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正しくない

「忘れなくてもいいんじゃないかな」

 僕はそう口にしていた。

 ハルカはチラシを折る手を止めて、こちらを見つめ返した。

「永遠に残るものなんてないけど。記憶でも、ものでも。だから忘れないくらい、何でもないよ」

 ハルカの凪いだ海のような眼差し。

 彼女の瞳には、僕の背後にある水槽に取り付けられたLEDの灯りが反射していた。

 エアポンプの起こす微かな振動が、彼女の瞳の光を揺らす。

「……あなたは、不思議な人ですね」

「はは、男のくせに女みたいだなんて、よく言われるよ」

「いいえ、そうじゃない。あなたは……」

 ハルカはチラシを丁寧に折りきると、カバンにしまった。

 そして、静かに「姉が、恋人について何て言っていたか、教えて下さい」と囁いた。

「きっと私以外の誰もが、お姉ちゃんのことを忘れていくの。だって、お姉ちゃんはどこにでもいる普通の人間だったから。私にとってはただ一人の、誰も代わりのいない姉なのに。だったら私は姉の何かを形見にしてもいいんじゃないかって……何も残さないでいなくなるなんて、ひどすぎるから」

 小さい声ながらも、引き絞るようにして言った彼女の顔は、まるで幼い少女のように頼りなく見えた。




 僕はこの若く美しい女が持つあやうさに気づいた。

 遺族であるはずの彼女は、姉を襲った犯罪の凄惨さに胸を痛め、犯人が見つからないまま事件がうやむやになることに憤っているのではないのだ。

 ミズキは若くして理不尽に命を奪われた。これから本来ならあったであろう人生の時間や、手にした幸福ごと彼女は消滅した。

 この悲劇は、現在から未来に向かったミズキの存在を蹂躙し、過去にミズキを閉じ込めてしまった。

 何を夢見ていたか、どんな思い出を大切にしていたか、もう知るすべもない。

 僕はミズキをあわれだと思った。彼女をこんな目に遭わせた犯人は、某かの報いを受けるべきだと思った。

 これは、僕だけに限ったことではあるまい。メディアの向こう側のできごとであっても、その人の人生を思って、僕達は泣いたり笑ったりする。ミズキの事件報道で、この国の人間の何割かは確実に、犯人は罰せられるべきだと思ったはずだ。

 けれど、ハルカはそうではない。

 彼女が許せないのは犯人ではないのだ。彼女は、彼女の姉に対して怒りを感じている。

 姉の死そのもの、姉が自分の前からいなくなったということを怒っているのだ。

 それも、自分の知らない恋人ができた姉。彼女の知らない姉となって、そのまま彼女から喪われたことが許せないのだ。

 例えるなら、お気に入りの玩具が使えなくなったことを受け止められない子供のようだ。

 ぞくりと背筋が震えた。

 彼女は幼い。この美しい顔や、大人の女の体の奥底に、物心ついたばかりの魂を飼っている。

 その魂は泣き叫んでいる。自分の幼さのゆえに、幼ない自分のために。


 テレビの前で、誰かの悲しみや苦しみを思い、僕達は泣く。けれど、コマーシャルが終われば、泣いたことを忘れたように、笑っているのだ。

 僕はそれが当然だと思う。畢竟、人間の思いやりなんてものはその程度のものだ。うわっつらのもの。

 一過性の他者への共感で、あたかも自分は善人かのように鼻の穴を膨らませる。……実は、僕はそういう人間の内面の働きには特に興味がない。というか、理解しようと思わない。

 僕が興味があるのは、その人間の形だけだ。形を整える、より美しくする。だから僕は美容師をやっているのだ。僕は人間が好きだ。人間の形や、その形の持つ美しさが。

 どんなに醜くても、技術によって美しく作りかえることができる。僕にとって人間は、そういう可能性を持った素材なのだ。

 ハルカの形はすべて整えられている。彼女は美しく、ひとつの統一されたイメージを持っている。清純、清楚、慎ましさ、女性らしさ。彼女はこのままで彼女の良さを充分に活かしている。ヘアスタイルはある程度変えても、方向性はそのままでいいと思うよ。

 君は、とても整っている。

 でも君の――心のうちは。



 歪んでいるものって、魅力的ですよね。

 完全に見えてどこかが欠落していたり、ひとつだけついた傷のせいで価値がなくなったり。

 本来の正しさを持つことができなくなると、どんどんねじれてゆくんですよ。

 ぎりぎり、ぎりぎりねじれていって、元に戻ろうとして、勢いで反対側にねじれていく、ゴムみたいに。

 何度も何度も繰り返し、ねじれては戻り、ねじれては戻り、そこからは先はもう、もとに戻れないくらいねじれていくか、どうしようもなくなって狂ったみたいに暴れ回って周囲を巻き込んで、とても面白そうです。

 それとも、壊れてしまうかな。




「……あの?」

 ハルカの声で、僕は我に返った。僕はあまり頭を使うのは得意じゃない。学校の成績だって、良かった試しがない。

「あっ、そうだね、お姉さんの、恋人のことだね」

 僕は上の空のまま、ミズキのカットをした時のことについて話し出した。

 会計時にミズキが爪の痛みを訴えたことを伝えると、ハルカはハンカチで目元を拭った。

「ひどい、ひどい」と繰り返すハルカを前に、僕はうなだれることしかできなかった。

 結局のところ、僕はミズキの恋人を特定できるような情報は持っていない。だから、僕が語ったことは、ハルカを更に苦しめただけに過ぎないのだろう。

 目をピンク色にしたハルカは、その美しさに艶めかしさを上乗せしていた。苦しげに寄せた眉や、目尻の赤くなったあたりなど。その形が持つ記号と、彼女が心に持つ記号。等号、不等号。

「ひどい、お姉ちゃん、ひどい……」

 そういえば、僕はミズキについて、赤い爪とは覚えていたが、彼女がどれ程痛い思いをしていたかなんて心配は、ちっともしなかった。

 でもそれは、ハルカも一緒だ。




 ハルカが落ち着くのを待って、僕達は『アリウム』を出た。

 店の前で彼女は、

「また、会ってくれませんか?」

と、僕に尋ねた。

 僕は神妙に頷いた。それから、彼女が僕に会いたがる理由を考えた。姉のことはもう話した。彼女は、僕自身に興味を持ったのだろうか。

「……あの、いいけど、僕、あんまり女の子に興味ないからね」

 ハルカは、は、と短く息を吐いてから、ぷっと吹き出した。

「男の人に興味があるんですか? 先程助けてくれた方とか」

「それはありません! それに彼には好きな人がいるらしいよ。君たち二人とも恋人候補には事欠かなさそうだね。あ、嫌な気持ちになったらごめん」

「……私も男の人には興味ありません。そういう意味じゃないですよ」

「じゃあ、なんで……美容師になりたいとか?」

「すてきなお仕事ですけど、私に美容師は向いていないと思います。そうですね、あなたの前だと、素直な私でいられる気がするから」

 僕の脳裏に、泣き叫ぶ子供の画が浮かぶ。

「私でなきゃいけない私を脱ぎ捨てて、もっと楽に息ができたらいいのにって、時々思います。あなたの側は、何だか息が楽だから」

「……よくわかんないけど、そういうことなら」

 泣きはらした瞼をしていても、ハルカの笑顔は可愛らしかった。




 明日も仕事だ。すぐに帰れば良かったのに、僕は二階にあるからと店に寄っていくことにした。

 それが間違っていたのだ。

 すっかり暗い時間になっていたのに、営業日でないから、階段の灯りもついていなかった。

 探り探り階段をのぼって、店の鍵を開けようとしたところで、僕の首に何かが巻き付いた。






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