蜂蜜の夜
クヴァルト様は、多分寝間着だろうシャツとズボンに、大きめのカーディガンを羽織っていた。
いつもわりとぴったりした服装だから、だぼっとした感じが新鮮で、思わずまじまじ見つめてしまう。
「……眠れませんか?」
そっと、吐息のように落とされた問いかけは、心配げに揺れていた。
こくりとうなずくと、いくらか悩む気配。でも、わたしは移動する気はない。
やがて折れたのはクヴァルト様で、大きくドアを開けてくれた。
「……ありがとうございます」
追い返される覚悟もしていたけど、それはないらしい。
わたしが中へ入っても、クヴァルト様はドアを閉めることはなかった。
「そういえば、クヴァルト様の部屋を見るの、はじめてですね」
大きさはわたしの部屋とあまり変わらない。でも、当たり前だけど置いてある家具が違う。
木星の家具は深い色で塗られていて落ちついており、カーテンは夜のような深い緑。
どの家具も重厚感あふれるもので、少し窮屈なくらいだ。
「そういえばそうですね、探検してもいいですよ?」
意図的にだろう、軽い調子で魅力的なことを言いつつ、灯りを強くしてくれる。
薄暗かった室内は、昼のようとはいかずとも、困らない程度に明るくなった。
衝立のむこうはベッドだろうから、そこは行かないようにして、ぐるりと見回す。
やっぱり目につくのは、とてつもなく大きな机。
書斎とかにあるのもそうだけど、やたらと大きくて、棚の部分には細かい装飾もされている。
「何代か前が抱えていた職人がいましてね」
見つめていたのがわかったのだろう、クヴァルト様はコン、と机の端を叩いてみせる。
よく見れば寄せ木細工みたいな細工もある、これ、一体どれくらいの手間がかかってるんだろう。
「たしかに品はいいのですが、装飾過多で私はあまり好みではなくて。ただ……片づけようにもこの大きさですから」
動かすのも大変なのでそのままです、とぼやかれ、そうだろうなぁと思う。
だから、あちこちに大きな家具だけ残っているわけだ。
勿論他の家具も統制がとれるように選んでいるのだろうけど……
援助してもらって好きなことができた、という意味ではわたしも同じなので大きなことは言えないが、何代もあとにちょっと困って残るのは、まずいかもしれない。
壁際にあるひときわ大きな棚も、同じひとのつくったものだろう。
倒れたら大惨事間違いなしの、とてつもなく重たそうな棚には、色々なボトルがおさめられている。
「お酒、ですか?」
「ええ、……そうですね、寝酒代わりに少しどうですか?」
眠れるかもしれませんよと言われて、それもそうだなと思う。
最初にお酒は飲まないと申告したので、今まで食事の席でお酒が出たことはない。
クヴァルト様もそんなに飲まないというから、不都合を感じたことはなかったけど……
隣にあるもう少し小さな棚には、綺麗なグラスがたくさん置いてある。
そのうちのひとつを手にとって見せてくれた。──繊細な模様がグラスに描かれている。
それから重たい扉を開けて、何本かをとりだして小さなテーブルに載せた。
ラベルには名前が書いてあるけど、もとの世界みたいにアルコール度数とかは書いていない。
コルクが抜けると、ふんわり甘い香りが漂った。
それをグラスに少しだけ注いでくれる。
色はあんまり濃くない黄色だけど、それじゃ度数はわからない。
クヴァルト様のことだから、強いものは入れてないと思うけど……
「きつくはないと思いますよ、駄目そうなら薄めますから」
伺うように見上げると、やんわり微笑んでくれる。
その言葉に、おそるおそる口にしてみた。
「……蜂蜜?」
ちょっと他の味も混じっているけど、この甘さは間違いない。
「ええ、薬草なども入っているので、身体にもいいですよ」
へぇ、と感心しながら続けて飲む。そんなに強くないとの言葉は本当で、味も飲みやすい。
暖かくしてもおいしそうだ、そうなるとお酒というより甘酒っぽいかもしれないけど。
わたしはソファに腰かけていて、クヴァルト様はテーブルの脇にあった椅子にすわり、同じものを飲んでいる。
このソファは背もたれ部分が細かい模様になっていて、クッションがなければおちおち体重もかけられそうにない。
「……雪を降らせた曲は、題名にわたしの名前が入ってるんです、ちょっと、綴りは違うんですけど」
ぽつぽつと、語りはじめる。
「あのネックレスと一緒で……元恋人に、もらったものでした」
悩んだ挙げ句、今まで黙っていたことを言葉にする。
隠しておきたかったというより、それを聞いても、無反応だったら悲しいとか、そういう理由だった。
でも、言わずにいるのも嫌になってきていて。
──龍也は、同じ大学で声楽を専攻していた。
綺麗な甘みのあるテノールに、たしかな才能、奢ることなく練習する姿勢。
そんな彼がわたしの演奏を気に入ってくれて、伴奏を頼まれて。
つきあうようになったのは、ごく自然ななりゆきだったように思う。
そんな彼が誕生日にくれたのが、ネックレスと譜面だった。
ソロピアノ用と伴奏用のふたつを寄越してきて、わたしが伴奏を弾くと、彼が合わせて歌ってくれた。
「君の名前に似ていたから」
そう微笑みながら、だから君にしか歌わないよと甘く囁いて。
わたしのピアノと、彼の歌。それだけあれば幸せで──とても贅沢な時間だった。
「──彼は優秀だったので、音楽の盛んな外国に、留学することが決まったんです」
大きなチャンスを逃すなんて勿体ない。
彼はとても喜んで、わたしも喜んだ。……でも。
イタリアは、あまりにも遠すぎた。
彼についていくという選択肢も、あるにはあった。
でも、ついていったところで、イタリア語のできないわたしは、仕事を探すのも難しい。
ピアノ以外に特技がないし、かといって留学する彼に、もう一人養う余裕なんてあるわけない。
だから二人で話し合って、恋人関係は解消しよう、ということになった。
その後わたしは可能なかぎり仕事を詰めこんで、おかげで忙しくなれて、腕も認めてもらえて。
仕事が楽しくて、別れたことを引きずらずにすんでいた。
「夢に出てきた姿を見ても、どうとも思わなかったんです」
空っぽになったグラスを見ながら、両手でしっかりにぎりしめる。
「あんなに好きだったのに──そのことが、とても……自分が薄情で」
本気で好きだった。
一緒に音楽教室ができたらいいねなんて、夢も語った。
だけどなにもかも捨てて一緒に行くことはできなくて。
時間が過ぎれば痛みも忘れてしまって。
他に楽しいことがいくつもできて。
そして──今は違うひとが好きになっている。
「でも、……その、わたしのもとの世界って、結婚する前から、一緒に暮らしたりとか、そういうのがあって」
「ああ、こちらでも普通にありますよ、流石に爵位があると無理ですが」
それならはしたないと思われなくてすみそうだ、とほっとする。
同棲してたわけじゃないけど、似たような状態ではあった。
ピアノに没頭すると寝食を忘れるわたしに、彼は苦笑いをしていたものだ。
彼だって、夢中になるとずっと歌っているから、お互い様だねと笑って……
「だから、ひとりで眠るのが、とても……さみしくて」
睡眠も大事だと、狭いベッドでくっついて眠りについた。
喉が大事な彼のために、加湿器をつけて、いつでもスカーフを巻かせて。
わたしのほうは、指が荒れないようにと、保湿クリームをつけてくれて……
甘ったるい、おままごとじみた恋愛は、それでも一生懸命だった。
あんな夢を見て、ピアノを弾いて、彼に連なる諸々を思い出したら、もう、とても一人ではいられなかった。
「って、言っても、困りますよね、すみません」
あはは、と笑おうとしたけど、多分失敗しているだろう。
「なら────」
少しかすれた声が、囁いた。
顔を上げると、グラスを置いたクヴァルト様が、いつのまにかわたしの目の前にいて。
距離をとってくれてはいるけれど、跪いているから、視線は同じ高さで合う。
紺色の瞳は強くて、見つめているといたたまれなくなるけれど、目を離すこともできない。
まごつくわたしに、クヴァルト様は闇にまぎれるように言葉を落とした。
「──今晩は、一緒に寝ましょうか」




