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 その年、社会見学にトサツ場が選ばれたのは、学年主任が思想的に偏っていたからだ。

 彼は、自分が指導する小学生達に、僕達の学校はそれはそれは大人しい子供ばかりであったので、この先、社会の荒波に揉まれればさぞかし苦労するからひとつ、と考えたのかも知れないし、単純によくある『命の大切さを教えてやろう』くらいの気持ちだったのかも知れない。

 なんとかの活動に参加するために、彼は担任を持っていなかった。だから、彼に会うのは廊下で会ったり、担任が不在になった時のピンチヒッターをいやいや引き受けた時くらいのものだった。

 いつ出会っても、彼は垢じみたいやな匂いを纏っていた。いつも同じ、襟や脇に油染みの浮いた服を着て、ズック靴を引きずるようにして歩いていた。

 ズッ、ズッ。

 特別なんだぞ、と彼は言った。

 特別に、お前達には向こう側まで見せてやろう。向こう側。

 通常の見学ルートでは、牛が枝肉となって流れてくるところから見るものだったそうだ。彼はそれを僕達に教えなかった。

 先頭には大人しい、気の弱い女の子が選ばれた。彼は僕達が二列に並ぶことも許さなかった。足下の消毒や、髪の毛を入れ込むためのヘアキャップ、一様に白いキノコみたいになった僕達は、大きなキノコに連れられて歩いて、そこに向かった。

 さあ、静かに。ゆっくり歩くんだぞ。

 誰もうるさくできようはずが無かった。

 先頭の子は喉の奥から、ぐえっ、ぐえっとウシガエルみたいな音を出して、顔を真っ青にした。

 彼は用意周到で、透明なビニール袋を彼女に差し出した。透明なビニールがぴったりと彼女の口と、鼻と、幼い頬の半分、顎をすっぽり覆う。

 ぐえっ、ぐえっ。あちこちで蛙が鳴き始める。彼は慈悲深く、ひとりひとりにビニール袋を宛がっていく。

 その透明なビニール袋の中に、吐瀉物が溜まっていく。白いキノコには座ることは許されなかった。足下には血と汚物が筋になって流れ続けている。むわんと濃密な血の匂いに、子供達の甘酸っぱい吐瀉物の匂いが混じる。ほかほかと牛の断面から湯気が上がる。

 首を切断された牛の右目は天井を、左目は床に押し当てられていた。牛は狩られ、貪られる側の生き物。だから前後左右いつでも見張っている。捕食者の姿をとらえるために。

 黒い目に、細く小さい、白いキノコみたいな僕達が映っていた。



 僕は牛になる気は無い。要するに、僕は狩られるのを大人しく待つ、獲物になる気はないのだ。もちろん、狩人になる気も無い。

 これは正当な行為だ。









 僕に無礼を働いた男──あれは男だった──を仮にAとしよう。

 残されたメモからして、自宅にメモを残していった犯人もAということになる。

 Aは僕の職場と自宅を知っていて、いつ僕がそこにいるか知っている。僕の行動パターンを知っているのだ。

 僕の毎日は味気ない。職場と家の往復。生活に必要な幾つかの買い物、外食、本店である研修。利用を予測しやすい場所が、家と職場だ。特に家は、人目が少ないから狙いやすい。

 そこで僕は気づいた。職場で襲われたのは、Aにとっても偶然だったのではないか。

 積極的に僕を害するつもりであれば、あんな場所は選ばない。逃げるにも人目に付く。

 ──Aはあそこで、僕が帰路につくのを待っていたのだ。

 僕が帰るのを見届け、それから帰り道なり、それももちろん調べてあるのだろう、また同じように家であったり、僕を襲っても誰にも見つからない場所で、もう一度僕を脅すつもりだった。

 そうだ、Aの目的は僕を脅すこと。そして、『カカワルナ』何に? 誰に? 襲われる前に僕が新しく出会った何? 誰? 誰?



 ハルカしかいない。







 最愛の姉を失って、悲しみの傘の柄を握る。君の目の色は、傘に隠れて見えない。







 その日も僕は、くたくたになるまで働いて、美容院を後にした。アリウムでサンドイッチとコーヒーをテイクアウトにして、自転車のハンドルに提げた。

 夜道を漕いで、アパートに辿り着き、灰色の階段を上る。世間は休日で、どこかに出かけている住人も多いのだろう。

 いつも以上に静かだ。

 僕はドアに鍵を差し込んで、ドアを開ける。そこで、僕は気づく。

「いけね、食いもん忘れた」

 はーぁ、とため息をつく。のぼってきた時もゆっくりだった歩みを、更に重たくして、僕はふたたび階段に向かう。







 最近の僕は疲れきっていて、階段を駐輪場から自室のドアの前に上がってくるまでに、七分の時間を要していた。

 それが続けて二回、階段を降りて、のぼって、また、ここに戻ってくるまでには二十分ほどかかるかもしれない。それだけあれば充分だろう。

 それだけあれば、充分だろう?







 アリウムのおいしいサンドイッチ、今日はローストビーフだ。それからコーヒーはなんとなくホット。ほかほか、湯気、湯気。

 僕は紙袋を前後に揺らさないように気をつけた。

 遠足は、家に着くまでが遠足なのよ。本当に、小学校やら中学校やら、義務教育の先生さまなんてろくなもんじゃない。遠足、運動会、軍隊みたいに並ばされて、大人の言うことをきくようにしつけられて、口答えすることも、考えることも許されない。

 水を飲まない野球部員、下着の色がおかしいと体操服をめくりあげられる女子生徒、なぜだか先生の膝に載せられていた女の子、竹刀で殴り飛ばされていた男の子、首を落とされてこちらを見ていた君。







 流石に往復すると息が上がった。

 僕はあたりの気配を伺って、先程と同じ静けさが漂っていることに少し感動した。

 ドアノブを捻って、ドアを開ける。外開きのドアはあっさりと開いた。

 狭い三和土には、靴は一足も置いていない。

 壁際のスイッチに手を伸ばす。暗い廊下が明るくなると、足跡が浮かび上がった。

 スニーカーの靴後は、奥のLDKに続いている。ドアは閉まっていた。几帳面なことだ。

 僕は閉まったドアの向こうに声をかけた。

「明かり、つけてくれてよかったのに」

 ドン、と鈍い物音が上がる。壁か床を蹴ったみたいな。

「靴、脱いだ? そこのラグ気に入ってんだよ」

 ドン、ドンドン、音が続く。

「あんまりうるさくすると、下の人から文句言われるだろ。ま、今日はいないみたいだけどさ。このアパート、結構壁が厚いみたいでさ、そんなに生活音に悩まされるなんてのもないんだ。掘り出し物だと思うぜ、階段にさえ目をつぶれば」

 足跡を避けながら、僕は奥に進む。

 ドン!

「……うるさいな、そういうのどうかと思うぜ」

 LDKの扉は、格子にすりガラスが填まっていて、向

 こう側は見えない。廊下が明るくて、LDKが暗いから尚更、向こ

 う側は見えない。

 しぃーっと僕は唇に指をあて、もう一方の手でノブを押し下げた。きぃっと軋んで扉は開いた。

 廊下の明かりに照らされて、LDKのなかが浮かび上がる。

「ああ、ひどい……」

 僕はアリウムの紙袋を床に置いた。

 お気に入りのラグの上に、男がうつ伏せに寝かされていた。男は必死にこちらを見あげる。口にタオルが詰め込まれている。唾液を含んだタオルは口内をいっぱいにして、喉を重たく圧迫するはずだ。逆流してくる胃のなかのものが、何度も喉を行き来するのだろう。喉仏が大きくなったり小さくなったりする。

 後ろに回された両腕は結束バンドで結ばれていた。手首から先は紫に色が変わっている。

 そして足は、片方が、ラグの上にL字になっていた。膝できっかりと九十度に曲がった足は、動いていない。残された足が、ドン、また音を立てる。

「アツミくん、ラグ汚してる。あと、暗いままにして待ってないで、明かりつければよかったのに」

「汚したのは俺じゃないですし、俺、夜目はいいんです」

 寝そべったAの横に立っていた彼は、足下に落ちている財布を爪先で蹴る。

 僕がずっと話しかけていた相手は、両手をホールドアップのかたちに上げた。

 その指の間に、アツミはAの身分証と思わしきカードを挟んでいた。









 いつものアリウムで、アツミに協力を頼むと、彼は快く承知してくれた。

『どうして僕を協力者に選んだんです?』

 暗がりゆえに彼の目、瞳孔は大きくなっていた。虹彩の色が薄いから、余計に黒く見える。

 その色が、僕の怒りに似ていたからだ。そう答えると、アツミは、おや、と目を見開いた。その黒。

 床から僕を見あげていた目と同じ黒か? いや、正反対の色なのかもしれない。

 けれどまあ、端と端であれば、同じみたいなものだろう。



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