第235話 覚悟
「あにさま…… あにさまなの?」
ネフィラは抱き着こうとしたオレの胸の前で、彫像のように固まってしまった。
もし今のままの状態の彼女を造形できれば、希代の芸術作品として語り継がれることだろう。
悲哀、憎悪、孤独に貶めた者に対しての、愛……
目の前で読み取れるネフィラに渦巻く感情は、とても表現しきれるほどのものではない。
抱き着きたくてもできない、叩きたくてもできない、泣きたくても涙を流せない。
オレなどとても入る余地のない、あまりにも深い心の闇……
バルバルスはわかっているのだろう、ネフィラの両肩にオレの手を使って優しく触れ、ネフィラの顔を正面から見据える。
「一洸に身体を半分貸してもらってるんだ、あの場所から出てきみたちと話をする方法はこれしかないからね」
ネフィラの唇は震えている。
彼女のこんな表情は、オレの人生の厚みから醸し出させるのは無理だろう。
オレは、ネフィラと二人だけでは決して見ることができないだろう彼女の表情を、自分の魂に刻印した。
「なんと呼べばいいのかしら……
今はあにさま? それとも一洸さん?」
「今はぼくだよ。
でも一洸は隣にいて、ぼくの思いも考えも、共有している状態だね。
彼自身もそうだ」
それは違う、オレはバルバルスの考えは完全に読み取れないし、魂のスケールが違い過ぎる。
と思ったが、今は身体の制御を渡しているので、それが言葉になることはなかった。
ネフィラはオレの両手をとって、包み込むように握る。
「一洸さん、おかえりなさい……
あにさまも……」
彼女はそう言うと、手のぬくもりから自分の安心を伝えてきた。
これは恐らく、バルバルスへの宣言なのだろう。
自分が今、誰を一番に想っているか。
今の自分を支えているものがなんなのかを、かつて信頼をしていた存在にわかってもらうための。
「……ただいま、帰りました」
一旦制御を還してもらったオレは、彼女の温もりを通してそう答えた。
◇ ◇ ◇
オレたちは、バトラー養成のために使っていたベースのミーティングスペースにいた。
アンナとレイラが、腰かけているオレやネフィラにお茶を淹れてくれている。
アンナの表情は硬い。
レイラも、自分に秘めた思いを溜め込んでいるかのようだ。
何故、リロメラやアンナたちを保管域に回収し、カミオたちをそのままにしたか。
もしもの時のために被害を最小限に食い止めたかったのと、地上での展開を予想して、というのが表の理由だが、本音はただ巻き込みたくなかっただけだ。
これ以上誰も死なせるわけにはいかない、ただそれだけの理由。
もう何があってもおかしくはない。
最悪の事態は避けなければならない、が準備はしておく。
「ネフィラさん…… 例の解読はどうですか?」
この貴重なタイミングで、バルバルスを巻き込んでしまうのが必定だろう。
オレには知りえない、ネフィラとバルバルスの関係を考慮する余裕は、そこまで考える余裕はなかった。
「大分進んでるわ…… でも解釈そのものが成立しないような、そんな部分が結構あるの」
オレは、バルバルス自身から強く食いついてきてくれるのを期待した。
彼は今、オレの隣で成り行きを見守っている。
“一洸、いいかな?”
しばしの間があったが、バルバルスはオレに制御の解放を求めてきた。
オレ(バルバルス)は話始める。
「“アレ”を持ってきてもらえるかい、ネフィラ」
ネフィラは表情を変えると、立ち上がった。
「今はよぉ、大魔王なんだよな?」
リロメラが話しかけてくる。
オレ(バルバルス)は、微笑みながらリロメラを見る。
「そうだよ」
「なぁ、あんたならアレをどうにかできるはずだって、俺の中にある深い部分が言ってるぜ……
でもよぉ、それを簡単にやっちまうことが、この星や自分も含めた存在のためにならないって、そういうことだろ?」
バルバルスの分魂が、確かに震えたのをオレは感じた。
核心だったのか。
リロメラの全く忖度しないKYぶりにただただ感謝するしかない。
「……きみは、きみ自身はどうしたらいいと思うんだい?」
「俺はよ…… 元居た場所に帰って、ケジメをつけてぇんだ。
始末を着けさせるってのが、今の望みだ。
だからこの世界が抱えている“重さ”みたいなもんが、なんとなくわかるんだ。
あのいにしえが中に抱えている“闇”みたいなもんもよ」
バルバルス(オレ)が居住まいを正して、リロメラの目を見つめる。
“君の人材は豊富だな一洸…… この人物は、君がこの世界で出会うべくして出会ったものだよ”
オレは自分の目を通して、バルバルスが見つめるリロメラをあらためて見つめる。
ネフィラが、抱えるようにしてネクロノミコンを持ってきた。
バルバルスはそれを受け取り、中を開かずに手をかざし始める。
“読む”のではなく、“感じる”本か。
いずれにしろ、やることなすことなにもかも次元が違い過ぎる。
オレはバルバルスがオレの身体を使ってその動作をした時、彼の覚悟を感じ取った。
“一洸…… 繰り返しになるが、きみは本当に死ぬ覚悟があるかい?”
オレは間髪を入れず、自分の隣にある分魂に答えた。
“ええ”
そのやりとりは、ネフィラにもリロメラにも、ミーコにもアールにも聞かれてはいないはずだ。
オレは、自分から制御をバルバルスに渡した。




