第236話 導きの書
バルバルスは、ネクロノミコンに手を当てたまま、しばらく目を閉じて黙っている。
オレは自分の身体から行われる彼の動作を、まるで客観視するように感じていた。
彼の思考は、すぐ隣にいながら読み切ることは出来ない。
かすかに漏れ出る感情の噴流のようなものから伺って感じ取っている。
そろそろのようだ。
「これを読むのは久しぶりだよ……
あまりにも昔の事なんで内容の確認がてらだったが、今の現状はここからつぶさに理解できる」
バルバルスはそう言って、オレの眼からネフィラ、リロメラ、アンナ、レイラを見回した。
アールは黙ったままだ。
そういえば彼の紹介をしていなかったが、後でしておこう。
「これはね、“死霊秘抄”と呼ばれて、死者を蘇らせる方法が書いてあり、それ以外の興味深い記述もあるんだが…… 本質的には“導きの書”なんだ」
導きの書?
オレは反射的にネフィラを見たが、再び彫像のように固まっている。
「内容を読み解くことができない、意味不明の記述……
感じ取れる能力のあるものだけがかろうじて理解できる…… とんでもないものだよね。
敢えてそうしてるんだ、最後まで書かれていない内容も含めて、理解できるまでの道のりこそが望まれているわけだから」
彼から移譲されたとされる品々は、この世界の様相を一変させるもので、文明の根底から変わってしまうものだ。
仮に民衆が知りえたとしよう、その文明に発展の余地はあるのだろうか。
「気づいてもらうために、数々の不幸と災難、理不尽を敢えて放置したまま、人々の暮らしを紡がせる……
その合間に、こんな死者復活の本を置いて、自分たちのやるべきこと、本質に気づいてもらう、それが目的みたいだね」
人のことは言えないが、まるで他人事のように言うバルバルス。
この本こそ、彼が著したものではないのか。
沸いてきたオレの疑問に答えるように、彼は続けた。
「これはぼくの解釈だ。
これを書いたのは、ぼくの祖先よりもずっと古い…… なにかだろうね。
ぼくがこの世界に飛ばされた時、すでに存在していた数々のアーティファクトに関しての記述があったので、現物とまとめて保管しておいたんだ」
バルバルスは、アール製ラウンドバトラーのデッキを向いて、その先にあるアールを見た。
「つまりはね、これも望まれる形の一つなんだ……
きみたちは、それを行った。
実際これは、たいしたものだよ」
バルバルスは虚空に向かって発言する。
“これは、わたしとネフィラの共同作業の成果だ。
そう言っていただけると、私も嬉しい”
アールが声をだして応える。
ネフィラが我に返ったようになった。
「あにさまの遺した魔換炉…… あのアールがもたらした駆動装置と一緒に動作させて、ラウンドバトラーを造ったのよ」
バルバルスが、思いっきりの笑顔になっているのがわかった。
彼の用いる呼吸はとても安定している。
オレとは明らかに違うな。
「“アール”、わたしはバルバルスだ…… きみはぼくと同じくらいの時間を生きているようだね」
まるで旧知の友人に会った時のように話すバルバルス。
“この惑星の自転速度と、時間尺度が違うので厳密には言えないが……
近いだろうね”
そう言った時のアールは、変わらない声音でありながらも嬉しそうだ。
「でもここで一番時の牢獄に身を置いてきたのは…… きみかな」
バルバルスはリロメラを見ると、異世界人はまるで子供同志がするように優しく笑った。
まさかあの暴虐天使がこんな表情をするとは……
バルバルスは、再びネクロノミコンに向かった。
「そういう時期だったんだろうね…… この本の内容、今回の世界の変わり目に、全て明かされるだろうよ、きみらがこれから行うことによって」
「あんたの言ってること、俺はよくわかるぜ。
閉じ込められていた気の遠くなるような時間の中でよ、ずっと考えてた。
変えるのは相手じゃない、自分だってな」
リロメラが独り言のようにつぶやいた。
それに応えるように、バルバルスは続ける。
「大切なのはね、自分で気づいて変えていくことなんだ。
変化を恐れず、新しい環境と状態を受け入れていくこと。
だがもちろん、全ての魂にそれができるわけじゃない」
全ての魂に出来ない…… だろうな。
導きの書であると同時に、これは魂を選別するための指南書でもあるわけか。
なんとなく予想はつく。
「俺も変われたんだ…… 一洸たちに逢ってからよ。
自分でいうのもなんだが、前の世界の奴らから見たらまるで別物みたいにな」
リロメラはいつもよりも早口でそう言った。
確かに、オレがこの異世界天使と最初に逢った時からすれば、同じ存在とは思えないほどだ。
「古の従僕が暴れているのを放置していたわけじゃないんだが、そうせざるを得なかったのさ、ぼくの立ち位置からではね。
数百年前の災禍の時点では、別世界に移住させたけどね」
ネフィラの表情がまた変わった。
思い出しているのだろう…… だがもちろん、内容すら想像できない。
「魔力、魔素に依存した生態系…… 気づくのを待っていたのかな。
あの古き存在が、魔素を操る存在を捕食していた本質的な理由は、それだろう」
バルバルスは続ける。
「君たちは外的要因の助けを得ながらも魔素の社会的呪縛を開放し、制御する形を得た。
その方法が半分以上外来技術の輸入であったとしても、自分たちの生きざまを変え得るフェイズまでやってきた、ということだよ」
バルバルスに制御を渡したままのオレの身体。
その時、オレ自身の発言を促すように彼の魂は制御を緩めてきた。
“一洸、きみの考えをみんなに話してみてくれ……
古のものをどうしようと思ってるか、これからも含めてね”
バルバルスの分魂は、まるで傍観者のようにオレの中でオレを見つめる姿勢に入った。




