013 コーヒーと人魚の歌声
「キミが、九石楓太だね」
突然投げ付けられた声の方を向くと、黒いスーツを着た男が立っていた。
胸には、祓魔士協会のバッジが輝く。
(本部のバッジ……?)
楓太は、警戒しながらも、冷静に男を見詰めた。
「落ち着いているな。流石、Sランクといったところか」
「――糾える縄のごとし、か。はぁ。本部の人が、俺に何か用ですか?」
楓太はわざと気怠そうに言い放つ。
男は、それを無視するようにして楓太の隣に腰を下ろす。
「突然、すまないな。私は、祓魔士協会の清坂だ。実は、キミに聞きたいことがある」
「先日から俺のこと、観察していたのはアンタだったのか」
被せ気味に楓太が言うと、清坂はまた鼻で笑う。
「それで? 俺に、何か用があるのか聞いてるんですが」
「強気だなぁ。あの女と話している時とは、まるで別人のようだ」
「……あ?」
萌々花のことを話題に出され、楓太は鋭い殺気を清坂の喉元に突き付けた。
清坂は一瞬たじろいだが、すぐに平静を装う。
「……さ、さて。キミはあの〝月の牙〟の元メンバーだったな」
「それが?」
どうやらこの清坂という男は他人のプライベートな領域にズケズケと足を踏み入れる人間のようだ。
「〝月の牙〟は、非常に優秀なチームだった。リーダーの水呑をはじめ、国内でもトップクラスと言われていた」
「……そうですね」
楓太は、コーヒーカップを回しながら溜め息を吐いた。
清坂は、いやらしい笑みを浮かべながら身を乗り出してくる。
「何故、チームを抜けた? いや……追い出されたのか?」
「何が言いたいんですか」
俄に苛立った楓太を、清坂が上半身を起こさず首だけを捻って薄く睨む。
「お? イライラしているな? やっぱり何か知っているのか?」
「さっきから何の話をしているんだ!」
「〝月の牙〟が、帰ってこないんだよ。全員、未帰還なんだ」
「……ッ!?」
楓太の手から、コーヒーカップが滑り落ちた。
蓋が外れて、氷が散らばり、薄い茶褐色の液体が地面に広がっていく。
「水呑が……〝月の牙〟が……そんなバカな……」
顔から血の気が引いていくのが分かる。
「知っているか? 最近、〝月の牙〟の結界踏破時間が、以前より長くなっているんだ。君がチームを抜けてから、な」
清坂の視線は、まるで蛇のようだ。
「…………ッ!」
楓太は立ち上がり、肩で息をしながら睨み返す。
そして重大な違和感に気付く――既視感が効かない。
「くくく、どうした、急に立ち上がって。焦っているのか? クビになった腹いせでもしたんじゃないだろうなぁ?」
「ふざけるな! そんなこと、するわけないだろ!」
「何故、そう言い切れる?」
「今、俺があのチームの一員でないのは、俺の力不足だ。申し訳なさを感じることはあっても、それで逆恨みなんて!」
声を荒げる楓太。
楓太は〝月の牙〟にも水呑にも、恨みのような感情は1ミリも抱いていない。
もしかしたら忘れられず済むかもしれないと期待はしたが、それが叶わなかったからといって彼らを憎んだりはしない。
それは筋違いだ。
「しかしキミはSランクだろ。Sランクのライセンスは、誰かが入っている個有結界に後追いで入れる特権がある」
「それは、未帰還者の捜索のためにしか使わない! そうじゃなきゃマナー違反だ。知らないのか?」
「マナーはルールじゃないからな〜。キミはその特権を悪用して、恨みを晴らそうとしたんじゃないのか? そうだろ?」
「……言いがかりはやめろ! それにその方法は俺じゃなくても、Sランクのライセンスを持っていたら誰でもできる話だろ」
苛立ち、拳を握り締める楓太。
かたや清坂はニヤリと笑って、ゆっくりと立ち上がった。
「誰でも……? いやいや、想像で言っているわけじゃないんだよ。残念だが証拠がある」
清坂は、ライセンスカードを仰々しく取り出した。
刹那、楓太は息を呑む。
「そ、それは……」
「そう、キミのライセンスカードだ。〝月の牙〟が最後に入った【ヴィーナスの化粧】がある戸倉集古館で拾われた」
慌てて楓太はサコッシュの中を探る。
「なぜ……俺のライセンスを……!?」
「何故って、戸倉集古館で、キミが落としたんだろう? 慌てていたようだなぁ……復讐を終えて、すぐに逃げ出したかったのか?」
「ち……違う! 戸倉になんて行ってない! アイツらが、【ヴィーナスの化粧】に入ったことだって、知らなかった!」
清坂は聞く耳を持たず、更に詰め寄ってくる。
「キミは、人の記憶を操る特殊な魔術を持っているそうだね。もしかしたらその魔術のせいで、自分がやったことも忘れてしまっているんじゃないのか?」
「な、なんだと? 俺が、この魔術で、どんな思いを――」
楓太が歯噛みしている間に、その腕を清坂が強く掴む。
「……離せっ」
「反論があるなら、協会本部で聞かせてもらおうか。着いてくるんだ!」
その時――魂が震わされるような歌声が公園に響いた。
「こ、この歌声は……」
楓太は、聞き覚えのある声に、ハッとする。
透き通るように美しく、力強い歌声。それは、まるで天からの贈り物。
「……な、なんだ…………この、歌は――」
清坂は体から力が抜けていくように、膝から崩れ落ちる。
楓太の腕も掴んでいられない。
「【人魚の歌声】……? じゃあ、なんで俺は……」
清坂から解放された楓太が、公園の入り口の方を向くと――手乗りサイズの空飛ぶ人魚・メリューヌが、全身全霊を込めて喉を震わせていた。
その隣では萌々花が、右手をこちらに向かってかざしている。
その甲には薄桃色に輝く複雑な魔法陣が浮かんでいた。
「萌々花!! メリュ!!」
「人魚の歌声は、聞いた者を奈落の底へ突き落とす……それを魔術で補強したの。黒服だけを狙って」
「……早く、この場を離れましょうなの! フーちゃんさん!」
混乱の渦中で楓太は、地面に突っ伏して眠り出した清坂の手から自分のライセンスカードを取り返してから、萌々花たちのところへ駆け寄った。
「ちょっと聞こえた……大丈夫? フーちゃん」
「酷い言いがかりなの!」
2人から掛けられた言葉で、落ち着きを取り戻し、楓太は呼吸を整える。
「……い、いや……実際、俺にも何が何だか……」
いくら呼吸を整えても、まとわりつく濁った空気は消えない。
眠らせたところで事態は何も変わっていないのだ。
楓太は今、祓魔士協会の本部から、あらぬ疑いをかけられている。
「凄く、こじつけっぽい感じがするなの。誰かがフーちゃんさんをハメようとしているかもなの……」
「うん、私もそう感じた。そもそも、彼の独断なのかもしれないし」
「そうだとしても清坂さんが協会本部の人間であることには違わない。その気になれば正規の捕縛班が出張ってくるかもしれない……」
重い空気の中、メリューヌがピクリと反応する。
「クレープが……じゃないなの。誰かがこの公園に近付いてくるの」
「…………鼻も良いのね、メリュ。フーちゃん、ひとまずここから離れよう」
萌々花が楓太の肩を叩く。
「う、うん」
力なく応じた楓太には、その選択が正しいのか間違っているのか分からなかった。
でも――。
「フーちゃん、私たちは信じているから」
「そうですなの! いざとなったら、この数日、一緒にいた私も証言するなの」
自分を信じて、危険を冒してくれた萌々花とメリューヌの2人こそ、裏切るわけにはいかない。
いつの間にか周りの人に忘れられてしまうという事実を「どうしようもないことだ」と、ただ受け容れてしまっていた数日前までの自分とは違う。
濡れ衣を着せようとする悪意が迫っているのなら、しっかり抗ってやろうと楓太は拳を握った。
「……萌々花、メリュ。行こう! 手伝ってほしい」




