人で同時に、7台、お弾きになるご予定だとか」


「……7台、ご同時に、お一人で」


「両手で同時に7台、お弾きになれるご病名を、私は存じ上げません」


「同感でございます」


「最後に、図書館への寄贈報告書がございます。シュテルンベルク伯爵令嬢、ご病気療養のため、ベッドの上で書物を執筆中。題名『病弱令嬢の社交録──300日の踊り場にて』」


「……300日、踊り場で」


「踊り場、と書いて、舞踏会の意味だそうでございます」


「ご病弱でいらしたお身体で、300日連続でご舞踏なさるご病名を、私は存じ上げません」


「同感でございます」


 夫君は、書斎を、出て行かれた。


 ハインリッヒが、眼鏡を、もう一度、押し上げた。


「奥様」


「はい」


「『青い鳥』の店主が、シュテルンベルク伯爵令嬢のために、新しい7段積みのマカロン塔の試作を、進めておるそうでございます」


「7段、ですか」


「はい」


「……7段は、無理ではないでしょうか」


「同感でございます」


 ♢


 家門会議の前夜、夫君は書斎にこもられた。


 ──以下、夫君エセルバートの独白──


 俺は、ずっと、正しかった。


 伯爵家の当主として、社交を仕切り、議会に通い、王宮の宴に顔を出した。


 経理だの、領地だの、そういう細かいことは、妻に任せておけばいい。


 それが、貴族の正しいあり方だ。


 アグネスは、つまらない女だ。


 夜会で気の利いたことが言えない。


 舞踏会で美しく踊れない。


 王宮の方々の前で、僕の顔を立てることができない。


 イゾルデは違う。


 イゾルデは、僕の隣で、笑い、踊り、輝いてくれる。


 イゾルデといるとき、僕は、本当の伯爵だ。


 イゾルデの宝石は、僕の伯爵家の格を、貴族界に示す印だ。


 イゾルデのドレスは、僕の品位を、王宮に見せる旗だ。


 イゾルデのマカロンは──マカロンは──まあ、あれは、彼女の楽しみだから、仕方ない。


 僕は、僕は──正しかったのだ。


 しかし。


 机の上の、家門会議招集状を、僕は、もう一度、開いた。


「家門会計法第23条第3項。当主代理権発動者:アグネス・フォン・グリュンヴァルト伯爵夫人」


 ……当主代理権?


 僕が、当主だ。


 僕は、当主だ。


 僕は、グリュンヴァルト伯爵家の、当主だ。


 なぜ、アグネスが当主代理権を、発動できるのだ。


 僕は、書斎の引き出しから、過去10年の領地決算書を、取り出した。


 1枚目。署名:アグネス・フォン・グリュンヴァルト。


 2枚目。署名:アグネス。


 3枚目。署名:アグネス。


 ……。


 100枚目。署名:アグネス。


 1000枚目。署名:アグネス。


 3000枚目。署名:アグネス。


 僕の字は、どこにもなかった。


 僕は、書斎の壁の、額縁を見上げた。


 そこには、10年前、僕とアグネスが結婚した日の、肖像画が、飾られていた。


 肖像画の中の僕は、笑っていた。


 肖像画の中のアグネスは、僕の隣で、革表紙の帳面を、すでに、お手に持っていた。


 ……あの日から、彼女は、ずっと。


 僕は、机に、両手をついた。


 僕は、立ち上がろうとして、足が震えた。


 僕は、自分の腹を見た。


 腹が、出ていた。


 僕は、自分の足を見た。


 足が、引きずられていた。


 僕は、口元を、手で覆った。


 ……酒臭かった。


 馬車の中で、アグネスが言った言葉が、よみがえった。


「廃嫡されるのが──どちらか、ということだけ、ご記憶ください」


 待て。


 待ってくれ。


 僕の10年の署名は、全部──


 全部、アグネスの字、だったのか。


 僕は、机の上の、決算書の山を、両手で、ぐしゃりと握った。


 紙の音が、書斎に、こすれて鳴った。


 その音は、10年間、夜ごとアグネスが、ペンを走らせていた、あの音だった。


 僕は、初めて、その音を、自分の耳で、聞いた気がした。


 ♢


 家門会議は、グリュンヴァルト本邸の大広間で開かれた。


 長老格の叔父、4人の親族長、家門会計法理事の代理として、ヴェルナー・フォン・アドラーシュタイン卿。


 夫君は、私の正面に、座っていらした。


 イゾルデ・フォン・シュテルンベルク伯爵令嬢は、その日、欠席。


 代わりに、シュテルンベルク家の家令から、書状が届いていた。


「シュテルンベルク家は、本日、リープクネヒト侯爵家との婚約を、正式に発表いたしました」


 ヴェルナー卿が、書状を読み上げられた。


 夫君が、椅子から、半分立ち上がりかけた。


「な、何を言っているんだ。イゾルデは、僕と──」


「リープクネヒト侯爵令息様との婚約契約書、本日付で、王宮婚姻局に受理されております。確認済みでございます」


 夫君は、もう一度、椅子に、深く、座り込まれた。


 ハインリッヒが、眼鏡を押し上げた。


「奥様。会計報告を、開始してよろしいでしょうか」


「お願いいたします」


 ハインリッヒは、淡々と、10年分の決算書を、長老方の前に並べた。


「第1条:10年間の領地経営、全ての署名はアグネス様のもの。当主エセルバート様のご署名は、ゼロでございます」


 長老方が、書類を、めくった。


「第2条:過去3年、シュテルンベルク伯爵令嬢へのご贈答費用、累計5200金貨。全てグリュンヴァルト伯爵家の経費より支出。当主のご許可印は、ございません」


「ば、馬鹿な。僕は許可した。許可したぞ」


「ご許可印は、書面に存在いたしません。口頭のご許可は、家門会計法では認められておりません」


「……」


「第3条:領地の年間収支は、過去10年、黒字でございます。これは全て、アグネス様の経営手腕によるものと、家令一同、書面にて証言済み」


 長老の一人が、ゆっくりと、口を開かれた。


「アドラーシュタイン卿。家門会計法第23条に基づき、当主代理権の発動条件は、満たしておりますか」


 ヴェルナー卿が、立ち上がられた。


「満たしております。10年間の継続的委任、および、書面による実務独占。条件は完備でございます」


「では、本会議の議決を、求めます」


 長老方は、書面に、印を押された。


 4人とも、即座に。


「グリュンヴァルト伯爵家、当主、エセルバート・フォン・グリュンヴァルト──廃嫡」


「家門当主代理権、アグネス・フォン・グリュンヴァルトに、終身委任」


「将来の家門継承権につきましても、アグネス殿に一任」


 夫君は、椅子から、立ち上がろうとなさった。


 立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。


「ま、待ってくれ。アグネス、頼む。僕は、僕は──」


 私は、夫君のお顔を、見た。


 足を引きずり、腹が出て、酒の匂いがする男性が、私の正面で、口を、ぱくぱくと、開けていた。


 私は、その方の名前を、ほんの少しだけ、思い出すのに、時間がかかった。


「……どちら様でしたかしら」


 長老方が、書類を、まとめ始められた。


 その男性は、最後まで、何も言わなかった。


 ♢


 家門会議の後、私は、書斎に戻った。


 ヴェルナー卿が、扉の前で、お待ちになっていらした。


「アグネス嬢」


「ヴェルナー様」


「お話しさせていただいても、よろしいですか」


「どうぞ」


 ヴェルナー卿は、書斎に入られると、革表紙の帳面を、机の上に、そっと置かれた。


 その帳面を見て、私は、初めて、気が付いた。


 帳面の表紙には、小さな、紙の栞が、挟まっていた。


 栞は、私が3年前、領地経営の月次決算書に、押し花として挟んでいた、白い小花。


 そのときの花は、領地の収穫祭で、領民の少女が、私にくださったもの。


「……これは」


「貴女が、3か月後の決算書に、花が一輪、足りなくなっていたとお書きになった。私は、それを、ずっと、お預かりしておりました」


「……」


「貴女がお書きになった3027枚、全て、私が1枚ずつ、お読みしました。10年、欠かさず」


 私は、ティーカップを持つ手を、止めた。


 カップが、かすかに、震えた。


 ずっと、誰かに、見ていてくださっていたの。


 私の、たった一人だけ、見ていてくださった方が、いらしたの。


「……ヴェルナー様」


「はい」


 声が、震えた。


「私は、ずっと──誰かに、私の請求書を、読んでいてほしかった、のかもしれません」


 それは、私が10年ぶりに、自分の口から零した、感情の言葉だった。


 ヴェルナー卿は、ティーカップを、ご自分の手に取られて、湯気を、3度、見つめられた。


「アグネス嬢」


「はい」


「私の手元には、貴女の10年分の請求書の、写しがあります」


「はい」


「これからの10年も、40年も、終身、お読みしてよろしいでしょうか」


「……」


「許可、相槌、いずれでも、構いません」


 ヴェルナー卿のお声は、いつもの淡々とした業務報告の声と、よく似ていた。


 ただ、その声の奥に、私が知っている、紙の上の文字が、10年分、並んでいた。


「ヴェルナー様」


「はい」


「もし、私が、お受けしないと申し上げたら」


「業務外の損失と、認識いたします」


「……業務外、ですか」


「はい」


「業務外でも、ご負担になりますか」


「終身、引きずります」


 私は、ティーカップを、置いた。


「ヴェルナー様」


「はい」


「終身、引きずらせるのは、私の本意ではございません」


「では」


「許可、でございます」


 ヴェルナー卿は、ご自分のお手で、ご自分の口元を、お押さえになった。


「……アグネス嬢」


「はい」


「もう一度、おっしゃっていただけますか」


「許可、でございます」


「……3度目を、お願いしてもよろしいですか」


「ヴェルナー様、業務報告は2度確認で十分とお伺いしました」


「業務報告ではなく、相互報告ですので」


「では、相互、でございます」


 ヴェルナー卿の、耳の縁が、いつもより一段、深く、赤くなさった。


 そして、ご自分のお手を、私のほうへ、お差し出しになった。


 私は、ヴェルナー卿の、お手の上に、私の手を、重ねた。


 ヴェルナー卿は、お手を、引かれなかった。


 ただ、ご自分のお手を、もう少し、私のほうへ、寄せてくださった。


 ヴェルナー卿のお手は、紙のように、薄く、温かかった。


 そのとき、扉が、こつこつと、叩かれた。


「失礼いたします。業務報告でございます」


 ハインリッヒが、眼鏡を、押し上げながら、入ってきた。


「ヴェルナー様、家門会計法第23条発動の、最終報告書、こちらでございます」


「ありがとう、ハインリッヒ」


「……お取り込み中でございましたか」


「相互報告中だ」


「業務報告と、認識いたしました」


 ハインリッヒは、書類を置いて、扉のほうへ、向かった。


 そして、扉を閉める前に、もう一度、振り返った。


「奥様」


「はい」


「7段積みのマカロン塔の試作、本日、失敗したそうでございます」


「……失敗ですか」


「はい。3段目で崩れたそうです」


「……3段目で」


「はい」


「『青い鳥』の店主は、どう仰っていますか」


「『この世に7段は、無理だ』と」


「同感でございます」


「同感でございます」


「ヴェルナー様は、いかが思われますか」


「……」


「ヴェルナー様」


 ヴェルナー卿は、私の手をお取りになったまま、お顔を、お上げにならなかった。


 ハインリッヒが、もう一段、眼鏡を、お押し上げになった。


「ヴェルナー様。ご回答を、お待ちしております」


「ハインリッヒ」


「はい」


「7段の話は、私は、業務外と判断する」


「業務外、でございますか」


「相互報告中だ」


「了解いたしました。業務外と、書面に残します」


 ハインリッヒは、扉を、静かに、閉めた。


 ヴェルナー卿が、私の手を、もう一度、お取りになった。


「アグネス」


「はい」


「マカロン塔の話は、もう、よろしいですか」


「はい」


「では、結婚の話を、いたしましょう」


「相互、ですか」


「相互、でございます」


 ヴェルナー卿は、私のお顔を、ご自分のほうへ、ほんの少しだけ、引き寄せられた。


 ヴェルナー卿の唇が、私の額に、軽く、触れた。


「……ヴェルナー様」


「はい」


「許可、でございます」


「相互、でございます」


 ヴェルナー卿の唇が、今度は、もう少しだけ、下に、降りていらした。


 ♢


 その夜、ヴェルナー卿のお屋敷の書斎にて。


 私が、知らないところで。


 ヴェルナー卿は、暖炉の前の椅子に、お座りになっていた。


 机の上には、3通の報告書が、並んでいた。


 ヴェルナー卿は、1通目を、お手に取られた。


「シュテルンベルク伯爵令嬢、リープクネヒト侯爵家より、婚約解消通告。理由──累計借金、1800金貨。リープクネヒト侯爵家、肩代わりを拒否」


 2通目を、お手に取られた。


「シュテルンベルク伯爵令嬢、過食の発作にて『青い鳥』にて療養中。7段積みのマカロン塔の試作品を、お一人で、5段目までご賞味になり、店主に賠償を請求された」


「『この世に7段は、無理だ』と、店主は最後まで申しておったそうだ」


 ヴェルナー卿は、ほんの一度だけ、お笑いになった。


 そして、3通目を、お手に取られた。


「グリュンヴァルト前伯爵、エセルバート──辺境の村にて、隣人と諍い。殴打により全治3か月の怪我を負う。男爵爵位への降格処分」


「足を引きずり、腹を出し、酒臭く、隣人に『お前はもう、誰でもない』と申されたそうだ」


 ヴェルナー卿は、その3通の報告書を、暖炉の火に、1通ずつ、ゆっくりと、お投げ入れになった。


 そして、誰にも聞こえぬ声で、呟かれた。


「アグネスには、お聞かせする必要のないお話だ」


 火が、静かに、報告書を、呑み込んだ。


 紙が、火の中で、軽く、こすれて鳴った。


 その音は、10年間、夜ごとアグネスが、ペンを走らせていた、あの音と、よく似ていた。


 ヴェルナー卿は、もう一度、暖炉の火を、見つめられた。


 そして、もう1通だけ、机の引き出しから、お取り出しになった。


 それは、10年前、グリュンヴァルト伯爵家の婚姻誓約書の、写しだった。


 ヴェルナー卿は、その紙を、暖炉に投げ入れず、ご自分の鞄の中の、革表紙の帳面に、そっと、お挟みになった。


「これだけは、お預かりしておこう」


 私は、そのことを、生涯、知ることはなかった。


 ♢


 数か月後。


 私とヴェルナー様の婚姻誓約書に、署名をする日。


 ヴェルナー様は、ペンを、一度、置かれた。


 そして、もう一度、持ち直された。


「ヴェルナー様」


「はい」


「私の癖が、うつりました」


「はい」


「申し訳ありません」


「私が、お預かりしたものですから」


「……はい」


 ヴェルナー様は、誓約書に、ご署名なさった。


 私も、署名した。


 ハインリッヒが、扉の外から、また、報告に来た。


「ご結婚の祝儀、お受け取り終わりました。3027件、全て」


「……3027件、ですか」


「奥様の10年の労に、お祝いを送りたかったご親族・関係者の皆様、全員でございます」


「……」


「相互保管確認、完了いたしました」


「ありがとう、ハインリッヒ」


 ハインリッヒは、扉を、閉めた。


 ヴェルナー様が、書斎の机の上の、革表紙の帳面に、お手をお置きになった。


「アグネス」


「はい」


「来期の請求書も、ご一緒に、お読みしてよろしいでしょうか」


「はい」


「許可、ですか」


「相互、でございます」


 私は、ヴェルナー様のお手の上に、私の手を、重ねた。


 革表紙の帳面の、紙の感触が、私の手のひらに、伝わってきた。


 請求書が、温かい。


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