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 僕はワゴンを引き寄せて、テールコームを取った。

 鏡の中のハルカの白い顔、瞳だけが僕の動きを追う。

 テールコームの歯は、あっさりとハルカの髪に沈んだ。

 ハルカの髪を梳りながら、僕は昼間のスタッフと客の会話を思い出す。

 僕より年上の女性スタッフは、更に年上の女性の髪にパーマのロットを巻いていた。

 ──ねえ、知ってますか?

 子供ってみんな髪の毛つやつやですよね。あれね、大人と子供は髪の構造が違うんです。大人の髪の毛は、中が空洞になってるんですよ。

 僕は客が、へぇ、と大きな声で言うのを、毛髄質がないってことなのか、毛髄質のことを空洞と言っているのか、しばらく考えた。

 ──そうなの、大人になると、穴が開いちゃうの。

 あの客は、ぺちゃぺちゃした喋り方をしていた。何年前の口紅かしらないが、輪郭の滲んだ薄い唇と、頑丈そうな受け口を動かして、ぺちゃぺちゃ喋る。

 ハルカの髪を梳いた。彼女の髪は、大人の髪だった。

 どんどんがらんどうになって、そのうつろを、知らない何かで埋めて大人になる。

「何をお知りになりたいですか?」

 ハルカが聞いたが、もとより僕は君たち姉妹について、知っていることはほとんどない。

 死んだ女が話したことと、死んだ男が話したこと、それから報道による情報が、僕の知るすべてだ。

 彼女の姉の死のニュースは、僕に鮮烈なイメージを残していた。それはひとえに、ハルカのあのコメントによる。

「……お姉さんの事件のインタビューで、ザクロみたいだったって言ってたよね。ザクロ、食べたことあるの? 実は、僕はザクロを食べたことがないんだ」

 ミズキは小さく口を開けて、長い睫に縁取られた大きな目を丸くした。

 それから細い指先で口元を押さえた。

 彼女はそのまま、ぞっとするほど低い声で答えた。答えたのだと思う。



 ──あれは確かに私のための果実だった。私の喉を潤し、飢えを満たすための果実だった。



 その声は、どこから聞こえたのかもわからないくらい低かったのだ。男の声とも女の声ともつかない、ただの低さではなく、陰鬱さと、峻厳に他者を拒む響きを持っていた。

 だから、僕はこの声をハルカが発したと、理解することができなかった。

 ハルカは戸惑う僕に、にこりと笑った。白い歯が隙間なく並んでいるのが見えた。

 その白い歯の間から、赤い舌が現れる。

「ナガヤマくんと一緒に死んだ彼は、悪い人ではなかったんですよ」

 僕はハルカに言葉にただ頷いた。彼女の口の動きと、愛らしい印象を与える声はここで一致する。

「つきまとわれてるって言ってたよね」

「つきまとわれていたんですよ。彼……マキタくんは、俺がお前を守ってやるって言いました。だから、俺の女になれって、俺のものになれって言ったんです。お前にふさわしいのは俺しかいないって」

 ハルカは楽しそうに語った。

「ナガヤマくんが私をずっとつけ回していたのも知っていました。マキタくんが私を困らせていると、彼は思ったのじゃないかしら。彼はいつも、私のことを思っていたみたいだから。私が考えていることを、まるで理解した気になっていたから」

「君が、ナガヤマのことをそんな風に思っていたなんて」

「意外ですか? 嘘ばっかり」

「決めつけないで欲しいな。僕にだって、驚く時間が必要だ。僕は君より随分おじさんなんだから、君たちのテンポは少し速すぎるんだよ」

「嘘ばっかり」



 けれど皮を剥いて出てきたのは、何かの残骸でしかなかった。皮という形を失って、ミズキはただの肉になった。



 ハルカは視線をさまよわせた。そこに書架があって、読むべき本を探すように、彼女は鏡に映る、自分の背中にあるものに、順番に目をやった。

「……薬を塗ってね……、足を開いて……」

 ハルカが不意に呟いて、僕は少しだけ、椅子を彼女の近くに滑らせた。

「嘘ばっかり言うでしょう、大人は。大人は子供に、男は女に、自分より弱い者は、支配して当然だと思ってる。だから、嘘をついても、何の罪にもならないと思ってる」

 彼女は椅子の足置きを小さく蹴った。まるで子供の仕草だと、僕は思った。

「ザクロがあったのは、祖父の家よ。庭にザクロが植えてあったの。でも、ザクロは、棘があるから、触れなかった。ザクロって、待っていれば皮が裂けて、実が出てくるの。実って言っても、種のまわりに薄くついた実を食べるの。食べてもね、そうおいしい物じゃなかったわ。そう、一度だけ、私はザクロを食べたの。棘……抜けない……でも、思っていたほどおいしくなかった。おかしい。ずっと、あれはおいしいと思っていた。おいしくなきゃいけない。だから、もっとおいしい、ザクロがどこかにあるの。きれいな宝石みたいでしょう、ザクロ。透明で、赤くて、吸い込まれそうな色、割れたら出てくるの、おいしい実が、舌が蕩けるくらい、脳みそが溶けるくらい、きっと、おいしいのよ」

 ハルカはうっとりと目を閉じた。

「ザクロ……おじいちゃんの家……」

 目を閉じたまま、彼女は唇の動きを止めなかった。

「小さい時、私だけがいつも、祖父の元に連れて行かれたの。ミズキも、お父さんも、お母さんも家にいたの。私たちの家に。車が来て、私だけが車に乗せられる。お父さんはミズキを抱いていた。夏でも、秋でも、冬でも、ああ、大雪の日も、私は車に乗った。雪がたくさん、窓に向かって飛んでくるの、びゅんびゅん、窓にくっついて、ワイパーが動くと、雪が、しゃあ、しゃあって、横に流れて、道路に、車の通ったあとが黒くなって、あとは白いの。すぐに、全部白くなるの」









 ハルカ、パンツを脱ぎなさい。





 お前のここに、おじいちゃんが薬を塗ってあげよう。



 足を開くんだハルカ、ハルカ、お前のパンツにいつもシミがついているじゃないか、おしっこの匂いがする。ああ、大変だ。きっとみんなも、ハルカがおしっこ臭い女の子だって、気づいているだろうなあ。ハルカは、おしっこ臭い、汚い女の子なんだ。でも、おじいちゃんはお前が大好きだよ。だって、お前はかわいい孫だもの。ミズキと違って、お前はかわいいおじいちゃんの孫だ。

 ハルカはおしっこを拭くのが下手なんだなあ。おしっこの汚れがついたままだと、病気になってしまうんだ。もうハルカのここは病気になっちゃったかもしれないね。だったら早く治さなきゃあ。

 薬を塗れば治るんだ。

 だから、おじいちゃんが見てあげよう。お前が汚いから、お前が悪い子だから、おじいちゃんが面倒を見てあげるんだ。

 薬を塗って、お前がいい子になるように。



 老人斑の浮いた手の甲、節くれ立った指が、白く濁った色の軟膏を掬い上げる。

 ハルカはその指を見ている。肉との間に黒いものが入り込んだ、老人の爪を。

 幼いハルカの、白い下着を握りしめたままの、祖父の指を。







 瞼が上がる。僕にはなぜだか、この瞬間にハルカが何年も、何十年分も年を取ったように感じた。

 皺ひとつ無い目元。けれど眼窩は、深く落ち窪み、影を湛える。奥に填まった眼球の、枯れた幹にぽかりと開いた乾ききった黒い洞。したいみたいなめ。

「白は嫌いよ」

「ハルカさん、お茶でも飲むかい? あたたかいものでも」

「狩猟免許と、猟銃を持っていたの、祖父は。全部私に見せた。だから、私もよく、知っていたわ。獲物を、さばき方を」

 唐突だ。唐突すぎるが、それは僕の中の点を、彼女が親切にも結んだに過ぎなかった。

「じゃあ、君は、ザクロを食べたの?」

 ハルカは舌で唇を湿した。そこに味が残ってでもいるかのように。

 それから、彼女は時間をかけて僕を振り仰いだ。

 僕達は鏡越しから、今や親密な距離で向かい合っている。その君の形。

 ハルカの顔貌が、僕に刻み込まれる。丁寧に幾重にも纏ったものが剥がれ落ち、君はやはり──幼さは恍惚に近い。あどけない、いとけない、いたいけ、無垢、無知、白痴、……そんな言葉がぐるぐる渦を巻いて、僕の喉を塞ぐ。無垢、無知、白痴、白昼夢、昼下がりの美容室で、赤い爪の軌跡を引いた君の姉。

「……私はザクロを食べたのかしら。食べたのかも知れないわ。そうあれはザクロだった。私のために、弾けて実を見せた。あれは、私のためで無ければいけない。他の誰かが、あの実を裂いてはいけないの。おかしいことなの。そんなことあっちゃいけないのに、お姉ちゃんは私を裏切った。だって、あんな赤い色、とてもおいしそうだった。おいしいと思っていたザクロだもの。夢中になって皮を剥いたの。皮を捨てるのも勿体なくて、──うん、勿体ないから」

 ハルカが大きく喉を鳴らしてつばを飲み込む。

「それで、皮を剥き終わって、食べようと──思ったらね」



 何だろう、これは。



 ハルカは膝の上で手を広げる。頭を俯けて、不思議そうに自分の両手を眺めた。それから、彼女の前に置かれた鏡を見た。白いハルカの手に、鏡の向こうに、ハルカが見るものを、僕も見ていた。

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