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ザクロ

 ここは光に満ちている。

 天井から床まで大きく取られた窓から採り入れられた光は、鏡や白い床に反射し、増幅して、この小さな店の中を満たす。そのおかげで、合皮ばりのソファのひび割れや、床に落ちた髪の毛、壁紙のシミなどは、目に入ってもさほど気にならない。

「今日はどうなさいますか」

 鏡越しに僕は客に話しかけた。鏡には椅子に座る女と、その脇に立つ男が立っている。男は僕、そして女は客だ。

 サトウ ミズキ 僕の手にあるカルテには名前が書かれている。年齢は二十代後半。服装に目だった奇抜さはない。むしろ、流行を追いかけているからこその平凡さがあった。

 明るい色に染めた髪は肩甲骨の下あたりまで伸びている。

「短くしようと思うんですけど」

 彼女は鏡越しに答えた。一重の目、やや受け口で、口が小さい。ぱっとしない顔立ちであるが、色が白く、肌が美しい。

 サトウ ミズキはそれから、青白い瞼を見せて、そっと店内を見回した。

 僕の他にも美容師は働いている。五十代の女性スタッフ、まだ入ってきたばかりの若い男性スタッフ、二人ともが忙しくそれぞれの仕事をしている。

 彼らが僕達のやりとりに注意を払う余裕がないのを確認して、彼女は自分の項に手をやった。赤いマニキュアの塗られた爪が、髪の中に消える。

 髪を重たそうに持ち上げ、肩に流す。

「……あせもを搔き壊してしまって」

 あらわになったえり首には、白い肌に赤茶色のまっすぐの線が、交差しながら何本も走っていた。




 二つ折りのガーゼをかぶせると、サトウ ミズキは、髪を洗われる女になる。

 眉と目、それから鼻と口を隠すだけで、顔は識別されなくなる。

 すると、肌のたるみだったり、疲れた毛穴だったり、だらしなく生えた産毛だのがそれぞれ別々に僕の目に入ってくる。

「苦しいところはないですか」

 決まり文句を言うと、ガーゼがもぞもぞと動いた。

「……びっくりしたでしょう?」

 女の喉が動いた。ガーゼがふっと浮いて、また白い肌に張り付く。

「あ、はい、いいえ、あの、今年の夏は特に暑かったですものね」

「どうしても痒くて我慢できなくて。できれば軽く、涼しくして欲しいんです」

 みっともなくて結べもしない、と彼女はぼやいた。

 僕は女の髪をシャワーで濡らし始める。シャンプーを手にとって、それから、こめかみになすりつけた。

 女の白いえり首にあったのは搔き傷だというのだから、つい、女の腹の上に重ねられた手をみやった。

 手は重ねて握られていた。

「彼がすごく心配して。いつもは髪の毛を下ろして見えないけど彼はほら、」

「彼氏さんですか」

 美容院に来る客というのは、概ね美容師のことを美容師という生き物だと思っている。友達や家族にも言わないような親密な打ち明け話を、その場限りでして、切り落とした髪と一緒に捨てていくものなのだ。

「ネイルが好きで、爪も長かったから、こんなに傷になっちゃったのよね。彼にも怒られちゃった。ダメだよって。どうしてもネイルがしたいなら、もっと似合うネイルを、僕がやってあげるよって。長い爪じゃなくてもきれいに見えるようにしてあげるよって」

「ひょっとして、彼氏さんがネイルをして下さったんですか?」

「そうなの」

「きれいな色でしたね。器用な彼氏さん」

「そう、彼は器用なの。やっぱりあなたにもきれいな色に見えるのね」

 女の声が弾み、ガーゼが震えた。



 髪は肩の下で揃えた。動きを出すため、丁寧にすいた。えり首の傷はきれいに隠れ、毛先で刺激されることもない筈だ。白い肌についた痛々しい傷を隠しきったことに、僕はほっと安堵した。

 鏡の中で、サトウ ミズキは鷹揚に頷いた。彼女には髪型への強いこだわりがなかったからかもしれない。新しい髪型に、彼女も満足したようだった。

「男性の美容師さんは初めてだったから、少し緊張したけど、大丈夫だったわ」

「よく女っぽいって言われますからね」

「男のくせに、きれいな顔してるからですよ。彼女はいるんですか?」

「いません。モテないんですよ。ネイルはできるんですけどね」

 僕は冗談めかして答えた。サトウ ミズキは「嘘ばっかり」と言って鏡越しに笑った。




 預かっていた荷物を渡し、レジを置いたカウンターの前を挟んで立つ。

 金額を告げると、サトウ ミズキは財布を取り出した。赤い爪の色が鮮やかで、僕は彼女の指の動きを目で追った。紙幣を取り出す手つきはどこかぎこちない。

「……ネイル、見てます?」

 上目遣いに彼女に問われ、僕はばつの悪さを感じた。

「じろじろ見てすいません」

「ううん、いいの。なんだか、嬉しいわ。よかったら、もっと見てくれる?」

「いいんですか?」

 紙幣を持った手が差し出され、僕はその手に向かって顔を近づけた。

 彼女の白い細い指の先端は、赤くつやつやと光っていた。それは鮮やかな赤なのだが、肌の色から浮くことのない、自然な連続があった。

 その色は、一本たりとも同じ色ではない。鮮やかな赤だが、じっと見ると、黒ずんだマーブル模様が浮かび上がる。

「きれいですね」

 僕は紙幣を受け取るために手を出して、その時僕は気づいた。紙幣に赤い色が滲んでいる。

「……マニキュア……?」

 女の指先の赤がうつったのか。マニキュアが溶ける? そんなことがあるのだろうか。

 僕は、いっそう彼女の手に顔を近づけた。

 女の爪。いや、爪だと思っていた赤い色。

 全身の、うなじの毛が逆立ったように感じた。

 これは血の色だ。爪の色ではない。

 爪ではない。

 爪がない。

 女の指には、爪が一本もなかった。全ての爪が根元から剥がされ、失われていた。

 僕が塗られた爪だと思った赤い色は、剥き出しになった肉の色だったのだ。

「……彼が、一本、一本、ナイフで剥いでくれたんです。爪がなければ、ひっかいて傷になることもないからって。ものすごく痛くて、泣いて叫んだけど、君のためだよって彼すっごく優しくて、逃げても逃げても、床に抑えつけられて。三本目くらいから、もう痛くてわけがわからなくて、恥ずかしいけど漏らしちゃったんですよね。でも、彼かわいいよって言ってくれて。床なんか血まみれなのに、更におしっこで汚しちゃったのに、掃除もしてくれて。根元の残った爪も、毛抜きで全部抜いてくれて、全部きれいにしてくれたんです」

 女は紙幣を僕の手の上に載せる。その拍子に、女の爪から血が一滴、白い床に落ちた。

「よっぽど好きじゃなきゃ、ここまで尽くしてくれませんよね。ねえ、こんなに愛されるなんてそうはないですよね」

 紙幣の上から、女が僕の手に、手を、爪のない肉の指先を押しつける。

 女の指先の肉が割れ、血が溢れ出す。

「……あ、痛い」

 彼女は俯くと、彼女の爪のない手に向かって低く呟いた。

「……痛い。本当、痛い。痛い! 痛い! 何をしても、箸を持っても、トイレに行っても、お風呂に入っても、着替えをしても、何をしても、何をしても、針でぐりぐり、抉られるみたいに痛い。本当に何をしても痛い。痛い! 痛い! 痛い痛い痛い! どうしてこんなに痛いの! 頭まで、脳みそを棒でかき混ぜられるみたいに痛い!」

 最後の方はまるで叫びだった。店内に満ちていたざわめきが消える。他のスタッフも、客も、みんなが僕と彼女を見ていた。

 サトウ ミズキは顔を上げると、ふっと僕を見て微笑んだ。それから、小さな優しい声で言った。

「私の爪、きれいでしょう?」

 言葉の出ない僕にサトウ ミズキは会釈して、軽やかに髪を揺らしながら、店を出て光のなかに消えて行った。



 次の週のことだ。僕は女が死んだのを知った。

 サトウ ミズキは殺された。彼女は爪どころか、全身の皮を剥がされて、都内の自宅のバスルームで死体となって見つかった。

 テレビの画面に映る第一発見者は、同居していたサトウ ミズキの妹だった。都内の大学の文学部に通っているという妹は、白いバスタブの底に丸まっていた姉の死体について、まるでザクロの果実のようだったと詩的に語った。

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