悪意
「アタシはハルカのこと何でも知ってるのヨォ」
ナガヤマは甲高い裏声で話し始めた。しなを作って彼は僕を見上げる。
粘ついた視線に含まれた媚びは、アツミを不機嫌にさせたようだ。行儀の悪い彼の足が、ナガヤマを蹴り飛ばす前に、僕は彼を自分のベッドに座らせた。
僕はその隣に座り、組んだ両手の上に顎を乗せた。
アツミは尊大に足を組み、膝の上でサンドイッチの包み紙を折り始めた。
言ってごらん。何でも。僕は君に全神経を集中している。
僕の全てを君に注いでいる。僕は美容師なのだから、君が持つ形に、敬意を抱いて最大限の配慮をするよ。
君が美しいか醜いか、そんな簡単なことは今は置いておける。
実際、ナガヤマのみっともなさったらなかった。そもそも不潔なのが許せない。それは相手に生理的な嫌悪を抱かせる。匂いはその最たるものだ。ナガヤマの放つ匂いの不快さ。ナガヤマの存在の不快さ。
アツミが立ち上がり、台所の換気扇を回した。
戻ってきたアツミは僕を一瞥すると、また折り紙に戻った。こういう男はモテるんだろうな。相手の思っていることを察して、言われる前にどんどん動く。ねえ、ナガヤマくん、そんなに怯えなくていい。彼は、僕が君に話をさせたいとわかっている。だから、当分の間、君は安全だ。そして、その安全は僕が与えている。
君は支配される側。
さあ。
「話してごらん、聞いてあげるよ、何でも」
ナガヤマの目が潤み、涙が溢れ出す。月のクレーターみたいな、でこぼこだらけの顔面を、脂を巻き込んだ流れが幾筋も走る。
「アタシはぁ……アタシは、ハルカの味方よぉ……。アタシは、ずっとハルカのことを見ていたの……でも、ハルカはアタシのことぉ、知らないのよぉ……ハルカの目に……アタシみたいな……醜い人間は……映っちゃいけないのぉ……。ハルカは誰よりもきれいなんだからぁ……ハルカのまわりに……寄ってくる悪い人間が……ハルカを……傷つけるんだからァ……」
彼の頭は混乱していたが、彼の話し方はわかりやすかった。ハルカと同じ大学に追いかけてこれるくらいの頭はあるということなんだろう。
しかし、彼がハルカについて語る情報は断片的で、なかなかひとつの形が見えてこない。
共通する要素は、ハルカがいかに不遇であったかということだ。
幼稚園の発表会で主役に選ばれたのを妬まれて、クラスの女の子全員に無視をされたハルカ。
クラスの男の子にしつこくスカートめくりをされたハルカ。
担任教諭に依怙贔屓をされたハルカ。──これには、教諭の膝の上に座らせられたり、抱きしめられたりするおまけ付きで。
中学生にもなると、ハルカに告白するのが、男子学生の間でひとつの通過儀礼になる。
女子の間ではますます孤立した。いじめは、せいぜい、彼女の机の上には生理用品や避妊具を置く程度。陰口。
そして、高校生になって、彼女は実際に性的被害に合うようになる。レイプ未遂は、『ハルカが相手を誘ったのに、土壇場ではねつけた』という噂として広まった。女子生徒は男子のそういった振る舞いは、ハルカのせいだと決めつけ、暗黙のうちに断罪した。
彼女の父母はそんなハルカよりも、ミズキをかわいがっていたらしい。それは、彼女達の祖父母が、ミズキを毛嫌いしていたことへの反発もあってのことだ。
父方の祖父母は、旧家ながらの古い価値観を持った人間で、血の繋がった孫であるハルカをかわいがった。けれども、ハルカは男では無かった。それが彼らにとってはどうにも我慢ならず、ハルカに男がすることを一通りさせるという、厳しい教育に駆り立てた。父母はそれを止めず、自分たち家族の平穏のためハルカを差し出した。
猟友会の一員だった祖父は、ハルカの目の前で獲物を撃ち落とし、彼女にもそれを命じた。動物を愛する少女だったハルカは、嘔吐して気絶したところに、バケツの水をかけられたそうだ。
「田舎だもの。みんなお互いのこと何でも知ってるわ。ハルカのことはみんなが話してた。あたしはそれを聞いて回った。あたしのことは誰も気にも留めない。どうせ、あたしはいてもいなくても同じだもの。だから、あたしが一番、ハルカのことを知っているの。
「ハルカの家は金持ちで、彼女は頭が良くて、顔もかわいい、スタイルもいい。性格もいい。何でも持ってる。そりゃみんなひがむわよね。うらやましいわよ。でもだからって、ハルカをいじめちゃいけないでしょ。でもみんながハルカをいじめるの。それってひどいじゃない。男達はみんなハルカにいやらしいことをしようとするの。ハルカのおっぱいやお尻をさわろうとする。そりゃ、ハルカのおっぱいがあんなに大きいのがいけないのかもしれないけど、ハルカがエロい体してるのかいけないのかもしれないけど。
「ハルカは何にも悪いことなんてしてないの。ただ、ハルカが美しすぎるだけ。あなた達も知ってるでしょう? ハルカは外見だけじゃないの。ハルカがきれいなのは、ハルカの心がきれいだからなのよ。ハルカは絶対に出しゃばったりしない。いつでも、誰にでも優しい。だから、どんなに嫌な目に遭っても、ハルカは我慢するしかないの。ああ、ハルカって本当にかわいそう。かわいそうでしょ? ハルカって、かわいそうな子でしょう。だから、アタシがハルカを守ってあげなきゃいけないのよ。
「あのゼミの合宿の日だって、あたし、何があったか知ってるもの。三日目の昼、教授はハルカだけ連れ出した。あの教授はハルカがお気に入りだったし、そんな風にハルカだけを連れ出すことが今まで何度もあったから。他のゼミ生もまたかって思うくらい。まさか昼日中から、ホテルに入るなんて思わないでしょ。無理やりよぉ。あんなハゲでデブのジジィよぉ。
「ホテルから出てきたのはハルカの写真が見たい? この写真を撮るのに必死になって、ハルカを見失っちゃったけど。……夜になって、彼女はゼミ合宿に戻った。何もなかったフリをして。ほら見てよ、このかわいそうなハルカ! かわいそすぎるから、アタシ、いつもこのハルカと一緒にいるの」
ナガヤマのとっておきの一枚だったらしい。彼はブラジャーに挟んで隠し持っていた写真を取りだした。
「おえ」
アツミが呟く。僕は彼を肘で小突いて、写真を受け取る。
望遠レンズで取られたと思われるハルカの顔は青白く、目は充血していた。表情はない。人形のように美しい横顔。
「かわいそうなの、ハルカは。だから、あたしが守ってあげなきゃ」
ハルカの机の上に置く避妊具を買いに行った女の子達は、さぞ楽しく盛り上がっただろう。コンビニか薬局か知らないが、どの商品を買うか、どの商品を見たハルカが、どんな顔をするか、想像して彼女達は心を浮き立たせたに違いない。
その教授が彼女に何をしたか、想像するのもおぞましい。スレッドに書き込まれた悪口の一部には、根拠があったわけだ。それが合意か、非合意か、僕には知る術が無い。
けれど、この横顔は。
「ねえ、かわいそうでしょう? まさか彼女が同意でジジイとセックスしてるとか思わないでしょ。好き好んで男に襲われてるとは思わないでしょ、ねぇ! ねぇ!」
ナガヤマは嬉しそうに言った。
誰もがハルカを貪って笑っている。
そして、ナガヤマ。お前はそれを見ていた。人々を。そして、ハルカを。
「本当に君は彼女に詳しいね」
ナガヤマが小鼻を膨らませて何度も頷く。膨らんでいるのは鼻の穴だけじゃ無い。彼の股間は誤魔化しようがなく盛り上がっていた。
お前は何度も、想像して、心を浮き立たせ、股間の男性器を膨らませたに違いない。
ハルカは黙って引き裂かれ続ける。なぜなら彼女は引き裂かれてもよい存在だから。引き裂かれるべく美しい女だから。
アツミが膝の上で折り上げたものを僕によこした。僕は立ち上がり、きっちりと折られた鶴を、ナガヤマの手に握らせる。
「でもそれは、君が、一番ハルカを愛しているからじゃ無い。君は、ハルカの一番になりたかった。ハルカを一番傷つける、加害者になりたかったんだ」




