1、ここは地獄の三丁目
目を覚ますと、バラの刺繍の紗の下がる天蓋が視界を塞いでいた。
朱音は顔を覆った両手で溜息を押しつぶし、しばらく目を閉じたが、深い眠りが再び訪れることはなかった。
観念して体を起こし、乱暴に紗を押しのける。
「お目覚めですか、ベニーお嬢様」
ノック三回、しずしずと入って来たのはメイドのアンナだ。重たいドレープカーテンが開けられ、窓から黒鶫の囀りが響いた。青空の下に広がる薔薇の庭園は見事に刈り込まれ、柔らかに萌えている。
グレナディエ王国魔法学園のドロッセル寮、その最上階の一室。
この朝を何十回、いや何百回迎えただろう。
ああ、また戻ってしまった――このベネディクト・ダルセーの体に。
毛足の長い絨毯を裸足で踏み、壁際の鏡台を覗き込めば、大層な美少女が十七歳にしては老けた表情でこちらを見ていた。若いころのナタリー・ポートマンにそっくりだが、目の色だけは、はっきりと違う。
鬼灯のような朱。だが、こちらでは取り立てて珍しい色ではない。兄のドミニクは石榴のような澄んだ深緋色だ。
この国の人間は揃って黒髪である代わりに、瞳の色が多彩である。勿論、白髪や、わざわざ染めている者もいる。だが瞳の色を隠すことはできない。それは魔力の色そのものであり、その人の魂を表す色だからだ。
何度見ても見慣れない色を見つめ、朱音は静かに唇をかみしめた。
ダルセー公爵令嬢ベネディクトがこの部屋で生活するようになって、既に二年、否、朱音の体感では二年どころではない。三十年、いや、四、五十年かもしれない。数えるのは周回が二桁を越えたあたりでやめてしまった。
端的に言えば、ループに嵌っている。
この物語のヒロイン(♂)であるアルベリク・オージエが誰かと結ばれない限り、ベネディクトは何度でもここに戻される。
それが、自殺者である朱音に用意された地獄だった。
腐女子でものない朱音がこのBLゲームを知っていたのには理由がある。
好きな絵師がたまたま、このゲームのキャラデザを担当していたのだ。
BLゲームなのになぜ悪役令嬢が出てくるのか。
それはズバリ、ノンケがゲイに目覚める瞬間が至高!! だからだそうだ。
そのあたりの機微は正直、よくわからない。よくはわからないが、絵師や界隈の人々が楽しそうなのを見るのは好きだったので、流れてくるネタバレやファンアートを仕事の合間に眺めていた。全くプレイしたことがないのにキャラとストーリーの概略を知っているのはそのおかげだ。僥倖と言うべきか迷うところではあるが。
悪役令嬢ベネディクト・ダルセーはメイン攻略対象である王子の婚約者で、騎士の妹で、賢者の同級生という役どころである。言わずもがな、三人とも攻略対象である。ストーリー開始時点では彼らの恋愛対象は女性で、ヒロイン(♂)とも友人関係しかない。悪役令嬢はその辺りのギャップを強調するための単なる当て馬だ。
攻略対象の残り二人は担任教師と暗殺者である。勿論暗殺者は学園の関係者ではない。所謂かくしキャラという奴である。
ストーリーのあれこれは省くが、とにかくヒロイン(♂)が誰かとゴールインすれば、悪役令嬢はお役御免、晴れてぽんぽこ死出の旅である。
「今度こそ、今度こそ破滅してやるんだ……」
朝日を睨み、朱音は何十度目かの決意に唇を震わせた。
の、だが。
「どうしてこうなった……」
一年後、白く輝くウエディングドレスに身を包んだ朱音ことベネディクトは、レースの手袋に包まれた右手を優雅に振りながら、王宮のバルコニーではるか遠くを見つめていた。
祝福の鐘が高らかに鳴り、横に立つクロヴィス王子がさりげなく手を繋いでくる。
眼下には王宮広間に集った民衆の黒い頭がざわわざわわと揺れている。この中のどこかにアルベリクも居るのだろう。そっと切なげな眼でクロヴィスを見上げて。
(そんな目で見るぐらいだったら、なんで虐めの証拠を集めなかったんだこのポンコツ!! あんなにわかりやすくばらまいたのに回収できないってどういうことよ!?)
メインルートである第四王子クロヴィスのルートでは、アルベリクはベネディクトに執拗な嫌がらせを受け、そのせいで学園を退学寸前まで追い込まれる。だが、友人らの協力の元、ベネディクトの不正や虚偽の告発の証拠を押さえて、学園裁判で逆転無罪を勝ち取るのだ。
ベネディクトは反論できないと知るとアルベリクの口を封じようと攻撃するが、クロヴィスによって阻まれ、婚約破棄と処刑を言い渡される――――はずなのだが。
「ベネディクト。お前となら、下剋上を成し遂げられる。俺はお前に王妃の冠を被せると約束しよう」
野心家の王子はあれよあれよという間に病弱な第一王子や身分の低い妾妃から生まれた第二王子、やる気のない第三王子を排して王太子の地位をもぎ取ってしまった。
そしてこの結婚式である。
勿論、何度もあの手この手で逃げようとした。
諸事情により、朱音は生涯独身を貫くと心に決めている。
彼にバットとボールがある限り、朱音は決してマウンドに上がることはないのだ。
「殿下、お願いです。私のミットは百年前に焼き捨てたのです」
「何をおかしなことを言っているんだ、ベニー。さあ、おいで。優しくすると約束する」
「必要ありませんので」
「なるほど、激しい方が好みか。そそるな」
「話をお聞きくださいませド畜生」
儀式が終わり、宴会が終わり、風呂と化粧と根回しが終わった今、夫婦の寝室にあるべき甘い空気がベネディクトを追い詰めていた。
彼女としても手をこまねいていたわけではない。あらゆる手を尽くして回避を試みたのだが、相手は最高権力者の一族である。彼女の策は悉く潰され、ついに最後の防衛線に踏み込まれてしまったのである。
「あまりにつれないのも興ざめだぞ」
「では寵姫をおつくり下さいませ。十七歳以上であれば男でも女でもわたくしは構いません。どうぞご自由に」
「そうやって気を引くのが上手いな、お前は。御前試合の時を思い出す。あれほど激しく体を重ねたことはなかった」
「あれは単なる組手だったではございませんか」
「ああ。あの時も俺が負けた。いったいどれほどの研鑽を積めばあの技量に至るのか……」
「百年です」
「ふふ、では私にも百年付き合ってもらおうか」
クロヴィスの手が頬に触れた。
降伏か、死か、鷹の瞳が選択を迫る。
(…………ん? 死?)
朱音は、はたと気づいて立ち上がった。
「そうだ、I can Fly!」
だが残念なことに、暗殺を警戒する王族の寝室に窓はなかった。