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 その時のナガヤマのきょとんとした顔を、僕は予想できていた。

 完全なる加害者は、加害自体に気づくことも無い。

 アツミが彼に肩を貸し、タクシーに乗り込むその瞬間まで、彼の顔に某かの感情がのぼることはなかったように思う。

「治療費、請求されたらどうしましょう」

 タクシーのテールランプが道路の向こうに消えてから、アツミが両手を祈りの形に組んで憐れっぽい声で言い、

「さあね」

と僕は答えて、夜空を見あげた。

 月は丸く、やけに大きかった。









 ナガヤマとはもう二度と会うまいと思っていたが、彼との再会は、存外に早く訪れた。

 およそ一週間後、出勤前のテレビ画面に、ナガヤマは映っていた。

『事故が起こったのは、夕方でした。彼ら二人が言い争っているところを複数の学生が目撃しており、二人の着衣の乱れや外傷から、ここで口論の末、もみ合いになり、転落したと考えられます』

 リポーターはきれいに流行のメイクをした顔を悲痛げに歪めて言った。

『事件発生の時刻になると、ご覧のように、夕闇が迫ってきています。こちらからでは、あの非常階段に人が立っていても、誰かは判別ができません』

 ここでインタビュー映像が入る。

 合成音声は聞き取りにくい。テロップが有難い。

『なんか、もみ合ってるのはわかったんですけど、それが誰とか、何人かもちょっとよくわかんなくて。何だろうと思って見てたら、あっ、落ちたってなって、慌てて行ってみたら』

 慌てて、何が起こったのだろうと、少しばかり、ワクワクしながら?

 皮肉に思ったのは、僕が被害者二人の顔を知っていても、悲しみが湧いてこなかったせいなのだろう。死を悼まない後ろめたさ。

 特段、人間が生まれようが、死のうが、感動は無い。どこかでいつも誰かは生まれ、誰かは死んでいるのだ。リポーターはきっと、カメラが止まれば別の顔をする。

 もう一度、被害者の顔が画面に映る。ナガヤマの顔は若く、四×三の証明写真風の枠にはまり込んでいた。制服を見て、僕はまた卒業アルバムか何かを、同窓生が売ったのだろうと思う。

 それともう一人は、SNSからコピーしてきたような画像。一緒に映り込んだ友達の顔は白くぼやけている。ごく最近の写真であるように見えた。大学生活を謳歌する、若者のひとりであった彼。

 いつかハルカをアリウムの前まで追いかけてきた男。

 事件が起こったのは、彼──彼らが通う大学の校内だった。講義棟の非常階段から、ふたりは転落して、死亡した。

 リポーターは眉根を寄せて、マイクに息を吹きかける。臨場感を増すためのテクニックなんだろう。

『接点のなかったふたりに何が起こったのでしょうか。警察は、事件と事故の両面から調べていますが』

 僕は暴力が好きではない。誰かを痛めつけるのも、誰かに痛めつけられるのも好きではない。

 だから、アツミが彼の腕をねじり上げた時、僕は止めたし、アツミが彼の膝を躙った時、僕は許した。

 知らないそぶり、見て見ぬふり、関係のないふり。何が起こっても知らないという許し。

 かかわらないことで、世界は生も死も許しているのだ。それは神という概念に似ている。僕の知る限り、神が姿を現したことはない。奇跡を起こしたこともない。神は人間に関わらない。関わらずして、すべてを許している。それは支配することと同じだ。

 ひとつの残酷な死は、それ自体は動かしようがなく、干渉されることもない。それを大衆はまわりからやいのやいのとはやし立てる。死と関係が無いからこそできる、完全な支配。完全であれば、支配者も支配される側も、その構造に気づかない。人はテレビの前で神になる。

 ほころびのない関係は、関係としての意味を失う。そして、神は死に、救いは来ない。



 ナガヤマの死体を検めた人間は、彼の服の下におそらく見つけただろう。

 彼の暗い欲望を具現した赤いブラジャーを。脂と血を吸って、生臭い匂いを放つ、繊細な構造。

 赤は原始的な色なのだ。血の色。花の色。燃え立つ夕日、焼き尽くす業火。赤く彩られ、ハルカ、君はいま、誰を探している?









 私は天井を見ている。白い影が揺れる。あれは光だ。

 掃き出し窓から入ってきた光は、鏡に反射して、天井にゆらゆらと躍る。

 鏡は、赤ん坊をあやすための玩具にはめ込まれていた。装飾的な小さな鏡がキラキラと光を跳ね返す。白地に赤の縁、クマやウサギのかわいらしい絵が描き込まれた、音の鳴るおもちゃ。

 おもちゃは、小さな手に握られていた。細く短い指、先端には桜色の爪がはまっている。

 爪は極端に短い。端がぎざぎざになっていて、爪の切り口にそって赤く血が筋になっている。

 ──ハルカ、おねえちゃんだよ。

 手は肘へ、肘から肩へ、首には顔がついていた。凡庸な顔をした少女は、精一杯の笑みを浮かべているのか、白い歯と赤い舌が見える。

 ──ハルカ、かわいいね、かわいい。

 手は玩具を振り立てる。高過ぎない鈴の音は、光を追って逃げていく。

 私は首を動かすことができない。私は手を動かすことができない。私は足を動かすことができない。

 私にできるのは、与えられることと、見ることだけ。



 ──ハルカ、だいすきだよ。



 だから私はずっと見ていた。ずっと見て、与えられたものをただ、受け取り続けていた。

 お前は私に与える。私は与えられる。私は見ることしかできない。唇を裂き、舌を焼くもの、そのものを。

 与えることは、奪うことと同じだと言って、お前は泣く。







 朝見たニュースのことをすっかり忘れるくらい、仕事に没頭した。

 今日は本店で研修がある日で、スタッフはおのおの仕事を切り上げて、店を出ていった。

 僕は体調不良という理由をこしらえて、研修に行く代わりに、店じまいの役を買って出た。

 器具の片付けと掃除を終え、美材の発注の確認をして、もうやることはなくなった。厳密にはやることがなくなることはないのだが、それは人生と同じで、やらなくても何とかなる。

 僕は僕以外に誰もいない店内を見回した。

 ドレッサーの前にスタイリングチェアが並んでいる。昼間は、この椅子入れ替わり立ち替わり、いらっしゃいませ、今日はどうされますか、僕は繰り返す。

 右手に鋏を持つ。左手でテンションをかけて髪を引く、切る。

 引いては切り、引いては切り、床に広がる髪は、僕の足下に渦を作る。

 渦はおそらく深く、一度そこに足を踏み入れれば、戻ってくることは難しい。

 僕はキャスターのついた、カットチェアに座る。足で蹴って、椅子で滑るようにする。

 これは楽しい。子供の頃の遊びそのままだ。店内を椅子で滑って、見つけた髪の切れっ端を拾っているうちに、ずいぶんな時間が立った。時計を見上げれば、アリウムも閉店した時間だ。研修も終わっただろう。

「……サボった甲斐、なかったかな」

 独りごちで、帰り支度を始めた時、ドアベルが鳴った。あのドアベルは、クリスタルの飾りがついている。ドアの動きに合わせて、光を反射する。

 僕は待ち人に会釈した。

「いらっしゃい、遅かったね、ハルカさん」

 ハルカは今日も美しかった。白いワンピースに、白いファーのベストを重ねていた。長い髪が肩に掛かるのは、彼女が夜の闇をそのまま引きずってきたからか。

 彼女の頬がうっすらと血の色を刷く。ピンク色の唇が笑みの形になり、渦の向こうの色をした目に、明かりが灯った。

「どうぞ、こちらへ」

 僕はスタイリングチェアのひとつに彼女を促した。手荷物は持たせたままなのが、接客としてはいただけない。

 彼女はスタイリングチェアに、僕はカットチェアに座る。空の右手と左手を、僕は膝の上で組んだ。

 鏡越しに、僕達の目が合う。僕は美容師。形を整え、君の望むものを、研ぎ出すのが仕事。時には、望んだ以上の何かを、見えるようにするのが、僕の仕事だから。

「ナオトさんは、待っていてくれると思いました」

 僕は頷いた。

 ハルカの目は今や、キラキラと輝いていた。この椅子に、かつて彼女の姉ミズキが座ったことが、彼女にはわかったのかもしれない。

「今日はどうしようか」

 僕は言った。ハルカは笑った。そして、歌うように話し出した。


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