第238話 疎浸植
“お忙しいところすいません、一洸です”
オレは古のものに語りかけた。
まるでばったり会った古い知人に話しかけるよう、さりげなく穏やかに。
蠢いていた巨大なうねりが一瞬弱まるが、動きをとめるつもりはないようだ。
時間停止を解除後、すぐさま“∞”から阿頼耶識に降り立ったオレ(バルバルス)。
十分な時間をかけて、オレの身体を使ったバルバルスとネフィラの共同作業により、ネクロノミコンの解読を進めた。
保管域、静寂さでは阿頼耶識に勝るとも劣らない場所……
この特別な時空間へ出入りできるのは権能者のオレだけで、普段は気にしないままに安心して眠っていられる。
これをわかってもらうためには、古のものにこの空間の居心地を感じてもらわなければならない。
バルバルスは、オレがこの保管域を持つに至った考察を示してくれた。
“一洸、君がこの世界に転移させられた理由も含め、この“保管域”を与えられたのは、君がこの世界の人間ではないからさ”
そうだ、オレは確かにこの世界の人間じゃない。
“この保管域はね、どの世界にも属していない、次元のハザマのような場所にあるんだ…… だから時間の制約を受けない。
君が考えているような、巨大な反応炉があって、エネルギーを維持しているわけではないんだ”
次元のハザマ……
“なんで、オレはそんな次元のハザマに出入りできるんですか……
わかりやすくお願いします”
“きみという、異世界からの転移者だからこそだよ。
この世界の存在であってはならないんだ。
なぜなら、この世界に繋がっていながら自由に出入りできるなんて、その次元の当事者には許されていないからだよ。
これはぼくの駆使できる権能にも言えている”
バルバルスは、再び保管域の果てしない空を見上げて言った。
“ここはすごい…… この広がりは宇宙そのものなんだ…… しかも全く他からの制約を受けることがない”
古のものが申し出を拒否するかもしれない理由……
自分の意思で出入りできない、一度入ったら二度と出られないかもしれない。
不愉快にならない程度に干渉を受ける阿頼耶識のように、適度な雑音もない。
ここ保管域ではそれすら全くなくなる。
“古のものをここに招き入れることは…… 簡単には出来そうもありませんね”
“そうだろうね、ぼくがいにしえでも拒否するだろう。
退屈で…… 死んでしまうかもね”
オレはもう一度古のものに語りかける。
“今ここを出ても、もう二度と元には戻れないかもしれませんよ……
あなたが穏やかに過ごしていた長い時間、かけがえのない環境を永遠に失うことになるかもしれません”
蠢動が止まった。
黒いタールの波がたちまちのうちに収まり、まるでなにもなかったかのようになる。
しばしの静寂ののち、それは声を返してきた。
“……お前か。
元に戻れないとはどういうことだ”
古のものは、それまでと同じように抑揚のない声のまま。
だが、オレの話した内容が余程重要な肝であることはわかっているようだ。
“いまあなたがいるその空間…… 我々が阿頼耶識と呼んでいるそこは、いちど閾を壊すと、もう元に戻ることはないようです。
その場所が、あなたにとっての安逸を保証するステージなら、そのまま近い環境を提供できるかもしれません”
明らかに波動が変わったのがわかった。
“お前が…… 私の安逸な時間を保証するというのか?”
“ええ、恐らく今まで通り静かな時間を過ごすことが可能です。
何物も邪魔をせず、余計な煩い蟲が沸くこともありません”
古のものの活動が、完全に静かになった。
阿頼耶識の閾を壊すということが、どれほどのものなのかわかっていないのは、予想通りだ。
ゴクリという音が、コミュニケーターから伝わってくる。
ネフィラだろうか…… もちろんバルバルスではない。
アールか?
“そのかわり、あなたにも少しだけ手伝っていただくことになるかもしれません。
この大切な手続きに際し、必要不可欠な事柄があります”
オレは、ネフィラやバルバルスと詰めた話を、彼の機嫌を損ねないよう、丁寧に説明し始めた。
“お前の言うことはわかった……
私もここに身を浸して長い身だが、他の世界の類例に明るいというわけでもない。
そこを見せてもらおう”
かかってくれた。
オレは心の内で、静かにガッツポーズをとる。
バルバルスが笑ったのがわかった。
“あなたを移動させる前に……
私の友人の権能を使って、あなたに空間の中を見てもらおうと思います。
この認識方法であれば、移動する負担もなく、障害もありませんよ”
しばらくの静寂があったが、古のものは語りかけてくる。
“……何をするのだ? 私はどうすればいい”
オレは、バルバルスの指示通り、静かに阿頼耶識に身を浸す古のものに触れる。
やはり膝をつかないと、この姿勢は辛いな……
オレの掌が熱くなるのを感じた。
バルバルスの固有能力“疎浸植”。
バルバルスは、前世界から保有している固有能力“疎浸植”を用いて、周囲の知性ある生きものたちの心を意図する方向に導いてきた。
それはエルフの使う、“意通解”を遥に超える能力。
導くという言い方が好ましくなければ、正確には思い・考えを植え付けると言った方が正しいだろう。
思いの種を植え付けられた相手は、その考えや思いを理解し、主たる存在の意向に従うようになる。
現世界に召喚された時、彼はこの力を使ってエルフの社会に溶け込み、偽装を持ってエルフとして生きながらえてきたのだ。
静寂が続いた。
今見ている保管域の内容は、バルバルスがオレの目を通して視た内容だ。
ネフィラ、アンナ、レイラ、そしてリロメラが活動する空間を感じているはず……
“……お前は、お前自身は、この者たちの何なのだ?”
オレはすぐに言葉を出すことができなかった。
空間のことよりも、みんなのことへ言及されるとは思わず、心の内のバルバルスに向き直ったが、彼はおどけたような表情を返してくる。
そのまま、ありのままでいくか。
“彼らは、この私一洸の仲間です……
あなたの眠りを妨げる連中と戦ったり、時に遊んだり、一緒に食事したりして過ごしてます”
さ、またしばらく時間がかかるかな。
“いいだろう、お前の申し出を受けることにする”
え?
オレは古のものにもわかってしまうほど、大きく息を吐き出してしまう。
重力に耐えながら、膝をつきながらではあったが、飛び上がりたいほど喜んでいる自分がいた。




