請求書3027枚、夫君はもうお読みになる権利がございませんが?
「君は、請求書ばかり見ているね」
夫君エセルバートの冷笑が、夜会の戻りの馬車の中で、ぽとりと落ちた。
「貴族の妻が、いつまでも金勘定をしているなんて、みっともない」
私は、紅茶のカップを口元から下ろした。
3度、湯気を見つめてから、また下ろした。
「夫君。請求書をご覧にならない貴族の妻は、領地を1つ、消費なさいますわ」
「……は?」
「先月のグリュンヴァルト伯爵家の支出超過は、2300金貨。内訳は、宝石店『七つ星』が1200金貨」
「な、なぜ、お前がそれを」
「シュテルンベルク伯爵令嬢が、ご病弱でいらしたお身体で、お選びになったそうですね」
「……」
「絹織物の店『月の絹』の店主からは、お詫び状が届いておりました。『ご病弱のお嬢様を5人がかりでお支えしながらドレスをお試しいただくのは、当店、開業以来、最大の業務でございました』と」
「……」
「『青い鳥』の店主は、新しい7段積みのマカロン塔の試作を、進めていらっしゃるそうです。ご病弱の方の、たってのご要望で」
「……」
「5人がかりで支えられ、7段積みのマカロン塔を完食できるご病名を、私は存じ上げません」
夫君は、馬車の窓のほうへ、視線をお逃がしになった。
その視線の先──公爵家の屋敷の、門柱の陰。
灰色の外套をきちんと羽織った男性のお姿が、ちらりと、見えた気がした。
王宮会計監査局・副長官、ヴェルナー・フォン・アドラーシュタイン卿。
家門会計法理事の、ご子息。
(なぜ、こんな夜更けに、この道筋に)
「アグネス、聞いているのか」
「はい」
「僕はね、君と離縁したいと思っているんだ」
「申し訳ありません」
「申し訳ない、で済ませる癖をやめてくれないか」
「いえ、夫君のおっしゃる『離縁』を、お引き受けしたうえでの、申し訳ない、でございます」
「……は?」
私は、紅茶のカップを、膝の上の絹のハンカチの上に置いた。
カップは、震えなかった。
「離縁の手続き、本日中に進めて参ります。ただ、1つだけ、確認をさせてくださいませ」
「な、何だ」
私は、ハンドバッグの中から、薄い革表紙の帳面を取り出した。
「グリュンヴァルト伯爵家の請求書、ここ10年分。3027枚ございます」
「……それが何だ」
「全て、私の字で、署名されております」
「……」
「家門会計法第23条をご存じですか、夫君」
馬車の蹄の音だけが、夜の静寂に、こつ、こつ、と響いた。
「当主が会計実務を委任し続けた場合──実務担当者は、当主代理権を発動する権利を有する」
「な、何を言っているんだ」
「離縁の手続き、私のほうで進めて参ります。ただ、廃嫡されるのが──どちらか、ということだけ、ご記憶ください」
夫君は、口を開けたまま、何も仰らなかった。
私は、もう一度、馬車の窓の外を見た。
灰色の外套の男性のお姿は、もう、見えなかった。
ただ、私の頬の内側を、何かが、ゆっくりと、撫でていく感触だけが、残っていた。
(私の請求書を、もしや、どこかで、お読みくださっていたのでしょうか)
紙のように平たい納得が、私の中に、すとんと、落ちてきた。
♢
翌朝、私は、グリュンヴァルト伯爵邸の書斎にいた。
書斎の窓辺には、私が嫁いだ10年前から、ずっと、変わらぬ位置に、革表紙の帳面が積み上がっている。
ハインリッヒが、眼鏡の縁を、長い指で押し上げた。
「奥様。家門会計法第23条発動のための、当主代理権発動申請書、こちらでございます」
ハインリッヒは、グリュンヴァルト家の家令にして、当家の会計補佐官。
私が嫁いだ10年前から、ずっと、私の隣で、請求書の山を、整理し続けてくださっていた方。
「ハインリッヒ。証言、お願いできますか」
「もちろんでございます。請求書3027枚の署名筆跡、10年間の出納帳、領地経営の月次決算──全て、奥様のお手によるものと、私が証言いたします」
「ありがとうございます」
「奥様」
ハインリッヒは、眼鏡を、もう一度、押し上げた。
「お疲れ様でございました。10年間」
私は、口を、開きそうになった。
開きそうになって、閉じた。
紙のように平たい納得は、感情の言葉に、変わらなかった。
「いえ。仕事ですから」
「仕事、でございましたか」
「はい」
ハインリッヒは、それ以上は、何も言わなかった。
ただ、机の上の、革表紙の帳面の山に、もう一度、目を落とした。
「奥様」
「はい」
「アドラーシュタイン卿が、本日、王宮会計監査局の門前で、奥様をお待ちでございます」
「……どうして、そのことを」
「卿のご使者が、本日早朝、こちらへいらっしゃいました」
「……」
「奥様のご署名のための証人を、ご自身でお引き受けくださると」
私は、革表紙の帳面の表紙に、指先を、軽く触れた。
紙の感触は、10年前と、変わらなかった。
ただ、表紙の角だけが、少しだけ、擦り切れていた。
♢
その日の午後、私は、王宮会計監査局の門前にいた。
申請書を提出するため。
「アグネス嬢」
門の前で、その方は、私をお待ちになっていた。
ヴェルナー・フォン・アドラーシュタイン卿。
王宮会計監査局の制服の上に、薄い灰色の外套を、きちんと羽織っていらした。
「ヴェルナー様」
「家門会計法第23条、発動のお手続きでいらっしゃいますか」
「はい」
「……お一人で、よろしいのですか」
「はい」
ヴェルナー卿は、少しだけ、首を傾げられた。
「貴女は、書類に署名をなさるとき、必ず、一度ペンを置き、もう一度持ち直されます」
「……え」
「お茶を口に運ばれる前には、湯気を、3度、見つめてから召し上がります」
「……」
「夕刻、馬車に乗られる前、御者に必ず、一礼をされます。10年、欠かさず」
「……」
「グリュンヴァルト伯爵領の、収穫祭の朝。貴女は、必ず、領主館の窓から、領民の方々の様子を、半時ほど、お見守りになります。私は、その時間を、欠かさず、書面でお見受けしておりました」
私は、ヴェルナー卿のお顔を、見上げた。
ヴェルナー卿は、私と目が合うと、ほんの少しだけ、耳の縁を、赤くなさった。
「……失礼いたしました」
「いえ」
「ですから、私は、貴女がお一人で参られると思っておりました。お一人で、全てを片付けるおつもりだと、判断いたしました」
「……はい」
「相互報告と、認識いたしました」
「相互、ですか」
「はい」
ヴェルナー卿は、ご自分の鞄から、薄い革表紙の帳面を、取り出された。
帳面の表紙は、私の手元の帳面と、よく似た色をしていた。
ただし、ヴェルナー卿のものは、表紙の角が、私のものより、少しだけ、丁寧に扱われていた。
「グリュンヴァルト伯爵家の請求書、過去10年分の写し。私のほうでも、独自に保管しておりました」
「……どうして」
「家門会計法理事の補佐として、業務優先と、判断いたしました」
ヴェルナー卿は、ぱたんと帳面を閉じた。
そして、お続けになった。
「……業務外でしたが」
「……え」
「業務外でしたが、お読みしておりました。3027枚、全てを」
ヴェルナー卿の耳の縁が、もう一段、赤くなさった。
私は、ハンドバッグの持ち手を、強く握った。
指の関節が、白くなった。
(私の、たった一人だけ、見ていてくださった方が、いらしたの)
(ずっと、ずっと、いらしたの)
「ヴェルナー様」
「はい」
「申請書の証人欄に、ご署名を、お願いできますでしょうか」
「終身、お受けいたします」
「……今日のことです」
「失礼いたしました。本日のご署名のことを、申し上げました」
ヴェルナー卿は、咳払いを一つなさってから、ペンをお取りになった。
ペンを取られる前に、一度、卓の上にお置きになり、もう一度、お持ち直しになった。
(うつっていらっしゃいますわ)
私は、口元を、ハンカチで、そっと押さえた。
私は、申請書を差し出した。
♢
家門会議の招集状が、グリュンヴァルト伯爵家に届いたのは、その3日後だった。
招集状を見た夫君エセルバートは、書斎のテーブルを、一度、強くお叩きになった。
「家門会議だと? なぜ僕に何の相談もなく」
「家門会計法第23条第3項。当主代理権を発動した者は、家門会議を直接召集する権利を有します」
「アグネス、お前は……」
「ハインリッヒ。今月の領地収支、ご報告ください」
ハインリッヒが、眼鏡を押し上げ、書類をめくった。
「奥様。先月の支出超過は、2300金貨。主たる費目は、シュテルンベルク伯爵令嬢に納めた、宝石店『七つ星』の請求書、1200金貨。鹿狩り3頭分の馬車手配料、400金貨。白百合の花束、月20束、未払い分が300金貨」
「白百合の花束、未払いなのですか」
「花屋が、最も、怒っておりました」
「マカロンは、どちらの店からですか」
「中央広場の『青い鳥』。6段積みのマカロン塔を、シュテルンベルク伯爵令嬢が、お一人で完食された日の請求書が、90枚ほど」
「……6段積みを、お一人で」
「はい」
夫君は、口を開けたまま、何も仰らなかった。
「夫君」
「……何だ」
「シュテルンベルク伯爵令嬢が、ご病弱でいらしたと、伺っておりましたが」
「……」
「6段積みのマカロン塔を完食できる病名を、私は、存じ上げません」
「……」
「ハインリッヒ。他にございますか」
「はい。狩猟舞踏会、連続3日間。シュテルンベルク伯爵令嬢、障害柵を7つ越えられたそうです。お馬の保険料、50金貨」
「……7つ越えられて、ご病弱、なのですか」
「同感でございます」
「他には」
「楽器店『黄金の弦』からの請求書。シュテルンベルク伯爵令嬢、新型の竪琴を7台、ご注文。総額800金貨」
「……竪琴を、7台」
「はい。書面によりますと、お一人で同時に、7台、お弾きになるご予定だとか」
「……7台、ご同時に、お一人で」
「両手で同時に7台、お弾きになれるご病名を、私は存じ上げません」
「同感でございます」
「最後に、図書館への寄贈報告書がございます。シュテルンベルク伯爵令嬢、ご病気療養のため、ベッドの上で書物を執筆中。題名『病弱令嬢の社交録──300日の踊り場にて』」
「……300日、踊り場で」
「踊り場、と書いて、舞踏会の意味だそうでございます」
「ご病弱でいらしたお身体で、300日連続でご舞踏なさるご病名を、私は存じ上げません」
「同感でございます」
夫君は、書斎を、出て行かれた。
ハインリッヒが、眼鏡を、もう一度、押し上げた。
「奥様」
「はい」
「『青い鳥』の店主が、シュテルンベルク伯爵令嬢のために、新しい7段積みのマカロン塔の試作を、進めておるそうでございます」
「7段、ですか」
「はい」
「……7段は、無理ではないでしょうか」
「同感でございます」
♢
家門会議の前夜、夫君は書斎にこもられた。
──以下、夫君エセルバートの独白──
俺は、ずっと、正しかった。
伯爵家の当主として、社交を仕切り、議会に通い、王宮の宴に顔を出した。
経理だの、領地だの、そういう細かいことは、妻に任せておけばいい。
それが、貴族の正しいあり方だ。
アグネスは、つまらない女だ。
夜会で気の利いたことが言えない。
舞踏会で美しく踊れない。
王宮の方々の前で、僕の顔を立てることができない。
イゾルデは違う。
イゾルデは、僕の隣で、笑い、踊り、輝いてくれる。
イゾルデといるとき、僕は、本当の伯爵だ。
イゾルデの宝石は、僕の伯爵家の格を、貴族界に示す印だ。
イゾルデのドレスは、僕の品位を、王宮に見せる旗だ。
イゾルデのマカロンは──マカロンは──まあ、あれは、彼女の楽しみだから、仕方ない。
僕は、僕は──正しかったのだ。
しかし。
机の上の、家門会議招集状を、僕は、もう一度、開いた。
「家門会計法第23条第3項。当主代理権発動者:アグネス・フォン・グリュンヴァルト伯爵夫人」
……当主代理権?
僕が、当主だ。
僕は、当主だ。
僕は、グリュンヴァルト伯爵家の、当主だ。
なぜ、アグネスが当主代理権を、発動できるのだ。
僕は、書斎の引き出しから、過去10年の領地決算書を、取り出した。
1枚目。署名:アグネス・フォン・グリュンヴァルト。
2枚目。署名:アグネス。
3枚目。署名:アグネス。
……。
100枚目。署名:アグネス。
1000枚目。署名:アグネス。
3000枚目。署名:アグネス。
僕の字は、どこにもなかった。
僕は、書斎の壁の、額縁を見上げた。
そこには、10年前、僕とアグネスが結婚した日の、肖像画が、飾られていた。
肖像画の中の僕は、笑っていた。
肖像画の中のアグネスは、僕の隣で、革表紙の帳面を、すでに、お手に持っていた。
……あの日から、彼女は、ずっと。
僕は、机に、両手をついた。
僕は、立ち上がろうとして、足が震えた。
僕は、自分の腹を見た。
腹が、出ていた。
僕は、自分の足を見た。
足が、引きずられていた。
僕は、口元を、手で覆った。
……酒臭かった。
馬車の中で、アグネスが言った言葉が、よみがえった。
「廃嫡されるのが──どちらか、ということだけ、ご記憶ください」
待て。
待ってくれ。
僕の10年の署名は、全部──
全部、アグネスの字、だったのか。
僕は、机の上の、決算書の山を、両手で、ぐしゃりと握った。
紙の音が、書斎に、こすれて鳴った。
その音は、10年間、夜ごとアグネスが、ペンを走らせていた、あの音だった。
僕は、初めて、その音を、自分の耳で、聞いた気がした。
♢
家門会議は、グリュンヴァルト本邸の大広間で開かれた。
長老格の叔父、4人の親族長、家門会計法理事の代理として、ヴェルナー・フォン・アドラーシュタイン卿。
夫君は、私の正面に、座っていらした。
イゾルデ・フォン・シュテルンベルク伯爵令嬢は、その日、欠席。
代わりに、シュテルンベルク家の家令から、書状が届いていた。
「シュテルンベルク家は、本日、リープクネヒト侯爵家との婚約を、正式に発表いたしました」
ヴェルナー卿が、書状を読み上げられた。
夫君が、椅子から、半分立ち上がりかけた。
「な、何を言っているんだ。イゾルデは、僕と──」
「リープクネヒト侯爵令息様との婚約契約書、本日付で、王宮婚姻局に受理されております。確認済みでございます」
夫君は、もう一度、椅子に、深く、座り込まれた。
ハインリッヒが、眼鏡を押し上げた。
「奥様。会計報告を、開始してよろしいでしょうか」
「お願いいたします」
ハインリッヒは、淡々と、10年分の決算書を、長老方の前に並べた。
「第1条:10年間の領地経営、全ての署名はアグネス様のもの。当主エセルバート様のご署名は、ゼロでございます」
長老方が、書類を、めくった。
「第2条:過去3年、シュテルンベルク伯爵令嬢へのご贈答費用、累計5200金貨。全てグリュンヴァルト伯爵家の経費より支出。当主のご許可印は、ございません」
「ば、馬鹿な。僕は許可した。許可したぞ」
「ご許可印は、書面に存在いたしません。口頭のご許可は、家門会計法では認められておりません」
「……」
「第3条:領地の年間収支は、過去10年、黒字でございます。これは全て、アグネス様の経営手腕によるものと、家令一同、書面にて証言済み」
長老の一人が、ゆっくりと、口を開かれた。
「アドラーシュタイン卿。家門会計法第23条に基づき、当主代理権の発動条件は、満たしておりますか」
ヴェルナー卿が、立ち上がられた。
「満たしております。10年間の継続的委任、および、書面による実務独占。条件は完備でございます」
「では、本会議の議決を、求めます」
長老方は、書面に、印を押された。
4人とも、即座に。
「グリュンヴァルト伯爵家、当主、エセルバート・フォン・グリュンヴァルト──廃嫡」
「家門当主代理権、アグネス・フォン・グリュンヴァルトに、終身委任」
「将来の家門継承権につきましても、アグネス殿に一任」
夫君は、椅子から、立ち上がろうとなさった。
立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。
「ま、待ってくれ。アグネス、頼む。僕は、僕は──」
私は、夫君のお顔を、見た。
足を引きずり、腹が出て、酒の匂いがする男性が、私の正面で、口を、ぱくぱくと、開けていた。
私は、その方の名前を、ほんの少しだけ、思い出すのに、時間がかかった。
「……どちら様でしたかしら」
長老方が、書類を、まとめ始められた。
その男性は、最後まで、何も言わなかった。
♢
家門会議の後、私は、書斎に戻った。
ヴェルナー卿が、扉の前で、お待ちになっていらした。
「アグネス嬢」
「ヴェルナー様」
「お話しさせていただいても、よろしいですか」
「どうぞ」
ヴェルナー卿は、書斎に入られると、革表紙の帳面を、机の上に、そっと置かれた。
その帳面を見て、私は、初めて、気が付いた。
帳面の表紙には、小さな、紙の栞が、挟まっていた。
栞は、私が3年前、領地経営の月次決算書に、押し花として挟んでいた、白い小花。
そのときの花は、領地の収穫祭で、領民の少女が、私にくださったもの。
「……これは」
「貴女が、3か月後の決算書に、花が一輪、足りなくなっていたとお書きになった。私は、それを、ずっと、お預かりしておりました」
「……」
「貴女がお書きになった3027枚、全て、私が1枚ずつ、お読みしました。10年、欠かさず」
私は、ティーカップを持つ手を、止めた。
カップが、かすかに、震えた。
ずっと、誰かに、見ていてくださっていたの。
私の、たった一人だけ、見ていてくださった方が、いらしたの。
「……ヴェルナー様」
「はい」
声が、震えた。
「私は、ずっと──誰かに、私の請求書を、読んでいてほしかった、のかもしれません」
それは、私が10年ぶりに、自分の口から零した、感情の言葉だった。
ヴェルナー卿は、ティーカップを、ご自分の手に取られて、湯気を、3度、見つめられた。
「アグネス嬢」
「はい」
「私の手元には、貴女の10年分の請求書の、写しがあります」
「はい」
「これからの10年も、40年も、終身、お読みしてよろしいでしょうか」
「……」
「許可、相槌、いずれでも、構いません」
ヴェルナー卿のお声は、いつもの淡々とした業務報告の声と、よく似ていた。
ただ、その声の奥に、私が知っている、紙の上の文字が、10年分、並んでいた。
「ヴェルナー様」
「はい」
「もし、私が、お受けしないと申し上げたら」
「業務外の損失と、認識いたします」
「……業務外、ですか」
「はい」
「業務外でも、ご負担になりますか」
「終身、引きずります」
私は、ティーカップを、置いた。
「ヴェルナー様」
「はい」
「終身、引きずらせるのは、私の本意ではございません」
「では」
「許可、でございます」
ヴェルナー卿は、ご自分のお手で、ご自分の口元を、お押さえになった。
「……アグネス嬢」
「はい」
「もう一度、おっしゃっていただけますか」
「許可、でございます」
「……3度目を、お願いしてもよろしいですか」
「ヴェルナー様、業務報告は2度確認で十分とお伺いしました」
「業務報告ではなく、相互報告ですので」
「では、相互、でございます」
ヴェルナー卿の、耳の縁が、いつもより一段、深く、赤くなさった。
そして、ご自分のお手を、私のほうへ、お差し出しになった。
私は、ヴェルナー卿の、お手の上に、私の手を、重ねた。
ヴェルナー卿は、お手を、引かれなかった。
ただ、ご自分のお手を、もう少し、私のほうへ、寄せてくださった。
ヴェルナー卿のお手は、紙のように、薄く、温かかった。
そのとき、扉が、こつこつと、叩かれた。
「失礼いたします。業務報告でございます」
ハインリッヒが、眼鏡を、押し上げながら、入ってきた。
「ヴェルナー様、家門会計法第23条発動の、最終報告書、こちらでございます」
「ありがとう、ハインリッヒ」
「……お取り込み中でございましたか」
「相互報告中だ」
「業務報告と、認識いたしました」
ハインリッヒは、書類を置いて、扉のほうへ、向かった。
そして、扉を閉める前に、もう一度、振り返った。
「奥様」
「はい」
「7段積みのマカロン塔の試作、本日、失敗したそうでございます」
「……失敗ですか」
「はい。3段目で崩れたそうです」
「……3段目で」
「はい」
「『青い鳥』の店主は、どう仰っていますか」
「『この世に7段は、無理だ』と」
「同感でございます」
「同感でございます」
「ヴェルナー様は、いかが思われますか」
「……」
「ヴェルナー様」
ヴェルナー卿は、私の手をお取りになったまま、お顔を、お上げにならなかった。
ハインリッヒが、もう一段、眼鏡を、お押し上げになった。
「ヴェルナー様。ご回答を、お待ちしております」
「ハインリッヒ」
「はい」
「7段の話は、私は、業務外と判断する」
「業務外、でございますか」
「相互報告中だ」
「了解いたしました。業務外と、書面に残します」
ハインリッヒは、扉を、静かに、閉めた。
ヴェルナー卿が、私の手を、もう一度、お取りになった。
「アグネス」
「はい」
「マカロン塔の話は、もう、よろしいですか」
「はい」
「では、結婚の話を、いたしましょう」
「相互、ですか」
「相互、でございます」
ヴェルナー卿は、私のお顔を、ご自分のほうへ、ほんの少しだけ、引き寄せられた。
ヴェルナー卿の唇が、私の額に、軽く、触れた。
「……ヴェルナー様」
「はい」
「許可、でございます」
「相互、でございます」
ヴェルナー卿の唇が、今度は、もう少しだけ、下に、降りていらした。
♢
その夜、ヴェルナー卿のお屋敷の書斎にて。
私が、知らないところで。
ヴェルナー卿は、暖炉の前の椅子に、お座りになっていた。
机の上には、3通の報告書が、並んでいた。
ヴェルナー卿は、1通目を、お手に取られた。
「シュテルンベルク伯爵令嬢、リープクネヒト侯爵家より、婚約解消通告。理由──累計借金、1800金貨。リープクネヒト侯爵家、肩代わりを拒否」
2通目を、お手に取られた。
「シュテルンベルク伯爵令嬢、過食の発作にて『青い鳥』にて療養中。7段積みのマカロン塔の試作品を、お一人で、5段目までご賞味になり、店主に賠償を請求された」
「『この世に7段は、無理だ』と、店主は最後まで申しておったそうだ」
ヴェルナー卿は、ほんの一度だけ、お笑いになった。
そして、3通目を、お手に取られた。
「グリュンヴァルト前伯爵、エセルバート──辺境の村にて、隣人と諍い。殴打により全治3か月の怪我を負う。男爵爵位への降格処分」
「足を引きずり、腹を出し、酒臭く、隣人に『お前はもう、誰でもない』と申されたそうだ」
ヴェルナー卿は、その3通の報告書を、暖炉の火に、1通ずつ、ゆっくりと、お投げ入れになった。
そして、誰にも聞こえぬ声で、呟かれた。
「アグネスには、お聞かせする必要のないお話だ」
火が、静かに、報告書を、呑み込んだ。
紙が、火の中で、軽く、こすれて鳴った。
その音は、10年間、夜ごとアグネスが、ペンを走らせていた、あの音と、よく似ていた。
ヴェルナー卿は、もう一度、暖炉の火を、見つめられた。
そして、もう1通だけ、机の引き出しから、お取り出しになった。
それは、10年前、グリュンヴァルト伯爵家の婚姻誓約書の、写しだった。
ヴェルナー卿は、その紙を、暖炉に投げ入れず、ご自分の鞄の中の、革表紙の帳面に、そっと、お挟みになった。
「これだけは、お預かりしておこう」
私は、そのことを、生涯、知ることはなかった。
♢
数か月後。
私とヴェルナー様の婚姻誓約書に、署名をする日。
ヴェルナー様は、ペンを、一度、置かれた。
そして、もう一度、持ち直された。
「ヴェルナー様」
「はい」
「私の癖が、うつりました」
「はい」
「申し訳ありません」
「私が、お預かりしたものですから」
「……はい」
ヴェルナー様は、誓約書に、ご署名なさった。
私も、署名した。
ハインリッヒが、扉の外から、また、報告に来た。
「ご結婚の祝儀、お受け取り終わりました。3027件、全て」
「……3027件、ですか」
「奥様の10年の労に、お祝いを送りたかったご親族・関係者の皆様、全員でございます」
「……」
「相互保管確認、完了いたしました」
「ありがとう、ハインリッヒ」
ハインリッヒは、扉を、閉めた。
ヴェルナー様が、書斎の机の上の、革表紙の帳面に、お手をお置きになった。
「アグネス」
「はい」
「来期の請求書も、ご一緒に、お読みしてよろしいでしょうか」
「はい」
「許可、ですか」
「相互、でございます」
私は、ヴェルナー様のお手の上に、私の手を、重ねた。
革表紙の帳面の、紙の感触が、私の手のひらに、伝わってきた。
請求書が、温かい。
【作者から読者様へお願いがあります】
少しでも、
「面白い!」
「続きが気になる!」
と思っていただけましたら、
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