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ドネーション

「ちょっと! 君!」

 僕は、ハルカともみ合う男に向かって叫んだ。男は気づいて僕を見て、その辺の電柱か散歩中の犬にでも声をかけられたと思ったんじゃないかと疑うくらい、無造作にハルカに注意を戻して、それからまた、僕を見た。

 男が僕を『僕』として認識し、自分の邪魔をする相手だと判断した瞬間、僕達の間には十メートルほどの距離があった。それでも、男の目に激しい感情が宿ったのがわかった。

「おい! ハルカ」

 男はハルカのカバンのストラップを掴んで、激しく彼女を揺さぶった。

「また新しい男ができたのかよ、なあ、目を覚ませよハルカ」

 ハルカは踏ん張って耐えるのだが、高くないとはいえヒールの靴では、分が悪かった。

 後ろ髪が弾む。日本人特有の柔らかさを宿した黒髪が彼女の肩で躍り、隙間から白い首が見えては消え、見えては消えする。

 首が折れるんじゃないか。

「やめろ!」

 二度目の僕の叫びは、男の動きを止めた。

「……何だよてめぇ」

 よく見れば、顔立ちの整った若い男だ。ハルカと年は同じくらいだろうか。金のかかってそうな服装をしている。若者に人気のブランド。

 男がハルカのバッグから手を放す。ハルカはよろめいて、歩道にしゃがみ込んだ。

 男は大股で、僕の方にやってくる。三メートル、一メートル、鼻面を近づけて、男は唸った。

「余計なことすんなよ、ほっとけよ。あんた何なの。何様のつもりなの? 口出さないでくれる? 関係ないでしょ」

 体がぶるっと震えて、僕は外の寒さに気づいた。

「僕は関係なくとも、君が、彼女に関係があるなら、もっと彼女を大切にした方がいいんじゃないか。ああ、本当は関係がないとか」

 僕が早口で言うと、彼はくわっと目をむいた。

「このやろう!」

 男は僕の胸ぐらを掴んで、こぶしを振り上げる。僕は両手を上げて顔をかばった。

 ――殴られる。顔はやめてほしい。あとが面倒だ。お客様にああだこうだと聞かれるのは、それに笑顔で答えるのは疲れるから。

 けれど、衝撃は訪れず、きつく絞められた胸元がゆるむ。

「ナオトさん、無茶しないでくださいよ」

 見れば、アツミが男の腕を背中に捻り上げていた。男は激痛のためであろう、声も出ずに、歯を食いしばっていた。アツミはにこにこして、男の肘から手首を完全にきめている。あれは無理に暴れれば肩が外れるやつだ。

「おお」

 ドラマか何かのヒーローみたいではないか。

 感嘆の声を漏らした僕に、アツミは苦笑した。

「コツさえつかめればそんなに難しいことじゃないですよ」

「火事場の馬鹿力でもなけりゃ、僕には無理だね。もういいよ、放してやれば」

「どうします? 土下座でもさせますか? 一、二本折っときます? 今なら正当防衛」

「過剰防衛きわまりない! いいから放してやりなさい」

「はーい」

 解放された男は、「覚えてろよ!」と言ってその場を駆け去った。

「……今時、あんなおきまりの言葉使うんだね」

「今時なら、多少の暴力は見て見ぬ振りがおきまりですよ。ナオトさんって意外と正義漢だったんですね」

「そんなんじゃないけど、ありがとう」

 美しい顔に乱れた髪を貼り付けたハルカが、涙で潤んだ目で僕を見ていた。

「大丈夫?」

 ハルカは頷いた。

「すいません」

 僕は彼女の手を取って、立ち上がらせた。白く冷たい手だった。歩道に座り込んでいたからだ。行き交う人はいない訳では無かったが、こんなトラブルには、誰も関わりたがらない。

「……すいません」

「いいよ」

 あれは誰だとか、どうして襲われていたのかとか、さておいて、今の僕達にはあたたかい飲み物が必要だった。

 アツミは予定があるそうで、僕はハルカだけを連れて『アリウム』に戻った。




 また、水槽の影の席に向かい合って座る。彼女の頬にはうっすらと血の気が戻りつつあった。

 勝手に彼女の分まで注文して、僕は自分の荷物から美材のカタログを取り出すと、それを眺める振りをした。

 店員が飲み物を持ってくる。それでも僕は、滑稽な芝居をやめなかった。

 やがて、彼女があたたかいカップを取り上げ、一口飲む。

 そして、ほうっとため息をつくと、カップの内側にできたささやかな波の音を聞くように、目を伏せた。

「……お疲れ様」

 あ、黙っていようと思っていたのに、つい話しかけてしまった。

 目を上げた彼女は、はにかんだ笑みを浮かべていた。

「……ありがとうございました」

「お礼は僕よりもさっきの彼に」

「いえ、ナオトさんに、言わせて下さい。ありがとうございます」

 彼女ははっきりと言い直すと、カバンの中に手を突っ込んだ。

 取り出したのは、大学の学生証である。佐藤 遙香。

「約束の身分証です」

 僕は受け取った学生証をまじまじと見た。

 この時、ハルカには、しっかりしているというか、気丈というか、芯の強さ、ぶれなさが備わっているのだな、と僕は感じていた。

「みっともないところをお見せしてしまってすいません。さっきの彼には交際を申し込まれて、とっくにお断りしたんですけれど、なかなか納得してくれなくて……ゼミも同じなのでいろいろ」

「それって、前に言ってたストーカーってやつなんじゃ」

 ハルカは眉を下げた。

「それは別の人です。地元が一緒で、大学でこちらに出てきたので、もうつきまとわれなくなったと思ったのに、追いかけてきて」

「へえ」

 僕は間抜けな相づちを打った。

「彼には……父がもう私に関わらないように、手を回させたと聞きました。父は、会社をやっていて、そこそこ顔が利くんです」

 なるほど。ミズキの母とハルカの父は年が離れていると言っていた。

 母親は二十歳の時にミズキを妊娠したのだから、再婚当時はまだ二十代の筈だ。

「父は、私に何かあるととても胸を痛めて……姉の事件も、そうです。テレビで、事件のニュース流れなくなったでしょう?」

 確かにあれほどの猟奇的な事件であったが、もうテレビではサトウ ミズキの名前を聞くことはない。今、テレビで盛んに報道されているのは、ある野党議員の不倫疑惑である。

 ミズキの事件の直後、通り魔事件などの凄惨な事件がつぎつぎ起きて、大衆の興味は次々に移っていった。

 一度旬を過ぎた事件は、忘れ去られていくだけだ。

「父が、地元の政治家に頼んだらしいので、もう報道はされなくなると思います。それから、警察の捜査も、縮小して、形だけになると」

「じゃあ、犯人は捕まらないんじゃないの。それでもいいの」

「犯人が捕まっても、姉が戻ってくるわけではないですから。それに、実家の父母には世間体がありますから。特に父は、いつまでも姉の事件が面白おかしく取りざたされるのは、気にくわないんだと思います。母も、自分の連れ子のことで一族を騒がしてって、肩身が狭いそうですし。実家ではもう、早く姉の事件は忘れて、なかったことにしてしまおう、姉も、いなかったことにしてしまおうって。でも、私、姉の恋人だけはどうしても見つけたいんです。姉の恋人は、私の知らないお姉ちゃんを知っているんでしょう? それってずるいですよね。お姉ちゃんの心を奪って、お姉ちゃんはもういなくて、みんな忘れよう、忘れようってして、そんなの、ひどすぎるじゃないですか」

 ハルカの勢いに押された僕の手元から、カタログに挟まれていたチラシが滑り落ちる。

 テーブルの下に薄い紙は舞い落ちて、ハルカが黒髪を耳にかき上げながら、頭をテーブルの下に潜り込ませる。

「ご、ごめんね、拾わせちゃって」

「……ヘアドネーション……?」

 チラシの文字をハルカは読み上げた。

 受け取る僕は、ハルカの手と自分の手が触れあわないように、屈んだ彼女の胸元に目をやらないようにしながら、言葉の意味を説明する。

「ヘアドネーションってのは、小児がんとかでカツラが必要な子供に、自分の髪の毛をおくるボランティアだよ。カツラは人毛の方が自然だけど、高くなるしね。自分の髪の毛が誰かの役に立つならって、最近はわざわざ伸ばしてるお客さんもいるよ」

「人の髪の毛なんて、気持ち悪いって、ならないんですか?」

 素朴な疑問、といった顔のハルカに、気持ち悪いわけないよ、と僕は一蹴した。

「髪の毛は、誰かの一部、誰かの心の一部でしょ。役に立ててねって渡して、ありがとうって貰って。臓器移植なんかもそうなんじゃないの、よく知らないけどさ」

「そんなものなんだ……」

 手を出したハルカにもう一度チラシを渡すと、ハルカは「これ、頂いてもいいですか?」と僕に聞いた。

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