夢と現と(2)
部屋に入ったわたしは、目的の譜面がある棚へとまっすぐ歩いて行く。
ずっと手をつけていなかった、一番下の端に置いてあった入れ物をとりだし、それごと机の上に置いた。
入れ物は大きいけれど、ここに入っている譜面はごくわずかだ。
諸般の事情で弾きたくない曲を入れてあるから、少なくて当然なんだけど。
そのうちの一曲を譜面台にセットして、手を洗ってくると、やおら弾きはじめる。
忘れてくれたかと思ったけど、暗譜したのがまだ残っていた……というか、手が覚えているようだ。
久しぶりのわりに、さほど気になる点もなく弾けてしまう事実に、もやもやしたものが胸につかえる。
だけどわたしはそのまま、もうひとつ出しておいた譜面もさらいはじめた。
こちらも、特に問題なく弾ける。難易度が低いし同じ曲だから、不思議でもないんだけど。
こんな感情で弾いたら枝がどうなるかと不安になって様子を見たけど、とりあえず変化はなかった。
本当はしまっておきたいのだけど、こんな情緒不安定でピアノを弾いて、まわりに変な魔力を流したら大変なので、せいぜい枝に吸ってもらおう。
嫌な魔力だったら吸わないかもしれないけど、その時はその時だ。
ざっと練習して、人前で弾いても問題ないかな、と自分に及第点を出す。
気づけば結構な時間が経っていたので、一息入れようとピアノを離れ、テーブルの上の飲物を手にとった。
これは、心配そうな顔をしたフリーデさんが、手渡してくれたものだ。
中味は甘めにした紅茶で、飲むとほっとする。
説明もろくにしないで部屋にひっこんだから、きっとみんな心配しているだろう。
それは悪いと思うのだけど、このぐちゃぐちゃな気持ちが消化できるまでは、もう少し放っておいてほしい。
あとちょっとすれば、落ちつくところに着地するはずだ。
頭の中ではわかっているんだけど、認めたくないとか、感情がついていかないというか、とにかくぐるぐるしているのだ。
解消するためにも、この曲をきっちり弾きたい。……いや、違う、弾くべきだという思いは、徐々に強くなっている。
とはいえ、こればっかり弾いていると、しかめっつらのままになりそうだ。
午後も弾けるのだし、好きな曲も弾いておこう。わたしは譜面はそのままに、気にいりの曲を順々に弾いていく。
気持ちが揺れているせいか、簡単なミスを連発したりして、制御できない精神状態を自覚する。
それでも、好きな曲を弾いていれば、段々心も凪いでくる。
ひきこもりたいというわたしの意思を尊重してくれて、昼食も部屋に運ばれてきた。
フリーデさんはものいいたげにしてたけど、無理はしないでくださいとだけで、それ以上はなにも言わなかった。
この世界にきてからできたわたしの好物ばかりの献立は、いつもどおりにおいしくて。
感謝しながら全部食べて、わたしは再びピアノを弾く。
今度はなるべく平静でいられるように、思いついたことがうまくいくか、実験もしながら。
どこにいたって──世界が違ったって、ピアノさえあれば、わたしはわたしでいることができる。
その点では、本当に幸運だった。もしもピアノが存在しなかったら、わたしはとっくに駄目になっていただろう。
酷い目にあったけど、クヴァルト様にたすけてもらって、ここに迎えてもらって、使用人のみんなも優しくて。
そうして──クヴァルト様を、好きになって。
「……好きでいられるだけでいい、なんて、嘘だったなぁ」
演奏の切れ目に、こぼしてしまう。
嘘、というのは語弊があるかもしれないけど、段々欲張りになっていく。
家族扱いは嬉しいけど、保護者みたいなのじゃ嫌だとか、綺麗だと言われて、喜んでしまったりとか。
もっとそばにいたい、できれば明確な──恋人という関係として。
ピアノと恋人を天秤にかけていたころのわたしは、どこへ行ってしまったんだろうってくらいだ。
確信したのは──あの夢を見たせい。
もとの世界が恋しいのは本当だし、彼の姿を見て泣きたくなったのも事実だけど。
だけど彼の顔を見ても、当時の気持ちは湧いてこなくて。
起きて心細くなって、顔を見たいと思った相手はクヴァルト様だった。
その時点で、もう答えは出ていたんだ。
「あー……」
呻きながら、ピアノの端に頭を落とす。
帰りたい気持ちは今もある。だけど同時に、帰ったらクヴァルト様がいないことが嫌だとも感じている。
その証拠に、元彼である龍也の姿を見ても、全然ショックじゃなかった。
──これは、薄情なんだろうか、恋愛経験の少ないわたしには、よくわからない。
当時はあんなに、好きだったのに。
別れることになって、ピアノを弾くのが苦痛になるくらい、凹んだのに。
でも、今、二人の思い出の譜面を使ってやりたいことは、クヴァルト様のためだから……うん、やっぱり薄情かも。
だけど、感情は正直に思ってしまうのだから、しかたない。
何曲も弾いて、あまり賢くない頭で考えても、結論はさほど難しくない、シンプルなもの。
でもそれがわたしの中の本音なら、無視はできないし、スルーしようとも、もう思えなくて。
──どうにか、感情は着地してくれそうだ。
そして、いつもならクヴァルト様を出迎えるくらいの時間。
わたしがピアノ室を出ると、少ししてウェンデルさんがどこからともなく顔を出した。
多分、様子が伺えるところに控えていたんだろう。
そうやって見守られていることにも、いつのまにか気分の悪さを感じなくなった。
慣れはしないけど、身分の高いひとは、しかたがないんだって。……いや、わたしはあくまで一般人のつもりだけど。
お腹でも空きました? とのんきなウェンデルさんに、首をふってから口を開く。
「クヴァルト様を呼びたいので、先に行っていてもらえませんか?」
「旦那様ですね? 了解でーす」
怒るひとがいないからだろう、メイドにあるまじき軽いノリでうなずいて、先に行く。
走るわけでもないのに、あっというまに姿が見えなくなった。
無駄なことを聞かないでくれて、今のわたしには、そのほうがありがたい。
フリーデさんだったら顔から態度から、全身で心配してくるだろう。
わかるんだけど、正直、そうされると、こっちも申しわけなくて、どうしていいかわからなくなりそうで。
のんびり歩いて母屋へのドアを抜けたあたりで、こちらへ歩いてくるクヴァルト様が見えた。
気遣わしげな顔つきのクヴァルト様に、得意じゃないけど、大丈夫ですの意をこめて笑ってみせる。
……慣れないことをしたせいか、ますます心配げな顔をされた、失敗した。
あれこれ質問される前に、先手を打つことにする。
「聞いてほしい曲があるんですけど、お時間いただけますか?」
多分、ずっとひきこもっていると予想していたんだろう、意外そうに眉が上がる。
「それは、勿論……ですが……」
あとに続かない言葉。それより雄弁な表情。
ああやっぱりこのひとが好きだなあ、なんて、妙にのんきに実感してしまう。
嘘をつかないところも、いつも優しそうに見えるけど、実はそうでもないところも、ワーカホリックなところはいただけないけど、それだって嫌いではない。
「……大丈夫、ですから」
そっと囁いて、さあさあとピアノ室へ誘う。
大分外は暗いのだけど、敢えてカーテンは閉めていない。
今まで試したことがないから成功するか五分だけど、さっきの練習中には一応できたから、多分いけるはずだ。
枝はというと袋にしまって、ピアノから一番遠い棚に隠してある。これで、魔力は枝にいかないはずだ。
あとは、昼間の演奏で溜まった魔力が使えることを祈るしかない。
「演奏が終わったら外を見て、変化があったら、邸のみんなに伝えてもらっていいですか?」
ついてきたフリーデさんにお願いすると、不思議そうにしつつもわかりました、と言ってくれた。
この時間になると、大多数のひとは終業時間になっている。
料理人やら守衛やらと、主人、つまりクヴァルト様やわたしづきの何人かだけが仕事を続けるだけだ。
ちょっと使用人の棟までとどくか自信はないんだけど、母屋だけでもいければ、誰かが呼ぶだろう。
飾りのように置かれている譜面を見ることもなく、わたしは鍵盤に指を降ろした。




