第10話:パレードの生贄と、闇を裂く閃光
血のように赤黒く染まった空の下、静まり返った遊園地のメインストリート。
私は息を呑み、目の前の光景に後ずさりした。
ズズ……ズズズ……。
どす黒いタールのような瘴気が沼のように溢れ出したのだ。
意思を持った生き物のように形を変え、無数の黒い手となって、アスファルトの上を猛スピードでこちらへ向かって這い進んでくる。
(逃げるしかない……!)
頭に乗せられていたふざけたウサギの耳が吹き飛ぶのも構わず、私は奥歯を強く噛み締め、踵を返して全力で走り出した。
悲鳴を上げて立ち尽くすような余裕はない。月給一〇〇万円の契約書にサインした時から、自分の身は自分で守らなければならないと腹は括っていた。
陸から押し付けられたパンツスーツは動きやすく、足元が走りやすいフラットシューズだったことだけが、今の私の唯一の救いだった。
「ハァッ、ハァッ……!」
背後からズルリ、ベチャリと、粘り気のある水音がものすごい速さで追いかけてくる。
振り返らなくてもわかる。
圧倒的な悪意が、すぐそこまで迫っている。
(どこへ逃げればいい!? 出口なんてわからない、なら……!)
私は走りながら周囲を見渡した。 どす黒く変色した遊園地の建物はすべて腐りかけた肉のように不気味に脈打っている。
インカムのスイッチを押すが、相変わらずザザッという砂嵐の音しか聞こえない。通信は完全に遮断されている。
その時、右手にあったポップコーンのワゴンが、突如として爆発したように弾け飛んだ。
「きゃっ!」
飛んできた破片を腕で庇いながら躱す。
見るとワゴンの残骸から、人間の腕の太さほどある黒い触手が何本も生え出し、私を捕らえようと鞭のようにしなってきた。
「冗談じゃない……!」
私は咄嗟に近くにあった鉄製のゴミ箱を蹴り倒し、触手の軌道を逸らした。
ガコンッ!という鈍い音と共に触手がゴミ箱に絡みつく隙に、さらに先へと走る。
だが、遊園地全体がすでに怪異の胃袋と化していた。
広場の中央にあるメリーゴーランド。白馬たちがドロドロの黒い泥のように溶け出し、巨大な波となって私に向かって雪崩れ込んできたのだ。
「嘘でしょ……!?」
さすがの私も全方位から迫る異常現象に絶望しかけた。
広場では逃げ場がない。私は進行方向を急遽変え、一番近くにあった巨大な土産物屋の建物へと飛び込んだ。
中は薄暗く、ひんやりとした空気が淀んでいた。
私はすぐに重いガラス扉を閉め、近くにあった商品陳列用のワゴンを力任せに押して、扉の前にバリケードを作った。
「ハァ……ハァ……っ」
肺が焼けるように痛い。 商品棚の陰に身を隠し、両手で口を塞いで必死に呼吸音を殺す。
ズル……ベチャ……。
扉の外の黒いヘドロのような影が徘徊する音が聞こえる。
ガラス越しに、べっとりと黒い粘液が張り付くのが見えた。
(入ってこないで……お願い……!)
息を潜めていると、外の気配が少しずつ遠ざかっていくように感じた。 やり過ごせたのか?
自分の激しい心音だけが響く暗闇の中、ふと、甘ったるいイチゴの香りが漂ってきた。
——遊園地のマスコットキャラクターのぬいぐるみからだ。
次の瞬間だった。
カタ、カタカタカタ……。
店内の奥から、奇妙な音が鳴り始めた。 私はハッとして振り返る。
暗闇に目が慣れてくると、棚に陳列されていたぬいぐるみたちが一斉に首をこちらに向けているのが見えた。
可愛らしいはずの丸い目はすべて真っ黒に濁りきっている。
そして棚の奥の暗闇が、ぐにゃりと歪んだ。
『……ォ……ア……』
言葉にならない呪詛のような呻き声。
暗闇の中から這い出してきたのは、いくつもの人間の顔がドロドロに溶け合い、無理やり一つの肉塊に繋ぎ合わされたような、おぞましい異形の化け物だった。
表面には無数の目玉が浮かび上がり、ギョロギョロと私を品定めするように見つめている。
「っ……ああぁ……!!」
耐えきれず、私の口から悲鳴が漏れた。
冷静に対処しようとしていた理性が、本能的な恐怖の前にあっけなく吹き飛ぶ。
「来ないでっ!」
私は近くにあった棚を力任せに引き倒し、化け物の前進を阻もうとした。
だが、巨大な肉塊は倒れた棚ごと飲み込み、不快な音を立てて這い寄ってくる。
逃げ場はない。扉は自分で塞いでしまった。 私はジリジリと後ずさり、ついに背中が冷たい壁にぶつかった。
足首に、氷のように冷たい感触が巻き付く。
「いやぁっ!」
床一面を這っていた黒い影の手が、私の足を掴んでいた。
猛烈な力で引き倒され、床に叩きつけられる。 火事場の馬鹿力で必死に蹴り飛ばそうとするが、次々と四方八方から伸びてきた影の手が、私の腕を引き、髪を引っ張り、完全に体の自由を奪っていく。
目の前まで迫った巨大な肉塊が、真ん中からパカッと割れ、幾重にも牙が生え揃った真っ暗な「口」を開いた。
「いや、やめて……助けて……!」
爪を立てて床を引っ掻くが、無情にも体はずるずると肉塊の口の中——怪異の胃袋へ直結する核へと引きずり込まれていく。
生きたまま咀嚼され、意識を奪われる恐怖。
視界が黒く染まり、インカムから聞こえるノイズの音すら遠ざかっていく。
(神宮寺さん……っ!)
もう駄目だ。完全に闇に呑まれる。 私が目をきつく閉じた、その瞬間だった。
ドォォォンッ!!
「!!」
耳をつんざくような爆発音と共に、私を追い詰めていた店内の壁が、物理的に外側から吹き飛ばされた。
私を押さえつけていた黒い影の手と巨大な肉塊が、目に見えない強烈な衝撃波に弾き飛ばされ、悲鳴のような風切り音を残して四方八方へと霧散していく。
「あ……?」
もうもうと舞い上がる土煙と、怪異の黒い瘴気が渦巻く中。 粉砕された壁の向こうから、冷たい銀色の光が差し込んだ。
「——遅れて悪かったな」
地を這うような、絶対零度の低い声。
瓦礫を踏み砕き、圧倒的な殺気を纏って現れたのは——
夜の闇を切り裂くような白銀の呪具を構えた、私の理不尽で最悪な雇用主だった。




