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食べる

「君が食べたかったものではなかったんだね」

 僕が言うと、ハルカは不思議そうな顔をした。僕を見て、僕を見ていないような目をして、僕を見る。その瞳の色は吸い込まれそうに透明で、底知れない。

 透明すぎて、底がないように見える。底がない、底知れない。けれど、必ずあるはずの底をおそらく、ハルカは僕を通して見つけようとしているのだ。

「そう。そうね、私が食べたいものではなかったの。……食べるって、どういうことかしら」

「食べる? 口に入れて、噛んで、飲み込む?」

「私には手が無いの。足もない。口しかない。誰かが私の耳を塞いでいたの。誰かの手が、私の耳を塞いで、私の口に食べさせた、ずっと」

 手と足。ハルカの手は膝に乗せられ、両方とも、全部の指も揃っている。緩く握られて、指先は隠されている。ハルカの手は、非常に無造作に、何の表情も持たずに置かれていた。

 美容師と客の間では、いつもケープが客を守っている。客の首から下を、僕は知らないことが多い。

 けれど、ケープの上からでも窺い知れることがある。僕が鋏を使う下で、彼らの手はよく動いている。指同士を絡ませたり、自分の体を撫でたりしている。

 ハルカはそれをしない。

 ──手も足もあるじゃないか。

 のど元まで出た言葉を飲み込んだ。

「そうだね、君には、手が、足が、ないんだね」

 ハルカは目元を歪めた。泣き出すのかと思ったが、その瞳は渇いていた。

「お父さんはおじいちゃんに逆らえないの。お母さんは、バツイチの悪い女だって思ってる。血を継いでないお姉ちゃんのこともどうでもいい。おじいちゃんはお母さんもお姉ちゃんも、自分の家に入れたつもりがないの。だから、いないのと同じ。お父さんは自分の家族を守りたいの。お父さんはお母さんが大事なの。お父さんの言うことにはお母さんは絶対に逆らわない。生まれた子供をひとり貸してあげるくらいで済むなら、おじいちゃんが死ぬまでのことだもの。男の子でも無いんだから、飽きたら返してもらえる。女の子だもの、どうしたっていい。でも、おじいちゃんが死んでも、いつまでも終わらない。かわいいから、女の子だから」

 ヒュッとハルカは音を立てて息を吸い込んだ。

「あーっ! あーっ! あーっ! お姉ちゃん、私の頭を撫でて! 私がいい子だと言って! 私は頑張っているって、私は偉いって! 私のおかげだって! ねえ、おねえちゃん! おねえちゃん!」

 ハルカは早回しのラジカセみたいに叫んだ。このラジカセは、電池が切れかけている。だから、悲鳴はかすれがちに小さく、耳を澄ませないと聞き取れない。

「あのさ」

 僕の声は届くだろうか。手がないと言う君の、塞がれていたというくらいなのだから、耳はあるのだろう。

 けれど、その手は、多分もう、ないのだ。

「君は、自分のこと、かわいいとか、きれいだと思う?」

 見開かれたままの君の目は引きつれ、いつかひび割れる。

「いいえ。一度も。鏡に映る私は気持ち悪い。見たくないの。いつも私は見たくない。この見た目が消えたらいい。皮を剥いだら、誰もかわいいとか、きれいとか、言わなくなる。本当の私は皮を剥いたら出てくる? 出てくるかしら? 醜い私が出てきて、それでみんなわかる? 私をもう、ほうっておいてくれる?」

「皮を剥いたら、カルビが出てくるだけだけだよ」

 ハルカは僕の言葉にまばたきした。僕は少しだけ安心する。

「でも、君は人間カルビをさ、見て涎が出たって言った。まあ、それが嘘で無ければ」

 にんげんかるび、とハルカが小さく繰り返す。僕は椅子を半回転させる。

「おいしそうだってことはさ、それを受け入れるってことだよ。食べるってことは、受け入れるってことかもしれない。あ、そうか」

 僕は膝で手を打った。

「食べるってのは、受け入れる行為だよ! 相手をすべて受け入れる、愛の行為! つまり、愛だ!」

 僕は椅子から降りて、ハルカの真後ろに立った。鏡越しに僕達は見つめ合う。

「……お姉ちゃんの理想の女の子を、君が目指す必要もないと思うよ」

 多くの女の子が理想とするような外見を持った君。だから君は妬まれ、時に虐げられた。けれど、君は君であることをやめなかった。

 それを望んでいた、誰かの手のために。

 その手は、桜色の爪を捨てて、真っ赤な血色に変わり果てていた。それを見た君の──これはおそらく、絶望であったに違いない。

 僕は老婆のふくらはぎに見た、ストッキングの伝線を思い出す。それが僕の意識強烈な違和感を刻んだように、赤い爪はハルカの脳に強い衝撃をもたらしたのだ。

「君は君のなりたいようになればいい。どんな髪型にしたい? 今の髪型もとてもよく似合っているけど、ちょっと遊び心が足りないな。えーと、雑誌でも見てみる……あっ、もう業務時間外か、どうしようかな、カットモデルってことにすれば……」

 僕はもう一度ハルカの髪に櫛を通す。髪をたくし上げてみたり、分けてみたりする。カラーはどうしようか。メイクも変えてみたり。

 ハルカは猫のように目を細めた。

「……あなたって、変な人」

「そうかな、普通だよ」

「普通なんて、これが普通だって言われたら、そうなんだって思うものだわ。何が普通かなんて、誰にもわからない」

「僕にとっての普通ってことさ」

「あなたにとっての、ね」

「そう、君にとっての」

「もし、食べる行為が愛の行為なら、食べるために殺すのも、普通の、ありふれた、愛の行為ね」

 僕はもちろん菜食主義者ではなく、むしろ、野菜だってひとつの命ではないかと思う。どこで命が区切られるのかはわからないが。

 魚や獣の肉も好きで、よく食べる。肉を食べることはありふれた普通のことだ。食べることは好きだ。だって、おいしく、お腹が膨れると、気持ちも満たされる。

 僕は安らいで眠る。サンドイッチや、カップラーメンや、焼肉や、ケーキを食べて、命を食らって。

「まあ、僕は、普通は殺さないけど」

「私もよ。私も、普通は殺さないわ」

 僕は一度席を離れ、雑誌を手に戻った。彼女の前に幾つかの雑誌を並べる。

 モード系の雑誌は一番に上にした。

 ハルカはそれに手を伸ばす。パラ、と雑誌のページをめくる音が、静かな店内に落ちる。

「お姉ちゃんの恋人は、いま、何をしているのかしら。お姉ちゃんの爪を剥いだ人」

「それなんだけど、君のお姉さんの恋人は、本当はいなかったんじゃないかな」

「……え?」

「君のお姉さんも、君の耳を塞ぎ続けることが嫌になったんじゃないかな」

 実家を離れ、妹と密接に暮らす日々で、ミズキがまともであれば、罪悪感に苦しめられたことは想像に難くない。

 彼女達がどういう姉妹であったかは僕にはよくわからない。けれど、その関係は心地よいだけではなかっただろう。何かの痛みに耐えることが必要だったはずだ。

 爪を剥がす猛烈な痛み、その痛みに拮抗し、それを凌駕するほどの痛みだったかもしれない。

「だから、恋人がいるふりをして、君から離れ、君を解放しようとした」







 ──ハルカはいいなあ、かわいくて、頭がよくて、男の子にはモテて……私にないものばっかり。









 あなたの幸せは、私のお墓の上に立っているの。

 あなたも、知っているでしょう。







 あなたは私を殺した。

 あなたは毒を与え、私は愛を飲み込んだ。

 愛は私を殺した。

 私はあなたを愛した。









「私のまわりで事件が続いたから、お父さんは私を留学させることにしたの。だから、もうしばらく日本には戻ってこないわ。みんなが事件を忘れてしまうまで、私は帰れないのですって」

「君ならきっと、ちゃんとやっていけるよ。日本にいるより楽しい毎日かも」

「……お姉ちゃんの、髪の毛を取ってあるの。あれで、カツラはできるかしら。持っていきたいから」

「業者さんを紹介する? 自分で切って封筒入れて送ってもいいから。ヘアドネーションのやり方と一緒だね」

「じゃあ、髪の毛を切らなきゃいけないのね。折角皮をつけたまま取ってあるのに、勿体ないからいいわ」

「……えっ」

 ハルカは雑誌を戻して立ち上がった。僕は彼女の帰り支度を手伝う。

 いつもの客にするようにして、カードを作って彼女に渡した。ハルカはそれを丁寧に財布にしまった。

「私、あなたに打ち明け話をしたかったのかしら」

「お客さんはみんなそういうものだから。そして、大体、大した話でもなくて、美容師はすぐに忘れます」

「忘れてしまうの」

「ええ、またご来店下さるときまで、忘れてしまうんです」

 客は誰でも喋りたがりだ。サービスの間、僕は完全なバケツであり続ける。サービスが終わればバケツをひっくり返す。

 そういう生業なのだから、僕はハルカから聞いた話をどうするつもりもない。

 ハルカは店を出る間際、僕を振り返って言った。

「でも、私は恋人はいたのではないかと思っているの。その人と出会った時、私は愛とは違う行為として、その人を殺すと思うわ」

 ドアベルが音を立て、彼女の白い後ろ姿は、暗闇に降りて消えた。


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