1果実の香り
細い一本の煙がつう、と昇り途中からぐにゃりと曲がる。
ゆっくりと息を吸うと、微かに甘い匂いがする。
この甘さは、果実だろうか、植物だろうか。
うとうとと、眠気が来る。
この感覚。
瞼を閉じて、その世界に入る。
もう一度深く呼吸する。
この香りは、
桃の香りだ。
「おはようございます〜どうでした?」
眩しくなる。ガタガタと木製の窓を開けている音がする。
「…眩しい。そしてどうでしたって簡単に聞かないで、おはよう」
「はいはい、疲れるんですもんね、寝てるのにね」
ベッドのカーテンを手慣れた手つきでまとめていく。眩しさが容赦なく強くなった。
「今日も何も見えなかった…」
ラナは眩しさを避けるために枕に顔をうずめた。何も見えなかった日はいつも以上に太陽が眩しい。
「眠りに入った時は、なんかいつもと違ったんですけどね、気のせいだったんですかね」
マールはラナの布団を整えて、彼女の体を起こそうとする。
「見えないと見えないで不安になる…」
「そうですよね、でも見えたら見えたでダメージあるから、なんかどっちでもいいかーってなりません?」
マールが他人事みたいに笑う。
「簡単に言ってくれちゃうよ、本当」
「誰か一人くらいはそういう人いないと、息詰まりますよ」
(たしかに)
私たち一族は、夢見の一族だ。
夢で未来を見る。
先読みのできる力は、重宝され、一族は繁栄してきた。
見る夢は、国を左右することから、身内のこと、認識できる未来はもちろん、そうではない夢も見る。どの夢にしても狙って見られるものはなく、見れる時は連続で細切れでも見るが、見られない時は全く見ない。
どうやら今は見られない時のようだ。
見られない時は、決まって次の夢は大きな何かが起こる未来を見る時なので、眠るのが怖くなる。
「怖くなってきたころですか?」
マールは、四つ上の遠い親戚だ。武族出身の彼女は小さい頃からずっとラナ付きで、長く一緒にいたので考えてることを当てられることも多い。
「まあ、今まで何度も乗り越えて来たんですから、大丈夫ですよ」
さ、着替えますよと、言いながらマールが新しい着物を持ってくる。
ラナはベッドから立ち上がると、両手を上げた。
マールはいつものように帯を緩め着物をするりと脱がし、濃紺に白の小花が散らしてある滑らかな着物をラナに纏わせた。
袖を通すとひやりとした。
「昨日のお香は誰が選んだの?」
「アーシャ様です」
「母が?珍しいわね」
「ラナ様がしばらく見えてないことをご心配になったようですよ。ただ、何のお香にするか迷いに迷われて大変だったとか。結局いつもの桃の香にしたようです」
母らしい。ラナはため息をついた。
「余計なことしなくていいのに、もう引退したんだからゆっくり休めばいいのよ」
母も夢見だ。だが、もう力はない。
「ラナ様、今日はこのあと…」
マールが遠慮がちに話し始めた。
「わかってる」
急なことだったから、覚悟ができてるかと言えばそうではない。
ただ、一族の生業は理解している。
ラナは深呼吸して、マールに笑顔を向ける。
突然、扉の外が慌ただしくなる。
心臓が波打った。
(なに)
扉が控えめに、叩かれる。
「どうしたの」
マールの声が少し緊張してる。
心臓がドキドキする。
両開きの扉が大きく開かれる。
ふわっと室内の空気が揺らぎ、
桃の残り香が顔を撫でた。
開いた扉の隙間から、慌てた様子の従者が幾人か見える。
「ラナ様、護の方がお見えです」
マールが疲れたような悲しいような顔を見せる。
「えっ、まだ朝…」
「ですね」
「朝ごはん…」
「無理ですね。超スピードで準備ですよ、ラナ様」
えっ、とラナは声なのかため息なのかわからないものを発した。
「ラナ様の護の方はお時間の感覚がない方のようで残念ですね」
今日もマールの嫌味は絶好調だ。
桜花の国は、中心に都を置いて、桜の花弁のように五つの国が周りに位置している形をしている。
五つの花弁の国は東、西、南、北、花で、それぞれ王子、王女が統治しており、必ず夢見が一人配属されることになっている。
「朝早く失礼致します。東国から参りました。護の者です。お呼びがかかりました。どうぞご支度をお願い致します」
漆黒の着物を纏った、銀髪の若者が低く心地よい声で言った。
一礼してから、見上げた瞳は深い碧色をしていた。
見たことがない色だ、と、痛いほど波打つ心臓とは無関係なことを思っている自分がいた。
本当ならば、彼がくるのは数刻あとだったはず。慌ただしさを隠しながら、マールがお茶の用意をしている。
ラナが応接室の椅子に浅く腰をかけた瞬間、彼が再び口を開いた。
「護のイリューと申します」
銀髪の若者は言った。碧色の瞳がじっとラナを捕えている。
(顔が良すぎる、これ以上見ないでほしい)
ラナは素早く視線を逸らした。
護族は、夢見を護ることを生業とした一族だ。
つまり、このイリューという見目の良い若者はこれから先自分が夢見であるうちはずっと護衛をするということになる。
「は、はじめまして、ラナ、です」
「ラナ様、落ち着いて」
お茶を運んできたマールがそばで何か言っていたが、ラナの耳には届かなかった。いまだに痛い心臓と今まで見たことのない目の前の美に混乱している上に、だんだんと熱くなる耳と顔をなんとかしないといけなかったからである。
「これから東国にお勤め頂くことになりますが、よろしいですか」
「は、はい、えっと、はい、大丈夫です」
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫です」
イリューが柔らかく微笑んだ。
そんな顔もできるのかと、さっきまでの無表情からの落差にラナは真っ赤になった。
「前任の夢見の方が力を失われたことにより、ラナ様が東国の夢見に配属となりました」
一週間前、その知らせはラナの元に届いていた。
東国の前任の夢見は、ラナの父の姉にあたる人物だ。優秀な夢見であったと聞いている。
どんなに優秀な夢見も、何の前触れもなく力を失う。失われた力は本家の次に産まれてくる跡継ぎに継承されると言われているが、それは証明されているわけではない。
ただ、きっとそうなのだと伝承されているだけだ。そんなことを証明しなくとも、本家の夢見は代々力をもっている。
力が発現するのには個人差はあるものの、齢が五つになるまでには必ず未来を夢見る。
突然、力をもち、突然、力を失い、力のある間は国のために夢を見続け伝えていくのが夢見の生きる意味なのだと教わった。
配属される日が来るまで、花国では訓練がある。夢見の力のコントロールを学び、他の夢見と見えた未来についての一致率を計算したりするのも訓練のうちだ。要人の顔や家族を覚え見た未来がなんなのかをすぐ理解できるための学習も疎かにできない。
「前任のリシア様は護と共に明日には花国に戻られる予定です」
花国はラナたち夢見一族、護族、武族など、国の統治に必要な一族の集まる国である。
「えっと、イリューが私の護?と言ってたけれど…」
「はい、そうですね」
にっこりと笑う。顔が良すぎる。
「私の理解不足なら、ごめんなさい。護は、夢見の護衛で昼夜問わずずっと一緒って聞いてたのだけど…」
「その通りです」
「えっと、昼夜問わず?ずっと?あなたと?」
「はい。俺が、あなたとずっと」
しばらく沈黙した。
おかしい。
前任のリシア様の護は、若い女性だと聞いていた。
なぜ自分の時は男なのか、
男なのか?
もしかして
「俺は男です」
読まれていた。
「男性だけど、一緒にいるってこと?」
「護なので」
「えっ…無理です!」
イリューではなく隣のマールを向いて叫ぶ。
私に言われましても、とマールが苦い顔をする。
「無理です!」
もう一度、今度はイリューを見て叫ぶ。
わかっている。
これは決定したことだ。
私の立場で覆る案件ではない。
(でもなんで)
そんな前例あるの?
誰が決めたの?
着替えとかお風呂とか、女性なら許せることも男性になった途端許せなくなるけど、どうすれば?
そういうわがままは聞いてもらえる範疇なのか?
(聞きたいのに聞けないことが溢れてくる…)
「決まりですので」
イリューは、またにっこりと笑って言った。




