第4話
そんなことが上里家や織田家では起こっていたが。
実際に外国との折衝を行う外務省の方は、そんな会話を交わすどころでは無かった。
臨時に宮内省と連携して、各国の外交官に大喪の礼に参列するのかどうか、参列せずとも弔問の品を提供するのかどうか、参列する場合には席次をどのようにするのか。
頭が痛いことが続出する惨状である。
「出家遁世したくなってきた」
外務省でこの件で課長待遇に抜擢された上で宮内省に出向し、各国外交官との交渉の場における現場責任者になっている毛利隆元は、陰でそうこぼさざるを得なかった。
「そもそも、安芸の国人生まれで、精々が中国地方に名を轟かすことが出来れば幸いだった自分が、何で外務省に勤めて、各国との交渉に汗をかく羽目になっているのだ」
隆元は思わず哲学者になったかのような考えまで浮かんでいた。
ちなみに何で毛利隆元が外務省に入ったかというと、父二人の勧めだった。
父と言っても一人は、妻の養父、つまり義父になるが。
一人は言うまでもなく、実父の毛利元就であり、もう一人は、義父の大内義隆だった。
毛利元就としては、皇軍来訪後の子どもの身の振り方を考えた末にどうせ国司代にしても世襲が保証されるどころか、まず今の立場を息子に引き継げないのなら、と考えた末に長男も含めて安芸から出して、そこで出世を目指させることにしたのだ。
そして、まず長男の隆元に安芸を出ること、京で働くことを勧めた。
「京ですか」
「うむ。皇軍来訪に伴う新政府樹立に伴い、政府で働く人が大量に必要になっている。更にこれまでの身分を打破した登用も行われるようになるらしい。何しろ、これまでの足利幕府の奉行人等が追放されてしまったから、そう言った穴を埋めるだけでも大量の人材が必要になる」
隆元の疑念に、元就は噛んで含めるように教えた。
「確かに」
「幸いなことに、大内義隆殿が在京国司として、既に京に住まれている。大内殿に京での就職先を相談してみよ。お前個人も大内殿と面識がある上に娘婿にもなるからな。尚更に好適だ」
「それでは、父上の仰せに従って京に行きます」
こんな感じで隆元は京に向かって、大内義隆の世話になった。
ちなみに隆元は大内氏の人質時代に、大内家の重臣である内藤興盛の娘を、大内義隆の養女にした上で妻に迎えている。
そうしたことから、義理の息子として義隆は隆元を歓迎した。
そして、隆元の相談を受けた義隆は。
「うむ、そういうことなら外務省に勤めたらどうかな。我が大内家は、明や朝鮮との縁も深い。外交となると明や朝鮮とすることが多くなるだろうから、色々と相談にも乗れるだろう」
「確かにそうですね」
義隆の言葉に応じて、外務省への入省試験を受けて合格したところまでは、隆元は順調に進んだが。
現在の状況はというと。
「明や朝鮮と友好関係になれる目途は全く立たない。皇軍が来訪して、天文維新が行われ、日本新政府ができてから、自分が国名を聞くことになったシャムやマラッカ、オスマンといった国との外交が重要視される時代になるとは」
隆元は溜息を吐かざるを得ない。
そして、外務省職員である以上、その国の人が来た場合、宗教問題にも関与せざるを得ない。
例えば、イスラム教等、名前さえ見たことも聞いたことも無かった隆元にしてみれば、異教もいいところで、未だに理解すら難しい存在だったが。
オスマン帝国の外交官から、その点についての配慮を求められれば、動かざるを得ないし。
隆元自身が、マラッカ王国の首都に大使館員として赴いた際、その点で一苦労する羽目になった。
マラッカ王国はイスラムの国であり、幾ら外交官に治外法権が認められていても、配慮は必要不可欠だったからだ。
毛利隆元の結婚の時期についてWiki等では1549年となっていますが、正室の尾崎局の年齢等から考えると少し遅すぎる気がして、この世界では皇軍来訪前に結婚したことにしています。
ご感想等をお待ちしています。