フォーク
次の僕の仕事の休みを待って、ハルカと僕は『アリウム』で再び会う約束になっていた。
僕は時間よりも早く向かい、先に『アリウム』の上にある自分の店で気になっていた仕事を片付ける。
どんな仕事も、続ける限り自己研鑽から逃れることはできない。ましてや美容業界は流行の移り変わりも早い。新しいカラーが開発されれば、いち早く講習を受け、バングの厚さはどうするか、レイヤーはどこから入れるか、一回りして時代をもとに戻るようなカットスタイルを仕入れてきて、さもこれが最先端のおしゃれなのだと付け焼き刃とはお客様には悟られず、ご提案差し上げる。
僕は片端から業者への注文書を書き上げる。昔はヘアミルクを、少し前はヘアワックスを、今はオイルを勧めている。オーガニックなオイル。配合? 後ろのラベルを見たって、それがその通りか、僕には確認することもできない。小さな瓶にしてはいい値段だ。
昔は、冒険もできた。丸一日かけてモデルの髪の色を抜き、鮮やかに染め上げる。実用性のまったくない髪型。実用性のまったくない社会に役割を持たされる前の人間だった僕達。
店から見下ろす道路を歩いて行く人々は、一様にくすんだ色の服を着ている。秋から冬になっていく季節柄、黒っぽい色が多くなるのは当たり前だが、漆黒を着こなすほどの度量は彼らにはない。駅についた電車から吐き出され、アスファルトの上を見えない糸にひっぱれるように歩いて行く黒い人の群れは、蟻の行列に似ているが、蟻ほどのひたむきさもない。
ないものだらけだ。彼らにはなく、僕にもない。
約束まではまだ時間があるが、腹ごしらえをしておこうと入った店内で、僕は知った顔を見つける。
「アツミくん」
彼はいつものようにカウンターの隅に座っていた。軽く手を上げた彼の前には、食べかけのサンドイッチの皿が置かれている。
「またお仕事ですか」
俺はこれからですけど、と若いくせに目尻に皺を寄せて彼は笑った。彼は気楽な身分だ。
「僕が社畜だって言いたい?」
「そんなことないですよ。真面目だなって。俺、真面目な人、尊敬してますよ。そういう人好きなんで」
「目が嘘だって言ってるよ、目は口ほどにものを言う」
「嫌だなあ、ナオトさんは。俺の目はいつも正直です」
「正直だから嘘だってわかるんだよ」
アツミくんはメニューを取って僕に寄越した。
「参ったなあ」
全然参ってないふうの彼の肩を、僕は押しのけてスツールに腰掛けた。
僕よりも彼はだいぶん体格がいい。だから、彼がスツールから落っこちそうになったのは演技だと、よくわかった。
「何か荒れてません? ナオトさん」
注文した僕がおしぼりで顔を拭い終わったのを見計らったのか、アツミは声を潜めて話しかけてきた。
僕は彼に何をどう説明したらいいものか戸惑ったが――ええい、ままよ。思いついた順に口に出してみた。
殺された姉を持つ妹、不気味な手紙。僕の話は断片的でまとまりに欠けたが、彼は聞き上手だった。手際よく要点を把握する。
アツミは顎に手を当てしばし考え込むようにすると、スマートフォンを取り出した。
僕の前には注文したパスタセットが運ばれてきた。それ程腹が空いている訳でも無いと思っていたが、目の前にすると口の中に唾液が溢れてくる。
視覚や嗅覚がそうさせるのだ。あたたかい湯気にのって立ち上る煮込んだ肉とトマトの匂い。香ばしさと酸っぱさ、うまみ。白い皿にのったパスタの色、赤いソースの色。
銀色のフォークを赤茶に汚しながら、僕はパスタを巻きすくう。口に入れると思った通りの味がした。こんな風に、肉汁と脂が舌の上で溶けあう。思った通りだ。
「……すごいな、思った通り」
アツミは画面を見たまま、ぽつりと呟いた。
僕はパスタを咀嚼しながら尋ねた。
「何が?」
「SNSですよ。ちょっと検索してみたら、ボロボロ出てくる。匿名掲示板にはお姉さんの事件のスレッドが立っていたけど、途中から荒らし行為がすごい」
「……へ? もう少し、わかりやすく教えてくれる?」
アツミは僕に画面を見せた。
幾つかの文字が飛び込んでくる。『ブス』『ぶりっこ』『整形』『ビッチ』『援助』
「なんだこれ」
「ナオトさんはSNSやってないんですか?」
アツミは真剣に尋ねているようだったが、僕は正直に答えるのもしゃくで、「もちろんやってるよ」と答えた。アツミは苦笑した。
「まあ、やっててもやってなくてもいいんですけど。その妹さんも、自分でやってはいないみたいですし。SNSっていうのは、要するにインターネットを使ったコミュニティですよ。そこで個人が情報発信できる」
そういえば、僕の店でも、クーポンサイトとの連携だとか、新着情報の更新だとかを、業者に頼んでやって貰っている。確か、SNSでの口コミも大事な宣伝だとか、聞いたことがある。美容院の店舗数は多い。生存競争を生き残るためには、その店に特有のイメージが必要だ。そして、そのイメージは顧客のニーズによる。それはもう会社の上の方でやってくれることで、一技術者の僕には関係のないことだと思っていた。
「SNSに限らず、インターネットは匿名性が高いから、ひとつひとつの情報発信への責任感が薄くなる。要するに公園の便所の落書きレベルになるってことです。インターネットは公園に行く手間もいらない。誰かが便所に入ってくるかひやひやすることもない。今なら、ポケットからスマホを取り出すだけです。それで、普通なら面と向かって言えないようなことを、誰憚らず言うことができる。自分がやったってばれることもないから、どんなことも面白半分で発信できる」
僕はもう一度アツミの手元に目を落とした。頑丈な長い指のフレームに輝く画面の向こうには、悪意の世界が広がっていた。書き込まれているのは、ハルカへの誹謗中傷だった。まさに、悪口雑言を尽くしているといった印象だった。
それは、彼女が通う大学を話題にしたスレッドだった。そこで名指しされた彼女に、不正に入学したのではないかという言いがかりに始まり、彼女は男達に媚びて単位を融通して貰っている、ミスコンに推薦されたが辞退したのも同情を買うため……などなど。大学にはミスコンなんてものがあるのか。
女同士のやっかみかと思いきや、男が書いたと思われるものもあった。こちらは同じ男の僕でも目を覆いたくなるような、露骨に欲望をぶつけるもの。女性を性の道具としか思っていないような、人格を認めていないのではないかと疑いたくなるような。
「……ひどい」
「お姉さんの事件は、妹のせいだという書き込みが幾つもありますね。妹が袖にした男の逆恨みでお姉さんが殺されたんじゃないかっていう。報道を見る限りでは、有力な容疑者も見つかっていないみたいですし、噂のレベルですけれど、俺が妹さんだったらなかなか堪えますね、この状況は。事件が起こる前から、ネットで中傷被害にあっていたみたいですが、こういうのに慣れるってのはないでしょうし」
僕は、フォークを置いた。早飯の習慣で、皿の上はほとんど平らげていた。
「最近の子はみんなこんなことに慣れてるのか」
「そうですね。小学生、中学生でも、動画サイトやSNSを気軽に利用して、深みにはまっていくのは、よくあることみたいです。俺、大学で教育実習にも行きましたけど、友達グループってのは、そのままSNSのグループなんですね。だから、SNSからはずされるっていうのは、そのまま友人関係の断絶でしたよ。
ハルカさんですか。彼女はこれだけネットで晒されていたら、フラットに友人を作るのは、なかなか難しいんじゃないですかね……孤立していそうです。彼女はストーカー被害も受けていたんですよね? 加えて今回の殺人事件……ネットは盛り上がりますよね。いいスケープゴートです。日頃の鬱憤を晴らすための」
驚いたことに、彼女の写真すらさらされていた。顔には一応、黒い線が被されていて、首から下は、これは僕にもわかる、コラージュという手法だろう、卑猥なポーズを取った裸体にすげ替えられている。
僕は画面から体ごと顔を反らして、げふ、とナプキンの影でおくびをした。おくびには食い物のいい匂いと、同時に消化しきれない悪意がこもる。
暗澹たる気持ちで、店の外に目をやった。
「あ」
まだ遠くにいたのはハルカだった。小走りでこちらに向かってくる。シフォン素材のスカートが、彼女のすらりとした足に纏わり付いては広がる。
僕はすぐに彼女が後ろを気にしていることに気がついた。振り返っては足を速め、また振り返る。
彼女の後ろには、彼女と同じくらいの年の男がいた。
男の手が彼女のバッグにかかる。
「ナオトさん!」
立ち上がった僕の後ろで、フォークが床に落ちたが、気にする余裕はなかった。