第5話「彼女の傷はまだ、濡れている」
全国総合競戦演習、その初日の日程が全て終了した。
今、摺木統矢は宿舎としてあてがわれた温泉旅館でテレビを見ていた。他に客はなく、大浴場も貸切状態だ。こうしてロビーでマッサージチェアに揉まれていても、誰とも会わない。年寄りばかりが働く老舗宿は、寒々しいまでに閑散としていた。
もはやこの日本皇国で、旅行を楽しめる人間など数えるほどしかいない。
それでも、前線へ行く前に立ち寄る兵士達で普段は賑わう時もあるという。
ぼんやりと統矢は、ノイズが入り交じるテレビの映像を見詰めていた。
『全国総合競戦演習、本日は第一回戦が四試合行われましたが……解説の皇国陸軍、吉原和樹一佐! 今大会も緒戦から新たなエースの出現に沸き立ちましたね!』
『ええ。我々は先日、一人の英雄を失いました。しかし、新たな時代のヒロインが現れ、我々の戦いを導いてくれるでしょう。幼年兵諸君、常に前へと進め! 這ってでも進み、死して尚も友の盾となれ! いやあ、今また臣民団結の時が訪れたのです!』
『では、本日の第三試合、青森校区と大洗予科練高校の一戦を振り返りましょう』
まるで戦時中だと笑って、そりゃそうだと統矢は胸の奥で呟く。
百年以上前の世界大戦よりも、今の地球は薄暗い鈍色に塗り潰されている。
当時と違って、全面降伏も一億総玉砕も選べない。
敵は対話不能な謎の機械群で、地球と人類文明の存亡の危機だと思われているのだ。
統矢達一部の人間だけが、敵の真実を知っている。
パラレイドの正体は、未来から襲い来る地球の人間。
その指揮を執っているのは、未来の摺木統矢なのだ。
「……またこのシーンか。徹底的にプロパガンダにする気なんだな」
ずるずると統矢は、止まったマッサージチェアの上を滑り落ちる。
ポケットに百円玉を探しつつ、彼はテレビ画面へと眉を潜めた。
そこには、新たに【吸血姫】の名をほしいままにするヒロインの姿があった。翠緑色の89式【幻雷】、その射撃戦に特化した極限チューンを操る三年生の少女。
御巫桔梗の一方的な鏖殺劇は、新たな伝説として一人歩きを始めた。
一試合での撃墜数、14機……これは個人のスコアとしては大会新記録である。
だが、その片棒を担がされた統矢は面白くなかった。
まるで、桔梗の劇的な舞台演出を手伝うことで、一人の少女を忘れてしまうような。
世間に五百雀千雪というフェンリルの拳姫を、忘れさせてしまうような気がした。
そんな時、まさに表舞台に躍り出たアイドルの声が背後で響く。
「摺木君。隣、いいですか?」
振り向くとそこには、浴衣姿の桔梗が微笑んでいた。
風呂上がりなのか、微かに濡れた黒髪は三つ編みを解かれている。軽いウェーブが揺れて、まるで異国の姫君のような佇まいだ。だが、統矢はそれを見上げつつマッサージチェアに座り直す。
同時に、ポケットから取り出した百円玉を放り込んだ。
少しカビ臭いモーター音が再び鳴り出して、ゴリゴリと背中の筋肉を解してゆく。
「……別に、どうぞ。辰馬先輩は一緒じゃないんですか?」
「ここのお風呂、混浴じゃありませんから。……あら? ニュース」
「丁度今、桔梗先輩のことやってましたよ。一試合で14機撃破、エースだって」
「ええ。そうなるようにって、摺木君にも手伝ってもらいました。それと、罰ですよ? ふふ、開会式を台無しにした……罰」
にこやかに微笑む表情は優しいが、どこか桔梗の気配が遠く感じる。
ニュースでは解説者の軍人が、アジテーションを昂ぶらせる。裂帛の意思とか、国民総決起だとか、自分の言葉に酔ったように彼は喋り続けていた。
その間ずっと、桔梗の改型弐号機の活躍が繰り返し流れ続ける。
統矢も見たが、人間技とは思えない。
DUSTER能力に頼らず、あの弾幕の中で踊るように避け、舞うように撃つ。
そこにもう、パラレイドのトラウマに怯える少女の面影はなかった。
「わたくしは狙撃手ですから……視力はあまりよくないんですが、目には自信があります」
「やっぱ、敵の銃口とか見てるんですか? 全部」
「銃口だけでなく、手持ちの火器全体を見るんです。銃口と、銃把と、それを繋ぐ銃身と……全体を俯瞰することで、射撃の角度を読み取る。弾丸は基本、真っ直ぐ飛びますから」
「銃身の直線上にいなければ、当たらない……言うのは簡単ですよ、でも」
「わたくしには、できます。きっと摺木君にも」
「桔梗先輩……もう、怖くないんですか? 戦いも、パラレイドも」
「いつも怖いですよ? 手が震えて、逃げ出したくなります。でも、もう逃げられないだけの理由もありますから」
だらしなくマッサージチェアに腰掛けてる統矢の、まだ濡れている髪へ桔梗が触れてきた。彼女は結局、隣に座らず統矢を見下ろしている。
頭を撫でる彼女の手は、白くて柔らかくて、そして優しい感触だった。
だが、その理由を統矢は知っているから、どうしても面白くない。
そのことが余計に、昼間の過剰演出な戦い方を思い出させてしまう。
だから、桔梗の優しさがついつい、彼女自身を飾るためのものに思えてしまうのだ。
「摺木君……あれからちゃんと、泣きましたか?」
「いや、俺は」
「千雪ちゃんのことは、気持ちの整理をつけていかないと……次は、摺木君が死にます」
「それでも、俺はっ!」
「誰かが死ねば、誰だって泣きます。そうして涙で流さないでいると、迷いが摺木君を――」
「それはわかってるんです! 知ってるんですよ! でも!」
統矢は思わず、叫んでいた。
静かなロビーに絶叫が響いて、思わず彼は立ち上がってしまう。
目の前には、眼鏡の奥から自分を真っ直ぐ見詰める桔梗の顔があった。
だが、その眼差しから逃げるように統矢は目を背ける。
「桔梗先輩っ、あなたは千雪じゃないし、俺だってあなたの死んだ弟じゃない」
「摺木君……」
「そういう優しさって、無遠慮ですよ。あなたは千雪の代わりをやって、俺を弟の代わりに見て……でも、俺にとって桔梗先輩は副部長で、上級生で、辰馬先輩の恋人で……そうでしかないじゃないですか」
自分でも幼稚なことを思ったが、激した声が止まらなかった。
そして、放たれる言葉が丸い刃となって桔梗を切り刻む。
顔向けできなくて、当夜は視線を逃して俯いた。
そんな中で重苦しい沈黙を、衣擦れの静かな音が震わせていった。
「……桔梗先輩? え、あ、いや! その、すみません! すみませんから! 謝りますから! なに脱いでるんですか!」
突然、桔梗は帯を緩めて浴衣を脱ぎ出した。
華奢な肩や豊かな胸元も顕に、背を向ける。
そして、統矢は顔を覆った手と手の間から見た。
白い背中に、巨大な傷痕が走っているのを。
肩越しに振り向く桔梗は、自分の消えない疵を見せながら寂しく笑う。
「この傷は、かつての皇都東京で負った傷です。わたくしは家族を失い、弟も守れず……そのことを忘れることすら許されません。この傷がある限り、永遠に」
「……背負い過ぎですよ、先輩」
「背負わされてしまったんです。泣いてももう、この傷は消えません。けど」
そのまま浴衣を着崩したまま、桔梗は統矢へと向き直った。
背の高さは丁度、統矢と同じくらいだ。
千雪の方がちょっと高くて、いつも彼女は統矢を涼しげに見下ろしていた。そして、いつも統矢が見上げる間近にいてくれた。
目線の高さははっきり違うのに、距離を感じさせない二人だったのを覚えている。
「摺木君、泣ける時に泣いた方がいいですよ? そうしてくれると、わたくしも安心するんです。死んだ人はもう、涙を流せないんですから」
「泣いて、忘れないと、いけないって……先輩は」
「忘れるんじゃないんです。しまっておくんです。また取り出すために、心の奥へしまうんです。そうしないと……死んだ人間に引っ張られてしまいますから」
桔梗はそう言うと、剥き出しの肌へ統矢を抱き寄せ、その胸に抱いてくれた。
そして、話してくれた。
彼女の身になにがあったかを。
御巫重工の御令嬢として、戦時中ながらも何不自由のない生活をしていた桔梗。そんな彼女の住む東京を、パラレイドの大軍が襲撃した。次元転移を使い、突如として皇都は包囲殲滅戦の真っ只中へと放り込まれたのだ。
焼け落ちる家から這い出た彼女は、両親と弟の悲鳴や絶叫を聴いた。
背中の傷はその時のものだ。
そして、パラレイドの無慈悲な無人兵器群が虐殺をやめて消えるまで、息を殺して逃げ惑った。救出された頃には、東京は廃墟の街へと変貌していたのだ。
「そのあとすぐ知りました……叔父が、父の兄が御巫重工の跡を継いだと。叔父は前社長の娘であるわたくしを、権力闘争から遠ざけました。国内最大手の軍事企業である御巫重工を、無意味な跡目争いから守るためです。そして、わたくしは青森で……あの人に、辰馬さんに出会ったんです」
桔梗の胸に顔を埋めて、濡れるようなしっとりした声に統矢は浸った。
だが、ゆっくり桔梗の肩に手を置いて離れると、火照って熱い頬が恥ずかしくて俯く。
桔梗が自分を弟のように見ていてくれる……それはとんだ自惚れだ。
彼女はそんな弱い人間ではないし、それは統矢も同じだ。
大切な人の死を乗り越えた人間が、乗り越えるべき人間に接する当たり前のことだったのだ。そして、桔梗のぬくもりはそれを優しく伝えてくる。
そうこうしていた、その時……不意に悲鳴が響いた。
「きっ、桔梗先輩っ! とっ、とと、とっ、統矢さんから離れてくださぁい!」
二人で振り向くと、そこに浴衣姿の更紗れんふぁがいた。
真っ赤になった彼女は、震える手で統矢を指差し、鼻息も荒く歩み寄ってくる。
慌てて統矢は桔梗から離れた。
だが、勘違いされた。
絶対にやばい。
れんふぁは思い込みの激しい一面が少しだけある。
そして、あの五百雀辰馬に知られたら……物理的に命が危ない。
統矢と同等に強いパイロットは数える程しかいないが、フェンリル小隊の面々はその筆頭だ。まして、隊長で部長の辰馬とは、まともにやっても勝てる気がしないのだ。
そう思っていると、ガシリ! とれんふぁが統矢の手を握ってくる。
「桔梗先輩っ! そっ、そういうのは辰馬先輩とやってくださぁい! めえっ、です!」
「あらあら……その、ごめんなさいね? 誤解させてしまったみたいで」
「誤解ってなんですか、誤解ってぇ! わたしっ、統矢さんのこと任されてるんです! 千雪さんからっ! だから……赤ちゃんが欲しかったら、辰馬先輩にお願いして下さい!」
旅館のロビーが静まり返った。
れんふぁは本気だ。
そして、彼女は百年近く先の未来から来た。
今以上に激しい戦火に晒された、異星人との戦争が終わった地球から来たのだ。そこでは、男女で子をなすことに恥じらう余裕がない程に、文明や文化、人類の暮らしや営みが破壊され尽くしているという。
むーっ! と上目使いに桔梗を睨んで、れんふぁは統矢を庇うように立ちはだかる。
統矢は絶句してしまったし、ぽかんとしたままの桔梗はくすくすと笑い出した。
「なっ、桔梗先輩っ! わたし、怒ってるんですよぉ~っ! もお、ふしだらです!」
「ふふ、ごめんなさいね。でも、れんふぁさんが赤ちゃんだなんて」
「だって、そうじゃないですか! ……ち、違うんですか? えっと……わたし、早とちり、ですか?」
「そういうことにしておきましょう。それと、辰馬さんにはナイショにしてあげてください。とってもヤキモチ焼いちゃう人ですから」
「……桔梗先輩、ちょっと、なんか……悪い女の人みたいですぅ」
「そう、ですね。わたくしは悪い女かもしれません」
れんふぁはあうあうと要領を得ぬまま、統矢の手を引っ張り歩き出した。
慌てて統矢は桔梗に挨拶を投げかけ、スリッパをペタペタ言わせながら続く。
ようやく浴衣を着直した桔梗は、笑顔で手を振っていた。
だが、大股で歩くれんふぁは怒り心頭のようで、肩を怒らせ廊下を進む。
「統矢さんも統矢さんですぅ! そ、そりゃ……桔梗先輩も千雪さん程じゃないですけど、美人だし? おっぱい大きいし! 男の子って、しょうがないんですからっ! もぉ!」
「おいおい、れんふぁ……ちょっと待て、待とうぜ? なあって」
そのままれんふぁに引っ張られていると、向こうから二人組が歩いてくる。ラスカ・ランシングと渡良瀬沙菊の後輩コンビだ。今じゃすっかり仲良くなったのか、それともガキ大将と腰巾着の間柄なのか……とにかく最近は一緒なのを見かける。
二人は近付く統矢に声をかけてきた。
だが、れんふぁは「はい! こんばんはっ! おやすみなさいっ!」と怒鳴るように言葉を発して通り過ぎる。連行されるように統矢も、二人の横を引っ張られて擦れ違った。
「ちょっと、待ちなさいよ統矢! なに、今度はれんふぁの尻に敷かれてるの?」
「違う、これは違うぞ! おい、二人共助けてくれ!」
「統矢殿っ、グッドラックであります! 自分達は負け戦には参戦しないのでありますよ。そう……自分達は賢いので!」
「おい、沙菊っ! お前っ、千雪の言いつけとかないのか! 俺を守れとかないのかっ!」
顔を見合わせ黙って頷き、ラスカと沙菊は統矢を見捨てた。
黙って手を振り、互いに笑いを噛み殺して顔を見合わせる。そうして後輩達は大浴場の方へと行ってしまった。
そのまま統矢は、れんふぁの部屋へと監禁されるように放り込まれてしまうのだった。