蜂蜜の夜(5)
「……クヴァルト様、だからですよ」
わたしには気の利いたことなんて言えないけど。
「他のひとだったら、たとえそういう事情で大丈夫って言われても、こんなことしません」
つないだままの手に、少しだけ力をこめる。
わたしがちょっとくらいなにか言ったって、クヴァルト様の三十何年が軽くなるわけじゃない。
だけど、それでもちょっとだけでも、無駄なんかじゃないって思ってほしい。
「やさしいクヴァルト様だから、……だから」
出自ゆえに連中が嫌いで、反抗することを気にしなくて。
男女関係にうんざりしているから、紳士的な対応をしてくれて。
大きな領地を持っているから、わたし一人くらい余裕で養えて。
そのおかげで、わたしは今、異世界で平和に暮らすことができている。
だからってクヴァルト様の全部が必要なことだったとか、運命だなんてわけはない。
でも、全然意味がなかったわけじゃないんだと、いてくれて感謝してるんだと、伝わってほしくて。
けれど喋るのが苦手なわたしは、ちっともいい言葉が出てこない。
ここにピアノがあれば、曲に託していくらでも伝えられるのに──
もどかしさに小さく唸ると、
「──ルト」
不意に、単語が落ちた。
え? とクヴァルト様の顔を見ると、穏やかな表情でわたしを見つめていた。
「呼びにくいのでしょう? どうぞ、ルトと」
クヴァルト、だから、略してルトってことかな?
ディディスさんはヴァルトって呼んでたけど……
そもそも呼びにくいって、こぼしたことあったっけ? 発音のせいでバレてるのかな。
「クヴァルトという名は母がつけましたが、……音をあの男と似せているんです」
……お母様、色々ひどい。
その時は二度と会えないと思ったからだろうけど……
つまり、Vの音が近いってことかな? ディディスさんが呼んでるから嫌だったわけじゃなくて、そもそも好きじゃないっていうことか。
思い出してみても、みんな「旦那様」と呼んでいた。それが自然なのかと思ってたけど……
「シュテッド前公爵が、『孫なのだから愛称で呼んでもよかろう』と言って」
「……優しいですね」
多分、呼ばれることを嫌がっていると察したんだろう。
わたしの言葉に、クヴァルト様は苦笑いを浮かべた。
でもそれは嫌味っぽいものじゃなくて、困ったような、少し照れたようなもので。
「血のつながりはありませんし、厄介者でしかないのに、実の祖父のように接してくれました」
お母様は最低だけど、周りにはいいひとがいたから、今のクヴァルト様がいるわけで。
その最たる存在は、前シュテッド公爵なんじゃないだろうか。
話を聞くだけでも、そのひとがいなかったら、クヴァルト様はどうなっていたかわからない。
「──いいんじゃないですか、お祖父様って呼んでも」
血のつながりなんてなくたって、家族になることはできる。
そもそも夫婦だって他人なわけだし。
「社交の場で便宜上呼んだことはありますが……」
どうやら私的な場では他人行儀に(いや他人だけど)名前とかだったらしい。
「……今度、呼んでみますか」
たっぷり悩んでから、とまどいがちに呟く。
ぎこちないのは、家族と表現できる存在がいなくて慣れないからだろう。
あれ、ってことは……
「お祖父様、まだ元気なんですか?」
失礼だけど、とっくに亡くなってると考えてた。
この邸にはいないし、話に出てくることもなかったし。
わたしが驚いていると、ああ、そうでしたと教えてくれる。
「王都にいますよ、年齢相応に元気にしているはずです」
……ええと、結婚した時次男が十七歳だから、上が二十歳くらいとして。
同じくらいに子供を産んでいたとしたら、四十たす三十ちょいで、うん、生きてても不思議ではない。
話に出てきたひとがほとんど亡くなっていたから、うっかり殺してしまっていた、申しわけない。
「王都にはあんまり行きたくなかったですけど、行ってもいい理由ができました」
是非とも会ってみたい。そして、お礼を言いたい。
わたしが言うと、クヴァルト様はよかった、と微笑んだ。
「大きな楽器店もありますしね」
「う……それはものすごく魅力的ですけど、まずはお祖父様にご挨拶しますよ……会ってくれますかね?」
クヴァルト様に対して情を持っているなら、連中が好きじゃない可能性がある。
となるとわたしの存在もあんまり気にいらないかもしれない。ぶっちゃけ、取り柄もないし。
「大丈夫ですよ。まあ、食えぬタヌキではありますが……多分あなたには優しいと思います」
「……ルト様、に似てそうですね」
クヴァルト様、よりは言いやすいけど、なんとなく気恥ずかしい。
あだ名っていうかって、仲良くなった証拠みたいで、嬉しいんだけど。
早口になってしまったけど、ルト様って聞いた瞬間、とても嬉しそうにしたので、よかったんだろう。
「似ているかどうかは、私にはわかりませんが」
よく言われはします、と続いた。
血のつながりはなくても、一緒に生活していると似てくるものだ。
わたしは半分姉に育てられたようなものだから、母にも姉にも似ていると言われる。
姉とは血はつながっているけど……まあ、そんな感じ。
ルト様は、さっきまでの冷たい表情から、大分ほぐれたものになっていて、ほっとした。
……ほっとしたら、なんだか急に眠くなってきた。
空いている手で目をこすってみるけれど、あまり効果は現れなかった。
「無理せず眠っていいですよ、なにもしませんから」
そこは疑ってないんだけど、そうじゃなくて。
「せっかく……いろいろ、話してる、のに」
こんなチャンス、二度とないかもしれない。
というか、何度もあっちゃいけないことなんだし。
だからめいっぱい喋っておきたいと思うのに、眠気はどんどん強くなっていく。
「あなたが望むなら、この先何度でも、こうしますから」
きゅ、と、はじめてルト様のほうから手をにぎられた。
今まで、よほどのことがないかぎり、そうしなかったのに。
少しだけ熱いのは、眠いからなのか、緊張してくれているからなのか。
「そういう、わけには……いかないと、思います」
人目とか、噂とか。
「大丈夫ですよ、少しくらい」
むしろ好感を持たれるかもしれません、って、それはないんじゃないかな……
でも、たしかに、浮いた噂もないワーカホリック独身領主って、とっつきにくそうではある。
孤児院の子供たちも、ディディスさんには懐いてたけど、ルト様に遊ぼうとは誘わなかったし。
「……ベッドで他の男性の名前を出すのは、いかがなものかと思いますよ」
「ぁ……すみま、せん?」
甘い声で注意されて、咄嗟に謝るけど……あれ? 謝るところなのかな?
なんだかよくわからない、眠いせいかな、だってこれじゃまるで……
「──お休みなさい、セッカ」
とどめのように声が降ってきて、ぎりぎりで保っていた意識が落ちる。
「おやすみ…なさい……」
それでも挨拶だけはと頑張ったけれど、最後まで言えたかは自信がない。
だけど聞こえたというように、手に力が入ったから、きっと大丈夫だったんだろう。
──本当はもっと近くにいたかったけれど、それはやっぱり恐くて。
いつか、くっついて眠れたらいいのになんて、酔っ払いと寝ぼけの頭は、お花畑なことを願っていた。
父親の名前は明確には考えていないのですが、
「ヴァ」からはじまる名前です。ヴァーシュとかそんな感じ。
ささやかな伏線は第25話になります。
セッカの言葉に対して、彼は明言をしていません。




