魚眼
カタカタカタカタ。僕はため息をついていた。
「……ザクロじゃないんだ」
ハルカが訝しげに眉根を寄せる。
「え?」
「あ、何でもない、何でもない」
僕は自分に驚いていた。僕がため息をついたのは、落胆したからだ。ハルカは、姉の死について語った。それは凄惨なさまであったが、ゾンビ映画のように俗でもあった。わかりきった無残な死の様子に、僕は、期待を裏切られたのだ。
何てことだろう、姉を喪ったばかりのこのきれいな女の子に、僕は、何を期待……?
カフェラテを喉に流し込んで、僕はばつの悪さを誤魔化した。
「大変な目に遭ったね。でも、どうして僕に会いに来たの?」
ハルカは両手を、指が白くなるほど固く組んだ。
「姉の恋人を探しているんです。姉が、あなたに恋人について、何を話したか聞きたくて」
僕の脳裏に、ミズキの赤い爪が鮮やかに浮かび上がった。恋人の爪を剥ぐという異常な行為をした誰か、そうだ、確かに犯人として一番疑わしい。
「それは、警察に任せた方がいいんじゃないか。警察も、きっとそいつが犯人だと」
ハルカは僕の言葉を鋭く遮った。
「警察は、何にもわかってないんです! 私も……姉に恋人がいたなんて、私は知らなかった。……爪を美容師さんが褒めてくれたって、姉はメッセージをくれました。見たでしょう? あの爪。汚らわしい。爪を……剥ぐなんて……ひどい。お姉ちゃんは騙されていたに決まってる。……警察の言うことは的外れなんです。あの人達は、お姉ちゃんが私と間違えて殺されたんじゃないかとさえ言ったんです! あなたはストーカーの相談を警察にされことがありますねって! それじゃまるで」
ハルカの容貌からするに、ストーカーはさもありなんと、僕は内心頷いた。けれど、女性からすれば気味が悪く、恐ろしいことだろう。警察に相談するのは当たり前だ。けれど、警察はハルカを傷つけ、ミズキの死を侮辱した。
「私が姉を殺したんです。私が、ゼミの合宿に行かなければ、私が、ずっと姉の側にいれば、姉は死ななくて済んだ……私が……我慢していれば……ストーカーの相談なんてしなければ、あんなことも言われなかった」
「落ち着いて、君のせいじゃないよ」
ハルカの眸子がぶわりと膨れ、大粒の涙が溢れ出た。銀色の筋は彼女の青ざめた頬を伝い、僕はぞくりとした。
ハルカの美しい顔を、涙が切り裂いていく。
彼女の瞳は鋼の刃そのもの、激しい憎しみを浮かべていた。
「姉の恋人を見つけ出したいんです。警察の世話にはなりたくありません。これ以上、いやらしい目で勘ぐられるのはいやなんです。あなたしか、姉の恋人のことを知らないんです。何でもいいんです。姉は……お姉ちゃんは、何て言っていましたか?」
ハルカの顔は、もはや凄みさえ帯びていた。整った顔が、どこか醜く歪んで見える。両頬を流れた涙が、彼女の顔を三つに裂いていた。四角い水槽のガラスに分裂して映る魚のように。
僕はハルカに、少し時間をくれと頼んだ。ミズキと何を話したのか、よく覚えていないと僕は彼女に頭を下げた。
それは嘘だ。僕は、あの赤い爪の女と何を話したのか覚えている。忘れられないと言った方が正しい。しかし、これを女の妹に話せるかというと、別の問題なのだった。
ハルカは、僕と彼女の姉が共有した、あの不思議な時間を知りたがっている。ただの美容師と客の会話ではなく、あの時間は僕にとっても初めて経験したものだった。琥珀に閉じ込められた虫のように、時を止めた時間。現実の間隙にすっと切り込んだ赤い爪。そっくりそのまま話すことは難しいし、彼女が信用に値する相手なのかも、まだよくわからない。
次に会う約束をして、僕たちはアリウムで別れた。次は、身分証の提示をお願いすることにした。殺人事件の被害者を装ったメディア関係者、なんてこともあるかもしれない。
仕事をする気にもならず、僕は沈む夕日に背を向けた。運動不足を嫌って歩いて帰るうちに、みるみるあたりは暗くなった。
辿り着いた自宅である、古いマンションにはエレベーターがなく、上階は家賃が安い。
いつにも増して重い足取りで階段を登った。踊り場に立ったところで、空を見あげた。もうすっかり夜だ。
その時ふと、視線を感じて僕は振り返った。
コンクリートの階段には、誰もいない。備え付けの白色灯がしらじらとひび割れの補修跡を照らす。
昼間ハルカから聞かされた話は、決して気分のいい話ではなかった。
無残に殺された女。それを見たわけではないが、苦悶の顔さえ皮ごと奪われた女が、ずるずると階段を這って、追いかけてくる錯覚に襲われた。
僕は美容師だから、手は当然荒れた。ささくれや、酷い時には湿疹になった傷に、お湯や液剤はよく浸みた。特に修行の始め、シャンプーばかりやっていた頃の、あの脳天まで突き抜ける鋭い痛みを思い出した。
皮が剥がれて、もしその血だか何だかわからない薄黄色い透明な汁が滲み出る、神経が剥き出しになった肉が、コンクリートに擦れれば、大根おろしで指先をおろされるみたいに痛いのではないか。それはもう痛みを越えた、熱さや、感覚の融解をもたらすのではないか。苦悶の声と肉が削れるその音が、鼓膜のすぐ側までやってきているような。
「そんなの、あるはずない」
僕はあえてそう口に出して、あとはもう後ろを振り返らずに、階段を上りきると、重い鉄のドアを開けて、僕は部屋に飛び込んだ。
カップラーメンの夕食を済ませて、シャワーを浴びて、観るともなしにつけていたテレビを前に、ぼうっとしていたときである。
かちん。
玄関の方から物音がして、僕はそちらに振り向いた。
一人暮らしだから、特にドアを閉める習慣はない。玄関のドアから短い廊下を挟んで、僕が座っているLDKがある。LDKのドアはいつも開け放してあった。
だから、顔を向けるだけで、僕は玄関を確認することができた。
重たい金属のドアの下部についた、郵便受けからマンション廊下の明かりがほんのり漏れ入ってくる。その光が、ふと陰った。
かち、かちん。
また音がする。金属のぶつかり合う音だ。それにあわせて、狭い三和土に落ちる光りが揺らいだ。
僕は、変質者か物取りを想像した。郵便受けから針金を通して鍵を開けるというのは、マンガで読んだスリの技だったか。
それとも、郵便受けから郵便物を抜き、個人情報を入手して詐欺に使うとか。
僕は足音を殺して、玄関に向かった。
廊下はしんとしている。電気のスイッチを押すと、あたりが橙色に明るくなって足下に影ができた。
聞き間違いだろうか。そういえば、通路の灯りは切れかかっていて、気まぐれについたり消えたりする。
カメラ付きインターホンなどもちろんついていない玄関である。僕は家賃をけちっていることを悔やんだ。
だが、この重たい金属のドアには、魚眼レンズをはめ込んだドアスコープが設えてある。このドアスコープから、確認してみればいい。
誰もいなければそれでいいし、誰かいればそれなりのことをしよう。
僕はそっと顔をドアに近づけて、ドアスコープを覗いた。
ぐんにゃりと歪んだ白灰色の廊下が見えた。誰もいない。
僕はほっとして、そのまま部屋に戻ろうとした。
その時、また、かちん、と音がした。
僕は振り返り、もう一度、ドアスコープを覗いた。
そこに見えたのは、白い灯りが照らす、無機質で埃じみたコンクリートの廊下ではなかった。
不揃いの睫、赤い粘膜の枠。ぬめり、充血した白目。
丸く切り取られた穴から、目がこちらを見ていた。
「ひっ」
僕はひき叫んで、そのまま後ろに尻餅をついた。
どっどっどっど……心臓が激しく拍動する。
目が見えた。向こう側の誰かは、僕と同じようにドアスコープを覗き込んだのだ。
なぜ? 確かに誰もいなかったはずだ。ドアスコープの死角にいたのか? 誰だ?
僕はなかなか平静を取り戻すことができなかった。
どのくらいたったか、話しながら廊下を行く隣人の声を聞いて、やっと緊張を解いた。
立ち上がろうとした僕は、郵便受けに、何かが入れられていることに気づいた。
震える指で取り出してみると、一枚の白い紙である。
その紙には、「カカワルナ」と釘を並べたような黒い字で書かれていた。