カフェラテ
泡だよ。
水面を、きらきらと照らす、泡を吐く。ひとつふたつ。
白い鱗、短いヒレ。
あなたは逃げる。だから追いかける。
あなたは私のものなのだから。
あなたは私の巣の中、泡の中。
泡。
ある日あなたは、私の前から消える。
水面を、きらきらと照らす、泡が消える。ひとつふたつ。
剥がれた鱗、破れたヒレ。
ああ、あなたは跳んだのだ。
外の世界に飛び出した、あなたの弾け飛んだ鱗。
誰かの手は、あなたの血を沸騰させた。
あなたは泳ぐ力を失って、水草の根元に横たわる。
えらの動きが弱まり、目が濁る。
私の作った泡の巣から。
柔らかいところからだ。
あなたは跳んだ。
(それらはとても腐りやすい)
あなたは跳んだ。
白いあなたの体。
ひとつふたつ。
泡。
泡だよ。
サトウ ミズキの妹は、サトウ ハルカと名乗った。
店に彼女を通す気にならず、僕は彼女を連れて階段を降りた。
こんな時にも、一階がカフェというのは都合がよい。
客席の多い店ではない。仕切りの代わりに横に長い熱帯魚の水槽が置かれている。水槽の周りはいつもひんやりと感じられる。
僕は、ちょうど水槽の後ろの壁側の席に彼女を座らせ、テーブルを挟んで腰を下ろした。
僕の前にも彼女の前にも冷たいカフェラテが置かれている。
「暦では秋でも、なかなか涼しくなりませんね」
僕が取り繕うように話しかけると、サトウ ハルカは目の下に皺を寄せて微笑んだ。
彼女の姉がこの二階を訪れたのは、一月近く前になる。
サトウ ミズキは凡庸な印象の薄い女性だった。あの赤い爪を除いては。
けれど、サトウ ハルカは違った。女優か何かをしていると言われたら信じてしまうかも知れない。
楚々とした佇まいに、整った目鼻立ち。目も、鼻も、口も、すべてが完全に調和して、それぞれがあるべき場所に収まりきっている。
彼女が毛虫でも見たみたいな微笑を浮かべたとしても、その調和は崩れることがなかった。
この姉妹の似ているところは、肌の美しさくらいかもしれない。夏を終えたというのに、彼女はテーブルの上で揃えた指先まで白いのだ。
髪は染めても、パーマをかけられてもいない。それから、指にマニキュアも塗られていない。
「……ご用件を、伺ってもいいですか」
僕はねじ切るように彼女の指先から目を逸らした。
「お察しのことかと思いますが」
流れていた有線の音楽がふいに遠ざかる。サトウ ハルカは高い声で、音の粒の揃った話し方をした。水槽を立ち上る小さな泡の弾ける透明な音が、僕の耳に届く。
「姉のことで、聞きたいことがあって来ました」
サトウ ハルカの目は、まっすぐに僕が座る方へ向けられていた。
「少し長い話になりますけれど」とハルカは僕に前置いた。僕は素直に頷いた。彼女は目を瞠って、それからまた、さっきの笑い方をした。眩しそうな、痛みを堪えているような笑い方だ。
「私は姉が大好きでした」と、ハルカは話し始めた。
「母が、姉を妊娠したのは二十歳のときだったそうです。結婚しようとなったときに、相手の借金が発覚して、母は、あの頃は若かったからと、あまり言いたがりませんが、ひどい男だったみたいです。それで、母は、ひとりで姉を産みました。ひとりと言っても、その頃はまだ祖母も元気でしたから、母は姉が物心つく前から、祖母に預けて仕事をしていました。その仕事先で、父に出会いました。父は母からするととても年上でした。二人が結婚して、私が産まれました」
姉のミズキは実父に似ているのだという。ハルカも父似であった。そのせいで、二人は似ることがなかった。
「両親とも、分け隔てなく私達を育ててくれましたけれど、姉はよく、自分の顔が嫌いだと言っていました。姉は、とてもやさしい、いい、姉でした。でも、姉妹だと、比べられてしまうのもしょうがないってことなんでしょうか。ハルカはお姉ちゃんよりもかわいいとか、お姉ちゃんよりも頭がいいとか、誰も悪気がなくても、傷つくものです。お姉ちゃんももちろん」
おとぎ話か神話にでも出てきそうなエピソードだ。醜い姉と、美しい妹。実際は、姉であるミズキは地味であるという程度だったが、当事者の見る鏡に映る像は、得てして歪んでいるものだ。
子供のうちこそ、像は歪みやすく、刃は胸に突き刺さるものかもしれない。こっちの子の方が優秀だ、こっちの子は不出来だと、果物とか野菜みたいに表して、いいできのものだけを大人達は重宝がる。
「お姉ちゃんが、自信をなくすのも当然です。ハルカはいいね、ってよく言いました。ハルカはいいね、かわいくて、頭がよくて、みんなに好かれて。私はいつも言いました。そんなの、ちっぽけなことだよ。みんなわかってないんだよ、お姉ちゃんが、どれだけきれいな心の持ち主か。姉は、いつも私に優しくしてくれた。誰の悪口も言わなかった。嫌なことを言われても、黙って聞いていた。お姉ちゃんは、踏まれた花を誰よりも早く見つけて、かわいそうにって鉢に植えてあげるような人だったんです。なのに、なのに、あんなことに……」
ハルカの直截な悲しみの表現に、僕はいささか戸惑った。
彼女の告白は、ついさっき会ったばかりの僕にするには、立ち入りすぎているように思われたのだ。
僕の心の声が聞こえたのだろうか。ハルカは手元にカフェラテを引き寄せた。
「……すいません……。ナオトさんて、なんだか凄く……」
言い淀んだ続きを僕は引き取った。
「男っぽくなくて話しやすい?」
「すいません、そんなつもりじゃ」
「いい、いい。よく言われるんだ。君から見たらおじさんだろうけど、おばさんでもおじさんでも似たようなものだし」
ハルカはハッと息を吐いて、おばさん、と呟いた。
「……お姉ちゃんは、男の人が嫌いでした。でも、今度の美容師さんは、男の人なのに、話しやすかったって……」
ミズキが僕の務める美容院に来店したとき、ハルカは大学のゼミの合宿でしばらく家を空けていた。その間も、二人はメッセージアプリで連絡を取り合っていた。仲のいい姉妹だったのだ。
「私とお姉ちゃんは同じ部屋に住んでいました。といっても、バスもトイレも、台所も別ので、一階と二階に分かれている賃貸なんです。あの日、私は合宿から帰ってきて、お姉ちゃんに挨拶もしないで、自分の部屋に上がってベッドに横になって、そのまま寝てしまったんです……」
――お姉ちゃん?
ハルカはベッドの上に起き上がる。もうすっかり暗くなっている。
時計を見る。晩ご飯をどうしよう。
いつもなら、姉が声をかけてくれる。ベッドから降りて、階段を降りる。
階下も暗い。
――お姉ちゃん。
廊下の明かりを借りて、部屋を覗き込む。誰もいない。
――お姉ちゃん?
ふと、洗面所の方に気配を感じる。お風呂にでも入っているのだろうか。
足を向けると、案の定、風呂場のあかりがついている。
――おねえちゃん、お姉ちゃん、ただいま、晩ご飯どうするの?
答えはない。風呂場のすりガラスの向こうが、ほんのりと明るい。
赤い。
何度か呼びかける。けれど返事はない。
ぴちゃん、水滴が落ちる音がする。
同性の気安さで、ハルカはドアに手をかける。
――開けるよ、お姉ちゃん。
ユニットバスは、部品の継ぎ目にシリコンでシーリングがされている。そこは、特にカビのつきやすい場所だ。黒くなったり、赤くなったりするのはカビのせいだ。
ハルカはドアを開けた足下を見つめた。
なぜ、このシーリングは、こんなに、マジックで塗り潰したみたいに赤いのだろう。掃除をさぼるなんて、とハルカは思う。掃除好きの姉にしては珍しい。赤い線。
見てはいけない。けれど、二つの眼球が、勝手に赤い線をなぞり始める。入口から壁へ、洗い場のカウンターを辿り、浴槽のエプロンへ。
エプロンはそれ自体が赤く染まっていた。ペンキの足りない刷毛で、雑に塗ったみたいに、波状に模様が残っている。エプロンにその赤い紋様を描いたであろう、浴槽から溢れ出たものを、ハルカは見た。
「焼き肉屋さんだって、思ったん、です。壺漬けカルビって、あるでしょう。あの、長く切ってあるやつ。あんなのが、お風呂から、出てて」
赤と白の混じった、やわらかそうで濡れたもの、それは肉だった。
一瞬、ハルカの口内に唾液が湧いた。若い彼女の旺盛な食欲は、大好きな食べ物を連想することで刺激された。ただそれだけのことだった。
おいしそうだと思った、それが何なのか、理解がおいついたとき、彼女は猛烈な吐き気に襲われた。唾液は突如酸味を帯びて、鼻奥を痛みが突き抜ける。
肉は、彼女の姉だった。全身の皮を剥がされた姉の肉体のうち、特に顔面は丹念に皮を剥がされていた。赤いムンクの顔。瞼のない眼窩は、その下に収まっていたはずの眼球も喪失していた。鼻は、不揃いな二つの二等辺三角形の形の穴になり、唇はむしり取られ、上下の歯茎と歯が剥き出しになって、肉から溢れ出た血を弾き返していた。
「姉を……お姉ちゃんをあんな目に遭わせたやつを……許せないんです。どうしても、私が見つけ出して……」
彼女の手の中で、カフェラテのカップが小刻みに揺れ、テーブルとうち合わされる。そのカタカタという音が僕には、骸骨が鳴らす歯の音のように聞こえてならなかった。