028 その絵は多視点で描かれた
――リンゴでパリを驚かせたい。
この絵を描いた画家は、そう息巻いたらしい。
そうして産み落とされた【リンゴとオレンジの静物】は、伝統的な遠近法の概念を破壊し、独自の視点と構図による革新的な絵画となった。
一言で表すならば、その絵は〝多視点〟で描かれていた。
「み、未視感……? 既視感じゃなくて?」
視線を合わせることで、相手の情報をずっと前から知っている状態になれる力――それが既視感。
非常に強力な魔術だが、しかしそれは【リンゴとオレンジの静物】の力の一部にしか過ぎなかったのだ。
「既視感に対になる能力があったのさ。相手が有する知識や記憶、感情……そういったものを強制的に閉ざす――つまり忘れさせる能力」
掠れた声でそう言う彼の瞳は、金色に輝き、まるで夜空に輝く星のように美しい。
「……はあ、はあ…………それが、未視感だ」
しかし、その瞳の輝きは、今にも消え入りそうなほどに弱々しくもあった。
視界は熱を持った靄に覆われ、意識は刻一刻と闇に沈もうとしていた。
それでも、楓太は左手に握る魔導ペンに魔力を流し続けている。
篠突く雨のように【星月夜】の銀剣が降り注ぐ。
『ぐぉ……おおおおおお……がっ! あああ……』
萌々花を守るように突き立っている銀剣の向こうから、狂乱の如き絶叫が聞こえてくる。
右腕以外は直接的な攻撃を受けていないはずの太良木。
しかしその叫喚はクロウ・クルワッハの被弾に連動している。
まるでその身に、いくつもの剣が刺さっているかのように、叫び、痛がり、身悶えている。
(痛覚なんて普通、逆流しないだろう……まさか、魔術が狂い始めているのか……?)
楓太は、のそりのそりと剣の向こう側が覗ける位置まで歩を進めてみた。
すると地面に這いつくばったまま睨み上げてくる、おどろおどろしい視線と出会した。
『ぐううう……九石ぃ! これは! どういうことだ……クロウ・クルワッハが知らない魔術なんか、あるわけががない! ぐうあ……ご、応えろぉ、九石。僕に、何をした!?』
地獄から吹き荒ぶ熱波のような怒声。
全知ともいうべきクロウ・クルワッハの能力が破られた混乱と焦燥を掻き消したくて、太良木はただ力任せに怒りをぶちまけている。
楓太は力なくシニカルに笑う。
そして、斬り落とした太良木の右腕――その指先が摘むようにしている【精霊の涙】の指輪にチラリと目を落とす。
「未視感……既視感の反対の力さ。知識や記憶を強制的に消し去る力だ。今のお前たちは、【星月夜】の事を忘れてしまっているんだよ」
『わ、忘れ……!?』
「勝ち誇ったのか、さっき指輪を外したろ。あれが……お前の、運の尽きさ。お陰で既視感も通じたし、未視感を掛けることもできた」
血の混じった咳と共に、途切れ途切れに紡がれていく楓太の言葉。
楓太もまた、肉体は限界はとうに超えている。
よろめいて倒れそうになるのを「フーちゃん!」と、間一髪、萌々花が抱き支える。
「ご、ごめんね。フーちゃん。もう少ししたら私、回復魔術を使えると思うから」
萌々花が涙声を絞り出す。
一掠必殺とも言うべき【銃兵処刑の朝】。
その魔術が不発に終わったことによる反動ダメージが回復し切っていない。自分の戦術を悔いているのだ。
そんな気持ちを知ってか知らでか楓太は「ああ、ありがとう。萌々花こそ、無理をしないでくれ……」 と、あらん限りに微笑んだ。
『嘘だ……! そんな、馬鹿げた話が……あってたまるもんか!! クロウ・クルワッハはあらゆる魔術を知っているんだぞ!? そ、それなら未視感だって、知っているはずだ!』
「そんなこと、俺に言われてもなぁ……でも多分だけど、〝忘れさせる〟魔術なんだし、知っていることすらも忘れてしまうんじゃないのか?」
『ふ……ふざけ……!!』
「まぁ、もう良いだろ……どうせ、もう。これで終わりだ」
仰々しく天に翳した右腕を、振り下ろす楓太。
『グルァ……グクグ…………』
何百何千と斬られ、刺され、断たれたクロウ・クルワッハにいよいよとどめを刺すべく、銀の大剣が一振、真っ直ぐな光芒を描いた。
躊躇いなく、迷いなく、クロウ・クルワッハの首筋へ驀進する。
「ああ……いつの間にか、夜になっていたのか」
いや、まだ昼間だ――と萌々花は言えない。
度重なるダメージで楓太の視界は暗くなっている……昼間を夜と見間違うほどに。
「どうりで、ココ最近で一番力が乗っていると思ったよ……俺は、こんななのに」
萌々花はそれを訂正せずに叫ぶ。
「……いけ。いけ、いけぇ!!!」
『うぐぉおおおおぉぉあ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"……!!!!』
萌々花と太良木の真逆な叫びの狭間で、楓太ぎりりと奥歯を噛む。
(も、もう少しなんだ……踏ん張れよ、俺……!)
鼻からドクドクと血が滴るのを如実に感じる。
瓦礫で白んだ地面に赤い花をぼたぼたと咲かせていく。
視界が明滅する。心臓の拍動で、鼓膜が圧迫され耳もよく聞こえない。
まるで糸の切れた凧が空をふらふらと漂うように、楓太の意識は揺蕩う。
それでも、あと少し……あと少しで【星月夜】の大剣が、クロウ・クルワッハの鱗に触れて、斬り落とす――。
「うぐっ……ああっ!! ご、はぁ」
その寸前。
楓太の口から、ゴパッと血が溢れた。
視界はついに、緞帳が下りたように暗転する。
楓太の魔力が枯渇した。
体力が尽きた。
大剣の輝きが、急速に失われていく。
「え……!? フ、フーちゃん!!」
『……ふ、ふふふ。くくく、クハハハハハ! …………で、電池切れか……ざまぁないな!』
安堵に上ずった声で叫ぶ太良木。
クロウ・クルワッハが再び【星月夜】を認識し、その刃を弾き返そうと身構える。
「……まだよ!」
萌々花が叫ぶ。
回復しきらない体を引きずり、楓太の前に立つ。
「フーちゃんに全部、背負わせない……!」
回復はまだ完全ではない。
それでも構わない。だって私は『不死身』なんだから――。
そんな決死の覚悟で絞り出される魔力。
「萌々花……! よせ……!」
「私がフーちゃんを守るの! 今度は、私の番!」
萌々花の魔力が、枯渇した楓太の体に流れ込む。
暗転していた視界に、再び光が灯った。
消えかけていた大剣が、これまで以上の輝きを取り戻す。
それは楓太一人の力ではない。
二人の絆が宿った、希望の光。
「――うおおおおおおおおおおっ!!」
楓太は最後の力を振り絞り、叫んだ。
「これで……終わりだああああああ!!!」
二人の想いを乗せた銀剣が、ついにクロウ・クルワッハの首を捉える。
『グギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!』
神殺しの邪龍の断末魔が、天地を震わせた。
巨大な首が宙を舞い、山のような巨体が地に伏す。
『……あ、ああ…………』
クロウ・クルワッハを失い、融合も解けた太良木が、力なく膝から崩れ落ちた。
その瞳からは、光が消えている。
「はぁ……はぁ……やった……のか……?」
楓太もまた、糸が切れたようにその場に倒れ込んだ。
萌々花が、泣きながらその体を抱きしめる。
――――その瞬間、世界が燃えた。
「なっ……!?」「あつ」
否、燃えていたのは邪龍だった。
泣き別れになった頭は轟々と燃えながら空を舞い、首を失った巨躯も地に堕ちた太陽のごとく燃え盛っている。
この炎を楓太は、知っている。
「久し振り、萌々花ちゃん。遅くなってごめんね」
業火の静寂を破り、凛とした声が響いた。
楓太と萌々花の隣に、いつの間にか一人の女性が立っていた。
陽炎のように揺らめく、赤い髪の女性。
「月下さん……!」
「フフフ……ずいぶん派手にやってくれたみたいね」
腰まである赤い長髪は時折、火の粉を迸らせている。
深紅のルビーと見紛う眼光は、視界の全てを焼き払わんとしている。
国家最強戦力『八つの女王』の一人、【灰かぶり姫】。
『八つの女王……だと!? この炎……それじゃあ、お前……! シ、【灰かぶり姫】かぁ!!』
絶望の淵にいるはずの太良木の顔に、一瞬、歪んだ笑みが浮かんだ。
最強戦力を引きずり出したことで、彼の復讐が新たな段階に進んだとでも思ったのかもしれない。
「……何、笑っているのよ? 今のアタシの前で舐めた態度しない方がいいよ? 自分の弟がボロボロになってんのに、めちゃくちゃ腹立ってんだかんね?!」
『お、弟……?』
「……おいおい。2つ名は知ってても、本名は知らないのか? この不届き者め」
『ま、まさか……九石の……』
「そうだよ、アタシは【灰かぶり姫】……あるいは九石月下。このボロボロの楓太の実姉さ」
その名乗りは、世の理を示すように絶対的なものだった。
「テメェは、手ずからぶち殺したいけど……弟が一番デカい獲物を仕留めたみたいだし。残りはわけっこする約束だから」
『はっ?』
同時、太良木の背後に、音もなくもう一つの人影が佇んでいた。
「わけっことか言って、これじゃあ、ショートケーキの苺を取られた気分ですわ」
「ごめ〜ん、夢苗」
「でも……スポンジ側の方が案外、苺の絶対量は多いことありますからね。許してさしあげますわ」
漆黒の革ジャケットと革パンツを纏った一里塚夢苗がそこに立っていた。
彼女もまた『八つの女王』の一人、【眠れる森の美女】。
『……かっ……あっ、あぁっ、んああっ!』
夢苗の冷たい視線が射抜いた瞬間、太良木は泡を吹き、壊れたオモチャのように痙攣を始めた。
「まぁ、兎にも角にも、そういうことですのよ。魔女の末裔ボーイ、ちょっとおイタが過ぎましたわね。貴方の野望は、ここで終わりですわ。夢のように、儚くね」
夢苗が空いた右手を恭しく持ち上げ、何もない虚空を握り潰すように、拳を固めた。
すると太良木が、最後に一つ背中を仰け反らせるように大きく痙攣し、そして動かなくなった。
「はい、お終い……ですわ」
「アタシの弟を前座扱いすんなよ? お前と違って、やる時はやるんだよ、根暗野郎」
二人の『八つの女王』の登場から、およそ45秒。
戦いは呆気なく、本当の幕を閉じた。
萌々花は未だ呆然としていた。
嵐が過ぎ去った後のように、暴力的な静寂の中、ただ意識を失った楓太を抱きしめることしかできなかった。




