009 空飛ぶ人魚
「これって……人魚、だよな?」
「そ、そうだね。しかも空気中を泳ぐタイプ……とても珍しい精霊」
「こんな小さいのか」
「この種は、みんなこのくらいのサイズなんじゃなかったかな。大気中の水分を〝水〟と認識して、泳ぐとか」
声を上ずらせたり、身震いしたり……2人とも驚きを隠せない。
空を泳ぐ人魚は、脅威レベルⅠの個有結界内ですら滅多にお目にかかれない、非常に珍しい精霊だ。
個有結界内の使い魔や精霊は、魔術的な契約によって使役したり、眷属化することができる。
戦闘の補助などを目的とする場合が多いが、人魚の場合は観賞用として捕獲されることも少なくない。
そんな珍しい精霊が何故こんなところに? と2人は疑問に思わなかった。
「この人魚を、ここに置いていったのは……間違いない、〝紅い龍〟だ。少しだけ、視えた」
「ひどい……可哀想に……」
小さな人魚は、透明な水槽の、底から数センチくらいしか浮いていない。
眠っていたり意識がない時でも空中を漂い続けるとされるこの精霊が、こんなにも浮いていない――それはつまり生命の火が消えかかっていることを示していた。
「フーちゃん、すぐに連れて帰ろう……! ここのままじゃ……」
「まさか手当するのか?」
萌々花は力強く頷いた。
「……よし、分かった」
長い廊下と無数のドア。来た時と同じ道を辿るのは容易ではない。
ましてや、体力と集中力を消耗した帰り道は、慎重にならざるを得ない。
しかし、楓太は一切迷うことなく、最短距離で現実世界へ舞い戻った。
何か特別な能力や魔法を使ったわけではない。素でこんな芸当をやってのける……これこそSランクの片鱗。
そして、着いていく萌々花も萌々花だ。
――そっと水槽を抱えながら受付カウンターへ戻った萌々花。
退勤へ向けて業務日誌に記入していく。
「そういえば、フーちゃんって、今どこに住んでるの?」
さり気なく楓太に尋ねる。
「え、ああ……地下鉄の本込山駅の近く」
萌々花の意図が分からず、戸惑いながら言葉を返す楓太。
「おお、白波神社の近く? 紫陽花の季節は綺麗だよね〜。あの辺にも受付しに行ってたなぁ」
「そ、そうなんだ」
「確かフーちゃんの部屋には、研究所並みの魔術道具があったよね? 上埜からだとちょっと遠いけど、動橋とも同じくらいだし」
「あ、ああ…」
楓太は、妙な胸騒ぎを覚えつつ、小さく頷いた。
「だよね! だから、それを使わせてくれないかな」
パタンと日誌を閉じてから、萌々花は爛々と輝かせた瞳を楓太に向てきた。
「…………え」
「私の知識と、フーちゃんの道具たちがあれば、この人魚さんを助けられると思うんだよ」
ここまでの流れから分かる通り、楓太がその申し出を断れるわけはない。
『人魚を助けたいから』という理由で、幼馴染みに押しかけられる……楓太は、なかなか貴重な体験をこれからするようだ。
――上埜駅から本込山駅までは確かに20分もかからずに移動できるが、いかんせん乗り換えが多くてめんどくさい。
移動時間だけ見れば萌々花の最寄り駅である動橋駅も同じくらいだが、そちらは乗り換え1回で済む。
体感、ずっと楽だ。
そんなことは萌々花もきっと分かっている。
「私も本込山に引っ越そうかな〜」
「は?」
駅に着いて改札を出るなり、萌々花はそんなことを呟く。
「あ〜でもそれじゃ面白みもないか。もう少し近くに引っ越すとかはありかな」
「な、何言って……」
「隣の春山駅とかありかな? ねぇ、フーちゃん。春山はどんな街?」
「えと……じゃあ、調べとく。駅から近くて、2階以上で、オートロックで、できれば角部屋。トイレシャワーは別で」
「……娘が初めて一人暮らしする時の父親か!」
そんな会話の合間に楓太のマンションに着いた。
明るいベージュとライトブラウンのタイルパターンがモダンな印象を与えるマンション。
各部屋のバルコニーも大きく使い勝手の良さそうな雰囲気。
「流石、稼ぎ頭」
「お陰様で」
そのマンションの3階に楓太の部屋はあった。
突然、異性が来ることになったら、普通は片付けやら何やら色々と準備がしたいだろう。
しかし、楓太の部屋はなかなかどうして小綺麗にまとまっている。
物が少ないわけではなく、むしろ多い方かもしれないが――角と角が揃っているとか、面があっているとか、そういう些細なところから美というのは成り立つらしい。
「おじゃましま〜す」
「お陰様で」
「え?」
「…………ん? いや、間違えた」
部屋がキレイで準備ができていたとしても、楓太の心は不準備だった。
平静を装ってはいるが、内心はドキドキのバクバクだ。
「フーちゃんの匂いする……」
「てててて! テキトーにすすすす座ってててて!」
飲み物でも出そうかと慌てている楓太を横目に、萌々花はローテーブルに水槽をそっと置いた。
それから、ソファに腰掛けた。
「いい座り心地〜。でも、一人暮らしにしちゃ大きくない? このソファ」
「……よくそこで寝落ちしてる」
「寝室が勿体ない」
萌々花が腰掛けるソファの向かいの壁には、木製の大きな棚が設置されていた。
そこに魔術道具が、綺麗に並べられている。まるでインテリアのようだ。
「……ねぇ、フーちゃん。これ全部使えるの?」
「その魔術道具たち? 多分、まだ壊れたりはしていないはずだよ」
「ふふふ……使用方法を知っているか聞いたつもりだったんだけど、それは当たり前って返事をされたなぁ。そりゃそっか」
魔法陣が描かれた布、フラスコ、蒸留機、薄紫色の水晶、奇妙な文様の仮面……いずれも、魔女が魔術の補助に用いたとされる魔術道具だ。
魔術道具そのものには魔力はないので、持っているだけでは何の効果もない。
逆に危険もない。
祓魔士からしてみると、そもそもどうやって使うか分からないし、どんな効果があるかも分からない代物ばかり。
だからほとんど見向きもされないし、魔導絵画のように展示や保管がされることもない。
だが、楓太は【リンゴとオレンジの静物】の応用によって、それぞれの使い方や、効果的な魔術との掛け合わせ方などを知ることができる。
その強みを活かし収集して研究をしているのだ。
「……使い方が分かってもさ、だいたい何かの魔術を補助・補強する物が多いから、実用性は低いんだけどね」
「ふーん。じゃあ、今まで魔術道具を誰かにあげたことはないの? 私みたいにさ」
「ほとんどないな。そもそも魔術道具を知らない人も多いし。萌々花にあげたヤツは、持ってるだけで効果があるタイプだったじゃん? それ系は珍しいんだ」
「そっか〜……おっと、話が逸れてしまった。人魚さんの手当てしなきゃ」
「…………これ、借りるよ」
萌々花は棚から魔法陣の入った布を取って、それをテーブルに広げた。
その上にそっと、人魚の入った水槽を置くと、ふうっと大きく息を吐いた。
そのまま魔法陣と水槽の前で手を組み、静かに目を閉じ……ゆっくりと口を開いた。
『輪廻の水、終焉の炎。我が願いに応えて、力を示せ。
弱れる者に力の雨を、衰える者に希望の光を――苦しみがあっても、私は生きたい』
詠唱とともに集中力は高まり、萌々花は眩い光に包まれる。
溢れ出た光は宙を漂い、魔法陣に吸い寄せられていく。
「よし。上手くいきそう! このまま生命的な損傷を回復させて……」
魔法陣に吸い込まれた光は、一段と強い輝きとなって水槽の中へ流れ込み、そして人魚を包み込んだ。
「お……! 動いた? 今――」
眩い光に包まれた人魚のシルエットが、ピクリと動いたように見えて、楓太がはしゃいだ声を上げる。
それから何度か弱々しく動いて、しばらくすると大きく呼吸をするように動き出した。
生命力が回復したからだろうか、今までより少し高い位置に浮いている。
「――よし。ここまで……くれば、もう大丈夫かな」
「早いな。結構、体力持ってかれてない? 大丈夫?」
見ると萌々花は肩で息をし、額や頬には汗が滲んでいた。
「たった数十秒使ったただけで、こんなに疲れるとは……はぁ、はぁ……やっぱり使用用途が分かっても、危険は危険だねぇ」
「ほら、水! 無茶するなよ。多分、萌々花じゃなきゃ、今頃ミイラだぞ」
「ありがとう………………ぷはぁ……人魚取りが人魚になるってね」
「……ど、どーゆーこと?」
回復はしたが、まだ意識は戻らない人魚。
呼吸を整えるようにしながら、萌々花は水槽を眺めている。
「キレイ……よかった」
「お疲れ」
「ねぇ、フーちゃん。私、疲れちゃった」
「え、あ、お疲れ様!」
「んーんー! つかーれーたー!!」
「………………え? な、何をお望みで」
ソファに仰向けに転がる萌々花。
楓太はギョッとする――仰向けになったことで萌々花の、丸く形のいい胸が数回、揺蕩った。
あまりそういう目で見ないように、見ないように努めていた楓太だったが――萌々花は健康的で出るとこは出て、引っ込むところ引っ込んだメリハリのある体型をしている。
見ないようにしていてたとしても、目の前でこうもあけっぴろげに無防備をさらされると、心臓にくるものがあった。
こんな状況で、何かをお願いされて断れるワケがない……いや、楓太はどんな状況であっても萌々花からのお願いを断ることはできない。
極端だが命を賭すことすら、なんとも思っていない。
楓太にとって萌々花とは、それ程までに掛け替えのない存在だった。
幼馴染というだけでは表現しきれない、特別な絆で結ばれた相手だ。
彼女は常に明るく振る舞い、どんな状況でも前向きに進んでいく強さを持っている。
その姿勢は、楓太に勇気を与え続けてくれた。
内面の強さと美しさは、見た目にも滲み出ていて――真っ白に輝くウェーブのかかった髪、翠玉色の瞳。
小ぶりで整った顔立ちに、スレンダーながら女性らしいふくよかさと柔らかさも兼ね備えた体型……楓太に語らせれば、もっと止めどなく彼女の魅力が出てくるだろう。
しかし、楓太と萌々花の間には乗り越えなければならない過去もある。
かつて2人で挑んだ、とある個有結界で萌々花は致死性の呪いを被った。
その呪いは、とても強力で、楓太の既視感をもってしても解除の術を見出すことはできなかった。
即死こそしなかったが、じわじわと確実に死へ向かう萌々花を目の当たりにし、楓太は彼女の命を守るために、ある原典魔術を萌々花の魔導ペンへ充填させた。
その魔術は魔導ペンに充填されるだけで強制的に発動するタイプの魔術で、強制発動した効果により萌々花は一命を取り留めた。
しかしその代わりに、また別の呪いを背負うことになってしまったのだ。
楓太はそれ以来、罪悪感から萌々花を避けきた――果たして、あの時の選択は正しかったのだろうか、他に方法はなかったのだろうか。
いや、そもそも自分がもっと上手くやれば萌々花が傷付くことはなかったんじゃないか……。
そんな正解のない自問自答の中で、楓太は彼女と距離を取り、再会を恐れ、避けた。
だが2年振りに再会した萌々花は、楓太とは全く別の感情を持って生きていた。
あの日の出来事を、彼女は少しもネガティブに捉えていなかったのだ。
寧ろ、あの魔術のお陰で今も元気に生きられることを素直に喜んでいた。
そしてそれを真っ直ぐ楓太に伝えてきた。
永久凍土のように溶けないかと思っていた心を容易く溶かされ、死んでいた大地にも花が咲いた。
それは、決意という名の花――もう二度と、彼女の側を離れまいという強い決意。
その為なら、自分のどんな弱さにも向き合ってやる。
たとえ、この世界の全てが楓太のことを忘れてしまったとしても、萌々花が居れば……それでいい。
「どーしたのー? フーちゃん」
楓太にしては、だいぶ長い間を置いたから萌々花は何かを察して、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「あ、いや……別に…………」
「ねぇねぇ……私、もう帰る元気ないです」
「おおおおお、お疲れ様! お疲れ様! オレはとっても元気だけどぉ?!」
「ふふふ……そうだよね〜。じゃあさ、2年も私を寂しくさせていた罰として、今日は泊めて? あと、ご飯も食べさせて欲し〜な〜?」
萌々花はいつも楓太を先回りしたように立ち回る。
だから楓太は、その申し出を……言わずもがな。




