猶予の一日目
目が、覚めて、少し離れた位置にある、クヴァルト様の顔に驚いた。
ぎゃっと叫びかけて、慌ててひっこめる。
そうだ昨夜、押しかけたんだった……
片手はつないだままで、だけどそれ以外はなにも眠る前と変わっていない。
クヴァルト様、じゃない、ルト様は、すやすや眠っている。
……どうしよう。
そろりと手をほどいても、起きる様子はない。
このまま部屋にもどるのは、流石に失礼な気がする。
「ルト様、起きてください」
声をかけてみるが、反応はない。
「ルト様、朝ですよー」
もうちょっと声を強くしたら、掛け布団をひっぱってくるまってしまった。
……なにこれ、かわいい。
もしかして、ルト様って、寝起きが悪い?
かわいいけど、困ってしまう、揺さぶったりしていいものなんだろうか。
おろおろしていると、コンコンとノックの音がする。
時計を見ればわたしが起きる時間にはまだ早いけど、誰かきたらしい。
まずい、と思ったけど、出入り口は一つしかないから、逃げることもできない。
すぐにドアの開く音がして、衝立からやってきたのはフリーデさんだった。
「ふ、フリーデさん、あの、その」
なんて言えばいいかわからなくて、結局まともな言葉は出てこない。
おろおろするわたしに、フリーデさんはいつもどおりの表情で微笑んだ。
「おはようございます、セッカ様」
「お……おはよう、ございます」
ここにいることを驚いている様子もない。ウェンデルさんから聞いたのかな。
「大丈夫ですよ」
「な、なにがですか!?」
慌てるわたしに、いつもどおりの調子で告げてくるけど、それはどこにかかっているのか。
「昨夜からのことはウェンデルから聞いています、知っているのはごく一部ですから、セッカ様はいつもどりに過ごしてください」
あ、そういう……ええと、フリーデさんはルト様が「そう」なこと知ってるんだろうか。
ウェンデルさんは知らないって言ってたから……もしかして?
それならわたしがここにいても、なにもなかったことはわかるだろうけど。
質問するのは恥ずかしいし、知らなかった場合が大変なので、スルーさせてもらう。
「旦那様はなかなか起きませんから、生半可な方法では駄目ですよ」
フリーデさんはてきぱきと動き、カーテンを開けてから、かけておいたガウンを手渡してくれたので、袖を通す。
ついでにぼさぼさだろう髪の毛も手櫛で整えた。
その間にフリーデさんは掛け布団に手をかけて、ばさっ! と一気にはぎとった。
ルト様は寒そうに震えたあと小さく唸り、もぞもぞと起きあがる。
「この起こしかたは……フリーデですか……」
どうやら相手によって違うらしい。
というか、ここまでしてもまだ寝ぼけているってすごい。
「早く起きてください、セッカ様が困っていますよ?」
しれっと言い放つフリーデさんに、ルト様がようやくわたしを見た。
……目が合うと、照れくさくて視線をうろつかせてしまう。
ルト様は少しとまどったあと、笑ってみせた。
「……恥ずかしいところを見せましたね」
「あ、いえ、お得な感じです。おはようございます」
「お得ですか。……まあ……いいです。おはようございます」
正直に答えたらフリーデさんが横で笑ってた。
いつもきっちりしてるひとの、砕けたところって、見るとラッキーって気持ちになる。
挨拶もできたので、わたしは自分の部屋へもどり、フリーデさんがくるまでに支度をすませておく。
朝食を食べに下に行けば、そこにいるのはいつもどおりのルト様だ。
「おはようございます、セッカ」
にっこりと改めて挨拶される。
さっき言ったけど、と言いかけて、そうだバレたら困ると挨拶を返した。
今日の授業は休みますかと心配されたけど、大丈夫だからと連絡はしないでもらう。
昨日は激動の一日だった……濃縮されまくってて、何日も経過した気がする。
でも、そのおかげで大分すっきりしたから、授業もちゃんと受けられそうだ。
「なるべく早く帰りますね」
いつもどおりの過保護な科白、でもそこに甘さが入っているような錯覚をしてしまう。
はい、とうなずくけれど、いつもどおりにできているか全然自信がない。
そもそも、普段どういう態度をしていたっけ……
うーんと悩みながら、フラウさんを出迎えて、授業に入る。
昨夜のことは伏せて、枝のせいか夢を見たこと、ピアノの演奏で雪を降らせたことなどを報告する。
フラウさんは魔法にも詳しいので、アドバイスがもらえると思ったからだ。
予想どおり、調べてみますねと心強い返事をもらえた。
ただ、人前でやると、よからぬ輩に利用されかねないからと注意もされたけど。
「その話のあとで申しわけないのですが……」
授業の最後に恐縮したフラウさんから、明日は休みにさせてほしいと言われた。
なんでも、親戚の集まりがあるのだそうで、欠席するわけにはいかないらしい。
わたしの授業は毎日やらなきゃいけないものでもないので、構わないですと答えたら、感謝されたけど、その表情はどこか浮かないもので。
一同が集まるのでなかなか大変なんです、と笑い話めいて告げているけれど、声のトーンはいつもより低くて堅かった。
……親戚づきあい、あんまり嬉しくないのかな、と考えて、それはそうだよなと思う。
夫側の親族らしいから、気疲れとかもすごいだろう。
気をつけて、くらいしか声をかけられない身を歯がゆく感じながら見送った。
さて、なら明日はどうしよう。
ルト様は仕事だろうから、一日中ピアノを弾いているのでもいいんだけど……
ひきこもっているのもよくないし、と、あれこれ考えながら楽譜の選定をする。
疲れてくるだろうフラウさんに、明後日に新しい曲を披露しようと思ったのだ。
結局、わたしのできることはこれしかないし。
あれもいいこれもいいと楽しく悩んだ結果、なんとなくこれ、と決まったので、残りは練習にあてた。
一曲はわたしでもキツイから、もうちょっと精度を上げておきたいなぁ……とムキになっていたら、ちょっと根を詰めすぎたらしく、フリーデさんに怒られた。
休み明けだからだろう、早く帰ると言っていたけど、ルト様の帰宅は少し遅くなった。
そのおかげで長時間練習していたことはバレなかったので、わたしとしてはよかった……かな?
あとで密告されなければ、だけど。
申しわけなさそうな顔をしていたので、気にしていませんよと伝えておく。
「今日も雪、降らせます?」
やる気満々で問いかけたら、渋い顔で駄目です、ときた。
「昨日二度も降らせたでしょう、無理はいけません」
「元気ですよ?……その、よく眠れましたし」
わたしの言葉にルト様は嬉しそうにしたけれど、すぐ表情を改めて、でも駄目ですと重ねた。
本人が平気って太鼓判を押してるのに、と思ったけれど、魔力が実感できない身なので説得力に欠けてしまう。
観察術士を呼んでおけばよかったかな、と後悔したけど、しかたがないので、枝を出して普通に演奏した。
……でもこれだって魔力を吸ってるから、変わらない気がするんだけどなぁ。
演奏自体を止められたら嫌なので、黙っておくことにする。
何曲か弾いて、夕食を一緒にとって、と、いつもどおりにすぎていく。
昨夜のことを知っているのはごく一部、という言葉どおり、みんなの視線に変わったところはない。
わたしのほうから聞くのも恥ずかしいので黙っているけど……どこまでなにを知っているかは、あとで聞いておかなくちゃ。
でないとうっかり口を滑らせてしまいそうだし。
お風呂も入ってあとは寝るだけ、という段階になって、いつものように、お休みなさいの挨拶をする。
「……寝酒が欲しければ、またどうぞ」
三階の廊下にいるのはわたしたちだけだったけれど、それでもぎりぎりまで声を潜めて囁かれる。
その言葉の裏の意味に気づけないほど、わたしも子供じゃない。
それでも、何度も甘えていいものかと悩んでしまう。
でも、わたしの踏ん切りがつかないことなんて、ルト様はお見通しで。
「私も少し、飲みたいので」
わたしだけじゃないんだと、同じ気持ちなんだと伝えてくれる。
……本当にいいんだろうか。
とりあえず部屋にもどったものの、ベッドに入る気にはなれなくて、うろうろとさまよってしまう。
だけど、目の前に魅力的なお誘いがあって、それを蹴飛ばして一人で寝るなんて選択肢は、なかなか選べないわけで。
迷ったわたしは、とりあえずウェンデルさんのいる部屋のドアを叩く。
「はーい、今夜も見ないフリしますよー」
なにか言う前に宣言されてしまって、身の置き所がない……
お願いしますと気軽に返事もできなくて、ドアの前で立ちつくしてしまう。
ウェンデルさんはそんなわたしを眺めて首をかしげた。
「どうしました? 悩んでるみたいですけど」
「だって……いいのかなって」
「いいんじゃないですか? 旦那様がいいって言ってるんですし」
ウェンデルさんはけろりとしたものだ。
そんなにさっくりとは思い切れないんだけど、でも……
「……行ってきます」
「は~い」
……やっぱり、一人は寂しくて。
ウェンデルさんの顔に押されるように、ルト様の部屋へ移動する。
コンコン、とノックすれば、すぐにドアは開いた。
昨日と同じような格好のルト様が出迎えてくれる。
机の上には、昨日と違うグラスとお酒。
相変わらずドアを閉めないままなのは、わたしへの気遣いなんだろう。
おずおず中へ入ると、昨日と同じソファをすすめられる。
お酒は見た目からして違っていたけれど、あまり強くないものではあるらしい。
甘い果物の味がしたから、フルーツワイン? とかなんだろう。
あんまり強くないお酒だけど、飲めば少しは酔って、判断力とかも、低下する。
……それが、いいわけだとわかっている。
眠気にグラスを落としそうになったところで、さっと別の手がさらっていった。
「……そろそろ、休みましょうか」
いつもと変わらないルト様の声に、安心すると同時に、もやもやした気持ちにもなる。
わたしばかりが悩んでるみたいで。……実際、そうなんだろうけど。
ルト様にしてみれば、ぐずってる子供をあやすような感じなんだろう。
そうでなければ、こんなこと、していいわけがないし。
「……もうちょっと、話したかった……のに」
昨夜と同じ場所にもぐりこんで、片手だけを繋ぐと、どんな話ですか、と訊ねられた。
どんな、って、具体的にあるわけじゃない。
あ、誰がどこまでこのことを知っているかは聞きそびれた……けど、流石にもう聞けそうにない。
「二人きりで話せるのって……今だけ、だし……」
それ以外は、大体そばに控えているひとがいる。
演奏する時は部屋からは出ているけど、廊下にはいるわけで。
なにか喋ったら簡単に聞こえてしまう距離だ。
勿論守秘義務とかあるから、遠慮なく話してもいいんだろうけど、やりにくいわけで。
そういう意味でもこの時間は、とても貴重なものなのに、眠気がひどくて勝てそうにない。
「……なら、夕食後のお茶を早めに切りあげましょう。そうすれば、時間がとれますよ」
しばらくの間があってからの提案は、眠い頭ではうっすらとしか理解できない。
でも、たしかに、それなら眠くなる前に話せる気がする。
……いいですねって言ったつもりだけど、成功したかはわからない。
だけど、条件反射のようにねむくて、我慢できなくて──寝落ちしてしまった。




