夢と現と(3)
──どこか少しもの悲しい音の連なりが響いていく。
あまり大きな起伏はつけず、緩やかに穏やかになるよう、気を配る。
高音が綺麗に響くように──闇の中の光のように。
もともとが歌なので、メロディーが繰り返されて、五分ほどの長さがある。
でも多分、長ければ長いほど、力は強くなると思うから、最後まで気を抜かずに弾き続けた。
だからいつもに比べれば、少し起伏が乏しいのだけれど、クヴァルト様は静かに聞いていてくれた。
まあ、多少、なんちゃってジャズアレンジなどを加えているのだけど。
曲が終わり、指を離すと、急いで外を確認する。──うまくいってる!
「クヴァルト様、外、見てください!」
拍手するクヴァルト様に勢いこんで言うと、拍手する手の形のまま止まり、訝しげに外を見て──硬直する。
カーテンを開けたままの、暗くなった窓の外には、白いものが見え隠れしていた。
「あれは……」
「あれが、雪です」
答えを教えると、弾かれたように立ちあがり、窓を開けて外へ出る。
わたしの力じゃせいぜい邸の周辺に、ちょっとの間降らせるだけだろう。
午後に試した時は、うっかりして部屋の中に降らせてしまったのだけど、床につく前に消えてしまい、おかげで汚さずにすんだ。
だから、本物の雪ではなくて、さわることもできないし、冷たくもない幻だけど……
母屋のほうからも声が聞こえたから、一応あっちまでは降っているようだ。
外に影響させようと念じたことはほとんどなかったから、一か八かだったけど、成功してよかった。
……この曲だから、っていうのも大きいんだろうけど。
「本物じゃないから、冷たさとかはないみたいですけどね」
掌に受けとめようとしても叶わなくて、瞬間消えてしまう。
本来なら感じる寒さも、そこには存在しない。
「……綺麗ですね、とても」
けれど、力が弱かったのか、もう降る量が減っている。
わたしは急いでピアノの前にもどり、雪が降るよう願いながら、もう一度弾きはじめた。
弾きはじめればピアノから視線をあまりそらさないのだけど、ちらっと見たら外にいたままだったから、多分また降りだしたのだろう。
積もることはないけれど──少しでも本物に近づいてほしいと思いながら、わたしは小さく歌いながら弾き続ける。
クヴァルト様は外にいるし、歌うといってもささやかなものだから、聞こえることはないだろう。
……普段なら歌ったりはしないけれど、この曲は歌とセットの記憶だから、つい口ずさんでしまうのだ。
曲が終わり手を離すと、クヴァルト様はまだ外にいた。
さっきよりも雪はしっかりと降っていて、わたしが慣れたせいなのかな、と考える。
真っ暗な空から、ちらちらと落ちてくる白い雪。
本物ではないせいか、余計にはかなく見えてしまう。
「──花びらのような雪、という意味が、わかった気がします」
わたしのほうを見て、クヴァルト様が微笑んでみせる。
名前の由来のことを、ちゃんと覚えていてくれたらしい。
「実際降ると、結構大変なんですけどね」
演奏が終わったから、新しい雪は降ってこない。
それでもしばらくの間、二人でなんとなく立ったままでいた。
特になにか喋ったわけじゃないけど──沈黙は嫌なものではなくて。
「……流石に冷えますから、中へもどりましょうか」
ややあってそう促されて、すなおにうなずく。
「そうですね、お腹、空きましたし」
悩んでいてもなにをしていても、お腹は空くし眠くもなる。
照れ笑いを浮かべると、すっと手をさしだされた。
中へ入るドア口などに多少の段差はあるけど、手を借りる必要はない。
実際今まで、そんなことをされたことはほとんどなかった。
どうして、と思いはしたけど、無視するなんて選択肢は存在しなくて。
おずおずその手に自分のを乗せると、にぎられることはなく、あくまで乗せたまま、エスコートしてくれた。
母屋に行くと、ウェンデルさんがはしゃぎながら雪が見えたと教えてくれた。
流石に使用人の棟まではとどかなかったみたいだけど、まだ邸に結構残っていたので、みんなはじめての雪に大いに喜んだという。
うまくできることはわかったので、今度はみんなを集めた状態で披露することを約束した。
今回見られなかったひとに申しわけないし、クヴァルト様もまた見たいと言ってくれたし。
料理長も見られたらしく、雪をイメージしたなにかをつくりたいと息巻いていた。
「──気持ちは落ちついたんですか?」
食後、慎重な調子で問いかけられて、はい、とうなずく。
「でなきゃ、聞いてもらおうなんて、思えませんよ」
しかも、思い出の曲を。と、これは心の中にとどめておく。
言葉で言うより、わたしの場合、演奏を聞いてもらうほうがよっぽど説得力がある。
クヴァルト様もそうらしく、たしかに素晴らしかったです、とうなずいた。
「ですが、無理はしないでくださいね? そう簡単に……思い切れるものでもないでしょうし」
それはそのとおりなので、おとなしくわかりました、と答えた。
踏ん切りはまだまだつかないし、もしかしたらずっと駄目かもしれない。
でも、それでも時間はすぎていく。
ピアノがあって、みんながいるのなら、頑張っていくしかないだろう。
心配性なクヴァルト様は食後のお茶をさっさと切りあげてしまった。
もうちょっと喋っていたかったのだけど、天候に影響するような力を使ったのだから、疲れてもいるはずだと力説されて。
早く寝たほうがいいだろうとしきりに急かされ、フリーデさんたちも賛成するものだから、いつもよりお風呂もなにもすぐに終わってしまった。
お休みなさいと一応挨拶したけれど……正直寝るのは気が重い。
またああいう夢を見るのは、正直かんべんしてほしいし。
そのへんも考慮してほしかったなぁ、と、愚痴っぽく思ってしまう。
いったんはベッドに入ったものの、ちっとも眠気はやってこなくて、ごろごろ無駄に転がり回る。
──これは駄目だ、当分眠れないやつだ。
横になっていればいつかは寝るだろうけど、それまでくすぶっている気にもなれない。
よいしょ、と起きあがると、クローゼットからガウンをとりだして羽織る。
ちゃんと前をとめてしまえば、まあ、部屋の中くらいはうろついてもいいだろう。
……ちらりと、部屋の端にあるドアを見る。
あの先は棚が置いてあるから、わたしの力では開けることなんてできない。
はじめはそれに安心していたけど……今は、なかったらいいのに、なんて考えてしまう。
クヴァルト様は、わたしは全然甘えてないほうだと言った。
それが本当かはわからないけど、でも、それなら、我が儘をやってもいいだろうか。
だって、もやもやする夢を見たし、その流れであの曲弾いちゃったし、クヴァルト様優しいし。
だから今夜くらいは許されるはずだと、意味不明な理屈をつけて、わたしはそっとドアを開ける。
静まりかえった廊下には、誰もいない。
夜間の見回りは勿論あるけど、外にもいるから、三階にずっといるわけではないらしい。
それだとわたしが落ちつかないだろうから、という理由もあるそうだ。
だけど、隣の控えの部屋には、ウェンデルさんが詰めている。
多分わたしがドアを開けたのも気がついているはずだ。
だからわたしは自分から、隣の部屋のドアをノックする。
「どうされました?」
すぐに戸は開き、眠たげな様子など全然見えないウェンデルさんが顔を出す。
……さて、なんて言えばいいだろう。
あんまり考えていなかったので、いざ面をむかうと言葉が出てこない。
ウェンデルさんは急かすことなく待ってくれている。
「──あの……ちょっと見て見ぬフリをしてほしいんですけど」
やがてのお願いに、ウェンデルさんは眉を上げた。
無茶なことを頼んでいるのはわかっているけど、止められたら困ってしまう。
「んーまあ……セッカ様からならいいか。じゃあ、なにかあったら、私の名前を呼んでください、迎えに行きますんで」
ウェンデルさんは一人でなにごとか納得したあと、そう言ってくれた。
「ありがとうございます」
「頑張ってくださいね!」
親指立てながらイイ笑顔はしないでほしい……
とはいえこれで、大丈夫、のはずだ。
わたしはゆっくり、クヴァルト様の部屋へむかう。
緊張して足が震えて、ほんの数歩の距離にものすごく時間がかかってしまった。
扉の前でノックをしようと腕を上げて、そこでまた固まってしまう。
……深夜、未婚の女性が男性の部屋に行くなんて、現代人のわたしでも、いかがなものかということはわかってる。
はしたないと怒られても当たり前だ。
返事があってほしいような、寝ていてほしいような、相反する気持ちで、おそるおそるノックをする。
きっと数十秒、でも、体感では何分も経ってから──
ドアが、開いた。
中島美嘉「雪の華」ピアノアレンジ




