猶予の二日目(1)
次の日もルト様はやっぱり寝起きがひどくて、フリーデさんに文字通り叩き起こされていた。
わたしはそれを眺めてから、部屋にもどる。
いつもどおりに見送りをして、それから、同じように見送りしていた執事頭のメサルズさんをふり返る。
「この間話していて聞いたんですけど、王都にもお屋敷があるんですね」
「ええ、社交シーズンに使うために必要ですからね」
「あ……なるほど」
言われてみればイギリスとかも、そういうのがあった気がする。
「そこって、誰か住んでいるんですか?」
質問の答えはいいえ、だった。
とはいえ無人にしているわけにもいかないので、使用人が幾人かいて、日々の掃除などはしているらしい。
……そういうところにも経費がかかるのって、大変だなぁ。
お祖父様はシュテッド公爵邸に住んでいるので、主人という存在は誰もいないという。
「それ以外にも持ち家……別荘? っていうかはあるんですか?」
領地は少ないとはいえ、大事な土地を守る公爵だから、別荘のいくつかあっても不思議ではない。
わたしの質問に、メサルズさんは、別荘らしい別荘はないかもしれません、と答えた。
国境沿い山間の場所に邸、というか砦というか、がひとつ。
これは有事の際の前線基地になるので、居住性は今ひとつらしい。
ここは防衛兼ねて小隊が詰めており、一定期間で入れかわって野外訓練がてらに使われているらしい。
あとは領地のそれぞれに小さい邸がひとつずつ。
なにかあった時には公爵がその地へ赴いて、直接指揮をとるための意味合いもあったらしい。
そんなこんなの実用的な場所ばかりで、村や町にある邸は流石にちゃんとした形だけれど、大きさは小さなものだそうだ。
……でも小さい、って言っても、絶対一般的な家の大きさじゃないと思うけど。
「暖かくなったら、領内の邸に遊びに行ってもいいでしょうね」
砦状態の場所は、あまり見せたくないのだろう、そんなふうに言われてしまった。
どの邸も定期的に掃除がされているので、いつでも遊びには行けるらしい。
楽しみです、と返事をして、それからもう一つのお願いをする。
「午後、出かけていいですか? 帰りはクヴァルト様と一緒にできるくらいで」
メサルズさんは愛想良くいいですよと快諾してくれた。
ありがとうございますとお礼を述べて、ピアノ室へと移動する。
フラウさんに聞いてもらいたい曲を練習して、合間に昼食を挟み、それからまた練習。
出かける前には、今日こそ雪を降らせようと、例の譜面を準備しておいた。
また止められるかもしれないので、その前にみんなに、雪の曲を弾きますねと宣言しておいた。
みんな嬉しそうにしていたから、これでゴリ押しすればルト様もうなずくしかないだろう。
計画というほどたいそうなものではないけど、楽しみにしながら外へ出て、馬車に乗りこんだ。
お供を申し出てくれたのはウェンデルさん。外出時は彼女のほうが適任だということらしい。
目的地は何度かお土産に買ってきてもらった洋菓子店だ。
明日フラウさんに渡そうと思って、ついでに自分の分も買うつもりでいる。
場所が場所だし、ちょっと高級な……たとえるならデパ地下にある系統の店なので、お客もそこまで多くなく、女性が多いから大丈夫だろうとフリーデさんのお墨つきだ。
カフェが併設されていて、そっちも繁盛しているようだった、いつかルト様ときてみたい。
店内は、ウェンデルさんみたいな……給仕係っぽい女性が結構いた。
みんな主人のお使いできているんだろう、中には、自分できているっぽいちょっと身なりのいい女性もいる。
言われたとおり女性ばかりだったので、安心して店内に入ることができた。
生菓子も心ひかれたけれど、日持ちしやすい焼き菓子を色々詰め合わせることにする。
わたしの分はたまたま見つけた和菓子っぽく、ちょっと塩っ気のあるほうをメインにしたけど、フラウさんのは普通にクッキー系だ。
疲れた時には甘いものにかぎるし、と、かわいくラッピングしてもらった袋を抱える。
支払額は思ったより少なくて、もう少し買ってもいいですよと言われたけど、食べ過ぎてもよくないので我慢しておいた。
それから馬車がたくさん停めてある待機場所まで歩いて、今度は領庁を目指す。
今回は事前に連絡しておいたので、スムーズに案内されて、それどころかドアを開けたらルト様が待っていた。
外で待とうとしたらしいけど、目立つからやめてくれと窘められたらしい。
それはどう考えてもジャンさんたちが正しいなぁと、少ししゅんとした顔を見て首をかしげた。
「……たまには、私もあなたを出迎えたくて」
だからそういう不意打ちでときめくことを言わないでほしい。
そうですか、とつっけんどんになってしまったけど、頬が熱くなっているのが自覚できて、ディディスさんがいなくてよかったと心から思った。
ルト様はからかってくることはなかったけど、微笑ましげな雰囲気が伝わってきて、わたしはぐいぐい背中を押して、馬車へともどることにした。
そんなこんなで帰宅して、早速ピアノ室に移動すると、楽譜を見て気がついたのだろう、ルト様は微妙な表情になった。
「練習していた間も、全然疲れなかったから平気ですよ」
だけど引く気はまったくない。
もう既成事実もつくってあるし、さっき恥ずかしかった分、お返しとは違うけど。
絶対我が儘を通させてもらう、というわたしの決意に気づいているのか、
「……妙に邸の皆がそわそわしていましたしね……今さらやめろとは言えません」
やれやれとため息をつかれてしまった。
なんだか、全然歓迎されてない雰囲気だ。
「……ルト様は楽しみじゃないんですか?」
前はずいぶん喜んでくれたのに、と、ちょっと寂しくなる。
無理させたくないっていう優しさはわかるけど、なんだか弾かせたくないみたいで。
わたしが暗い顔になったからだろう、ルト様は慌てた様子で違います、と首をふった。
「勿論、雪はまた見たいですよ。……ただ、あなたがその曲を弾いた経緯を思うと、あまりすなおに喜べなくて」
……まあ、たしかに、あんな夢を見なければ、当分弾くことはなかっただろう。
でも、今はそんなに気にしていない。
曲にまつわる悲しい記憶と、楽曲としての好みと、みんなの喜ぶ顔を天秤にかけた時、どれが重たいかとなると、元彼のことはわりと軽い。
軽くなってきたのは、ルト様のせいというか、おかげというか、だけど。
「平気ですってば、曲に罪はありませんし」
論より証拠だと、わたしは椅子に腰かけてしまう。
こうなると、ルト様は口を挟まなくなる。演奏に水を差してはいけないと思っているかららしい。
それをいいことに、わたしはすっかり暗譜した曲を弾いていく。
上々のできで弾き終えて──ルト様が部屋にいることにあれ? と思う。
てっきり外で見ていると思ったのに。
窓際で眺めてはいたようだけど、気づけばわたしのほうを見ていた。
「雪、いいんですか?」
大分慣れたからなのか、まだ少し雪は降っている。
最後のいくつかだけしか見られないのは少し残念だけれど、こればかりはしょうがない。
「見ましたけれど……あなたの演奏を聞くほうが、好きなので」
……だからそういう照れることをさらっと言わないでほしい。
頼まれれば何度だって弾くんだから、雪を見ていていいのに。
もう一回弾きましょうかと声をかけたけれど、いいえ、とゆるく首をふられた。
「お願いしていいなら、いつもの月の曲が聞きたいです、いいですか?」
「……勿論ですよ」
断る理由はひとつもない、こちらも暗譜しているけれど、一応譜面を出しておく。
まあ、母屋のみんなが雪を見る時間がちょっと減ったかもしれないけど、また弾けばいいだろう。
……そういえばこの曲を弾いたら、曇っていたら月が出たりするんだろうか。
今日は晴れているからたしかめようがないけれど、今度やってみてもいいかもしれない。
隠しておいた枝をひっぱりだしながらそんなことを考える。
でも今はとりあえず、枝に栄養補給もしておかなきゃ。
わたしはいつもの月光ソナタを、ゆっくりと弾きはじめた。




