2出発前夜
「これが最後のお風呂になるかもしれない」
「何を言ってるんですか…」
ラナは浴場の端っこに沈みながら、長い黒髪をマールに梳いてもらっている。
「だって、聞いたでしょ?明日の朝には出発なのよ…」
「ということは、明日の朝からイリュー様が四六時中どんな時もラナ様を護るってことですね」
「何でこんなことに…」
ラナはさらに湯の中に沈んだ。
口からぶくぶくと泡が出てくる。
「確認したんですけど、前例はないそうですよ。女の夢見に男の護が付くのは。どうしてそうなったんですかねぇ…」
「他人事だと思って」
息苦しくなって顔をあげる。
マールがそれを待って、タオルでラナの髪を拭ききれいにまとめていく。
この長い髪をここまできれいにまとめられるのはマールだけだ。
「護を変えるとかは、私の立場でどうこうできることじゃないのは知ってる。でもさ、でもさ…」
「まぁ、さすがのラナ様も全裸は誰にでも見せられるわけじゃありませんしね」
「え、やっぱり浴場にも付くの?着替えも?」
「さぁ、そうなんじゃないですか?わからないですけど」
「それ。そこもう少し寄り添ってよ…」
ラナはもうひと沈みしそうになったのをマールに引き止められた。
「はいはい、とりあえず風呂、上がりますか。香油塗りますよ」
「なにこれ、かわいい」
蜜柑の香油を隅々まで塗ってもらうと新しい夜着に着替えた。
肌触りの良い夜着だ。足元がヒラヒラしているのが初めての感覚で、ラナはくるりと一度回ってみた。
「リシア様からの贈り物です。夢見の仕事がんばれってことじゃないですかね」
「こんな夜着初めて。いつものくたくたの着物も肌馴染みがあっていいんだけどね!」
夜着がかわいいだけで気分転換できるんだから、本当に単純な性格だと、ラナは思う。
さっきの落ちていた気持ちは、どこかへ行ったみたいだ。
「あ、リシア様から手紙も届いてますよ、はい、どうぞ」
「手紙?あれ?いい匂いする…」
「お香、焚いたんでしょうね、手紙に。さすがですよね」
薄緑色の手紙は、桜の香りがした。
『ラナヘ
夢見の仕事がんばれ
護と仲良くね
きっとうまくいくよ
リシア』
読み終わって、隣にいるマールと顔を見合わせた。
「…手紙の中身は大したことなかった、ね」
「ですね」
「なんか、こう、具体的にさ、あると思うじゃない?」
「ですね」
「前任の夢見からの手紙とは思えない、…けど、大切にしまっておこう…」
ラナは袖口の細いリボンを気にしながら、手紙をたたみ、箱にしまっておいた。
「てか、おばさまは私の護が男って知ってるのかな」
「知ってて仲良くね、は、さすがに嫌味じゃないですか?知らないんだと思うんですけど」
「そうよね、おばさまなりの応援よね、うん」
自分に言い聞かせるように、言葉にした。
「今日の香は何にしますか?」
「…桃に、するかな」
ラナは一瞬考えて答えた。母の選ぶ桃なら、きっと幸先もいいはず。この家での最後のお香はこれしかないだろう。
「了解です」
マールもわかっていたようで、手にしている香をそのまま持って準備しに行った。
部屋の中に香りが巡る。
ラナはもぞもぞと布団の中に入り込んだ。
顔だけ出して呼吸をする。
「…いい香り」
「おそばにいます。安心してお眠りください」
「…いつも、それ言う」
息を吐くように、ラナが笑った。
マールはベッドの脇に座ったまま、ラナに笑みを返した。
白い刺繍いっぱいのふかふかの布団が、心地よい重さを体に与えてくれる。
深く呼吸すると、桃の香りがしてまた一段深く眠りに落ちるのを感じた。
もっと、深く。
心地よい感覚で、どんどん沈んでいく。
暗い、黒い、闇の中にいる。
手足は、動く。
ただ、足も手も見えない。
(今日も見えない、かな)
スッと右に向きを変える。
もう一度右に。
体の動きは悪くない。
もう一度右に動こうとした、
瞬間。
足元から白い風が渦巻くように吹き上がった。
景色が一瞬にして変わる。
白い世界になった。色がない。
天井からの視点、下には天蓋付きのベッド。
周りにたくさんの人が集まっている。
(寝室にこんなに人が集まるのは…)
産まれる時と死ぬ時のいずれかだ。
視点を下すのに、体の向きを下方に向ける。
人の表情が見える。
(笑っている)
誰かが、産まれた。
誰?
ベッドにいる人は、誰?
視点を動かす。
誰なのかを理解した瞬間、心臓が大きく鳴った。
「おはようございます〜どうでした?」
眩しい空間に、大きく引き寄せられてラナは目が覚めた。
まだ、心臓がドキドキしている。
「久しぶりに、見えた」
「そうでしたか、では読み方を呼びますね」
「お願い」
マールは一つも驚かず、淡々と手順を踏む。
自分だけがまだまだ慣れない。
未来を見るなんて本当は怖くてたまらない。
(今日は出発の日なのに…)
ラナは大きなため息をついた。




