第1話
1557年9月、天文天皇陛下(史実の後奈良天皇陛下)と後世に称せられる今上天皇陛下は、崩御なされた。
そして、改めて天文天皇陛下の御生涯を辿ってみると。
天文天皇陛下が、天皇陛下としてご即位されたのは1526年にもかかわらず、実際に即位の礼が行われたのは1535年であり、それ程に当時の天皇陛下、皇室は貧窮を極めていた。
こうなったのは当時の皇室を、足利幕府を始めとする各地の武家が蔑ろにしていたためであり、多くの武家が承久の変以来、孜々営々として皇室の荘園を押領する等して、ひたすら皇室を滅ぼそうとしていたからである。
もしも、皇軍の来訪が無ければ、皇室は武家によって消滅させられていた、本当に皇軍の来訪は、大日本帝国の救いであった、天照大御神による天祐神助であるという伝説が、後世の大日本帝国の国民に信ぜられるのも、最もな有様であった。
だが、1542年の皇軍の来訪により、その状況は一変した。
皇室を蔑ろにして、天文天皇陛下らに塗炭の苦しみを味合わせていた足利幕府は皇軍によって滅ぶこととなり、その手下となっていた細川晴元や六角定頼らも、皇軍によって族滅された。
そして、皇軍の支援により、天文天皇陛下は親政を開始して、その才を振るわれ、大日本帝国が世界に雄飛する礎を築かれることになったのだ。
1557年に天文天皇陛下が崩御された時、大日本帝国は積極的に海外に雄飛しており、北米大陸西海岸、豪州大陸等は大日本帝国の植民地として開拓されるようになっていた。
また、オスマン帝国を始めとして、シャム王国やマラッカ王国、コーッテ王国等と大日本帝国は同盟関係にあり、琉球王国等は大日本帝国の属国となっていた。
また、日本海や東シナ海、南シナ海どころか、インド洋から太平洋に至るまでの広大な海を、我らの海と呼ぶことができる程に、大日本帝国海軍はこれらの海の制海覇権を握るようになっていた。
当然のことながら、これらの海における交易活動を庇護し、そこで多くの利益をあげているのは、大日本帝国だった。
しかし、未だにポルトガル王国によるインド洋への侵略活動を警戒しないわけには行かないし、また、スペイン王国による北米大陸西海岸等への侵略を警戒しないといけない状況にあり、大日本帝国は平和を謳歌できるとは、とても言えない状況にあった。
そういったことから、我が大日本帝国の民が未だに戦禍にさらされる危険が続いている以上、我が葬礼は薄葬でよい、とのお言葉を天文天皇陛下は、崩御の際に遺されたが。
そういうお言葉を賜ったからと言って、仮にも大日本帝国の天皇陛下、エンペラーの葬儀、大喪の礼を薄葬で済ます訳には行かない、というのが現実というものだった。
天文天皇が崩御されたことから、大喪の儀がまずは皇室内で執り行われ、更に政府要人や外国の大使等が参列する大喪の礼が執り行われることとなった。
この点について伝統を重んじる公家からは、夷狄を帝の葬儀に参列させるのか、という声が全く上がらなかった訳では無いが。
皇軍の来訪により、我が国、大日本帝国は海外に雄飛し、積極的に異国と交わっている。
現実問題として、お互いに既に外交官を相手の国の首都等に駐在させる現状ではないか、という(主に皇軍関係者を中心とする)声の前に、大喪の礼に外国の大使等が参列するのを認めざるを得なかった。
とは言え、何もかも初めて尽くしの事態である。
外国の大使等を招くにしても、招く方も招かれる方も様々に気を遣ったうえで、対処することになるのは当然のことで。
また、国内にしても大喪の礼のやり方については、事実上は初めて尽くしということから、混乱が生じるのは避けられなかった。
一部、武家の描写がおかしいところがありますが、歴史描写は主観に満ち溢れているということでお願いします(特にこの世界では、皇軍来訪によって歴史の主観がねじ曲がっています)。
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