伝線
街を歩いていたときのことだ。
前を歩く年配の女性の足にふと目がとまった。
彼女は全体として、とても老いていた。後頭部の低い位置で纏めた髪は、ほとんど灰色と言って良かった。その清潔感のない黄ばんだ白髪と、僅かばかりに根元から黒いままで残された髪が混じり合って、骨の浮き出た首の上に向かって行儀良く集まっている。
流行遅れの形の毛玉の浮いたニットに、変哲のない膝までのぺらぺらした化繊のスカート。彼女の肉の薄い太ももや尻が、歩く度、スカートに気の抜けた皺を寄せる。
僕は、小さい頃、変わった男の子だった。
ウルトラマンやスーパー戦隊にはまった近所の男の子達が、外で戦いごっこをしている時、僕は家の鏡の前にいた。
今でも女顔と言われてしまうのに、その時分は、母の趣味もあって、髪はおかっぱくらいの長さがあった。
女物の服を着れば、僕は女の子に見えた。三歳年上の姉のお下がりのスカートやブラウスを、僕は鏡の前で取っ替え引っ替えした。
僕は断じて女の子になりたかったわけではない。服を変えただけで、別人のように変わるのが面白かったのだ。
母は僕の鏡の前の奇妙な遊びをやめさせなかった。呆れて、それから面白がった。
『ナオちゃんは忍者の才能があるんじゃない』
母はしばしば僕を忍者だとかスパイだとか言って、僕を興奮させた。僕はすっかりなりきって、役を演じた。老若男女、動物まで役の幅は広がった。
僕の興味は、徐々に自分が変身することから、他者を変身させることへと移り変わった。
だから、僕が彼女に注意を寄せたのは、おかしなことではない。美容師という職業柄、その人の髪型や服装に注意が行くのは当たり前なのだ。
老女の膝から下、ふくらはぎには数本の白い筋が入っていた。肌色と灰色の混じり合った、ねばねばとした色のストッキングの足を、白い線が切り込んでいる。うっすらと紫の静脈の色を透かすストッキングは伝線していた。僕はどうしようか迷った末に、声をかけた。
僕は、高校を出ると美容師学校に進学した。上京しての専門学校生活は多忙を極めた。
卒業して、学校の先生の紹介で務めた美容院で五年修行した。それから、先輩の会社に誘われて、店を変えた。今では、系列店のマネージャーを任せられるまでにもなった。
店舗は、駅の近くの、昔は歯医者をやっていた建物の二階にある。一階は調剤薬局だったが、これは今は『アリウム』という名前のカフェになっている。
駅を利用する客達は、よくこの店を利用した。手ごろな価格の軽食や、テイクアウトのサンドイッチなども揃え、夜はカウンターバーとして酒も飲める。早朝から深夜まで営業時間は長い。昼間は主婦が子供連れで来ていることもある。朝は会社員がコーヒーを求める列を作る。よく繁盛している店だった。客足の良さはもちろん、僕が務める美容院の客足にも及んでいた。
美容師は、朝から夜まで立ちっぱなしで働く。昼食が取れないことはざらにある。仕事が終わって、やっと店を閉めて、それで階段を降りると、どうしたってカフェに足が向く。
店の者はみな、このカフェの常連になった。
この日も僕は、最後に店の鍵を閉めてから、カフェに滑り込んだ。時間はもう二十一時過ぎである。カウンターのスツールに腰を下ろしたところで、後ろから声をかけられた。
「ナオトさん」
振り向くと、この店の常連客の一人である。
「やあ、アツミくん。今帰りなの?」
「はい、そうなんです。これでも早かったほうかな」
彼は僕の隣のスツールに座った。二人しておしぼりを手に店員に注文する。
「アツミくん、若いのにおしぼりで顔拭いちゃうんだ」
「ナオトさんこそじゃないですか」
「僕はおじさんだからいいの」
アツミとはこの店で知り合った。彼は学生で、僕より随分若い。それでも波長が合って、この店で一緒になった時は、よく話をする仲だった。
小柄で女顔の僕からするとうらやましい限りの、長身と精悍な顔立ち。美容師という立場からすると、伸びかけた髪の毛先が荒れて、色が抜けすぎているのが頂けないが、これはこれで彼の雰囲気によくあっていた。
少し酒が入って――明日は店は休みだから、ハメを外しても問題はない――僕は、先日見かけた老女について話をした。
それを聞くとアツミはきれいに整った歯並びを見せて笑った。
「ああ、そういうの、やけに気になりますよね。なんでそこだけって。ナオトさんが注目しちゃったのわかるな」
「だろ? 何て言うんだろうなあ、そこだけあるはずがないっていうか、ないものがあっておかしいって言うか。気づくと目が離せなくなっちゃうんだよな」
アツミはうんうんと頷いて、ひとつの例を出した。
「ほらあの、美人の女優いるじゃないですか、この前、顔のほくろ取った。俺、あのほくろ取らなかった方がいいと思うんですよね」
「どうして?」
「きれいな顔ですよね、彼女。そこにほくろがあって、あれがなければもっときれいなのにって、みんな思いますよ。でもそれは、勘違いなんです。ほくろがなくなったら、ただのきれいな顔なんですよ、調和した。ほくろがあるってのは、調和してない。いわば不協和音です。不協和音って、聞かされると不安になるというか、気になって耳に残るでしょ」
アツミの言うことはもっともに思われた。美しい和音を、ひとつの音がかき乱す。聴衆は、怒りや不満を持って、その音を探す。
「印象的」
「それが、ほくろと一緒に、魅力もなくしちゃった。今のあの女優は、ただの美人なんですよ。どこかが欠けたり、壊れていたり、不完全なものの方が、人の心を引きつけるってことです。ああ、心理学でもそういうのありますよ。ツァイガルニク効果でしたっけ」
アツミはしたり顔で、グラスの汗をおしぼりで拭いた。彼は僕より若いが、僕より世知に長けるところがある。博識なところや、ナンパしてきた女性のあしらいがうまいところ。僕は、勉強は苦手だし、女性にはモテない。
「ツァイ……? そんなの、どこで覚えてくるの」
「もちろん、恋愛テクニックの指南書。どっか抜けてるダメな奴の方が、モテるんですよ」
「いい加減だなあ……モテ男が」
「俺は一途なんです! それで、ストッキングが伝線したおばあさんに、ナオトさんは声をかけたんでしょ? どうなったんです」
「よく言うよ……。ああ、それね。無視された」
そうなのだ。老女は、僕を無視してそのまま歩き去った。僕は後ろから、彼女の細いふくらはぎに走った白い線を数えるしかなかった。
「なぁんだ、それ。ますます、記憶に残っちゃいますね。もやもやしたままですっきりしない」
「そうさ、最近そんなことばっかりさ、あの赤い爪といい……」
「赤い爪?」
僕は首を横に振った。口が滑ったが、サトウ ミズキの赤い爪に関して、僕は誰にも話すつもりはなかった。
けれど、あれこそが僕にとってはもやもやとして、何ともすっきりしない出来事なのだ。
あの血のような、血そのもののような赤い爪。
僕が黙っていると、アツミは諦めた様子で、汗を吹き終わったグラスを口元に運んだ。
次の日、僕は昼過ぎまで惰眠を貪った。それから、僕は顧客名簿の整理をするために、店に行った。前回の来店から半年が経っている客には、はがきで案内を出す。他にも、店のキャンペーン情報をメールで送る。新規の客に書いて貰った来店カードを、顧客データベースに打ち込む仕事が、僕は大の苦手だ。嫌いな事務仕事は、休日に、店で一人やるのが一番いい。
店への階段を上がる途中で、店の入口に誰かが立っていることに気づいた。
窓から入ってくる陽光にシルエットが浮かび上がって、女だとわかる。その顔を見て、僕は見たことがあると思った。
女がこちらに会釈して僕は気づいた。
テレビで観た顔だった。
黒々とした瞳、白い小さな顔。果実のような唇。果実――ザクロ。
あっ、僕は声にならない声で叫んだ。
妹だ。
サトウ ミヅキ、あの赤い爪の、死んだ女の妹が、そこに立っていた。