感情と現実
さて、自覚したわたしではあるけれど、だからといってなにがあるわけでもなく、いつもどおりに挨拶をして、部屋にもどってきたわけで。
ベッドに置いていたぬいぐるみのルーを抱えて、やれやれと息をついた。
──好き、という感情自体は、最初のころからあった。
最悪の場所から救ってくれた紳士に、好意を持たない人間はあまりいないだろう。
しかもそれが特に太っているわけでも若すぎるわけでもないとなれば。
イケメンかと問われると、それはディディスさんのが上なので、言い切れないんだけど。
とにかく、だから前から、公爵様のことは好きではあった。
ではなにを認めたかといえば、その「好き」の中に、恋愛感情めいたものが存在していることを、だ。
だけどその好きという気持ちも、純粋な感情かと聞かれるとうなずけない。
……純粋な恋愛感情なんてもの、今時の女子高生にも存在しない気はするけど、それはさておき。
わたしの気持ちの中には、生まれたヒヨコが最初に見たものを親だと思う、すりこみみたいなものと、打算めいたものがある。
最初にたすけてくれたから、安心だという思いは、好意というよりすりこみのほうが近い気がするわけで。
クヴァルト様のことを好きなら、お世話になっててもいいじゃないかっていうのは、やっぱり打算っぽい。
……でも、そんなごちゃごちゃな感情でも、特に困りはしないんだよなぁ。
そもそもわたしは、この気持ちを告白する気がない。
だってクヴァルト様は結婚する気がないと明言しているのだから。
わたしが好きだと言ったところで、困らせるだけだし、むしろ迷惑になってしまうだろう。
追い出しはしないでくれると思うけど、ぎくしゃくするのは明らかだ。
できれば、長くそばにいたいので、出ていくのはごめんこうむりたい。
となれば黙っているのが一番いい方法だ。
報われないけれど、裏を返せば、クヴァルト様が妻を迎える可能性もないということで。
自覚したとはいえまだはっきりしない想いだけど、クヴァルト様が他の女性を邸に置いて、そのひとを特別扱いするのは……想像だけでも嫌な気分になるから、そういう未来がないのは大変ありがたい。
本人に結婚する気もなければ、わたしも、……今は、妻になんてなれるわけもないし。
公爵様の場合は、身分の高いひとの義務とも言える、子孫を残す、というしがらみが少ないけど、それでも……万一恋人だとか結婚相手となれば、そういう行為も混みになるだろう。
だけど……とてもじゃないけど、ソレがわたしにできるとは思えない。
ちょっと考えただけであいつらにされたことが蘇って、無意識にルーちゃんをきつく抱きしめる。
こんな状態じゃ、まともな奥さんになんて、なれるはずがない。いや、そもそもそんな未来ないんだけど、ついつい考えちゃうのはそういう時のお約束というやつで。
……うーん、冷静なつもりでいても、やっぱり色々混乱してるな。
自覚のきっかけはクヴァルト様の「好きに弾く姿がよかった」って言葉なんだけど……
つまり、クヴァルト様は、わたしの演奏を大分気にいってくれているわけで。わりと奇行も混みで。
それなら、少なくとも当分の間は、ただの居候として、ここにいてもいいだろう。
寄生している状態はやっぱり気になるので、はやくなにかしらの方法でお金を稼ぎたいけど……頼みの綱の演奏ができないと、どうしたものかなぁ。
正直、他の技術はないし、とりたてて頭がいいわけでもないし。
でもクヴァルト様に言っても無駄っぽいから、恥を忍んでにフラウさんに相談かなぁ……
頭の中もごちゃついているし、いつのまにか時間もずいぶん経っていた。
朝寝坊したら、絶対心配をかけてしまう。わたしは急いでベッドにもぐりこんだ。
「……お金を稼ぐ……ですか」
「はい、下世話な話で申し訳ないんですけど」
翌日、早速持ちかけると、フラウさんは驚いた顔をした。
「いえ、下世話だとかは思いませんが……」
言葉を紡ぎながら、手にしていた書類をめくりはじめる。
なにかと覗きこむと、神子に関する記述がたくさん目に入ってきた。
どうやら授業が決まった時に、クヴァルト様から渡されたらしい。
授業の道筋も立てやすくなるだろうから、ということだったそうで、細かな気遣いに感心する。
フラウさんはすごい速度でページをめくり、ここです、と示してみせた。
「……年金?」
自動翻訳にはそう書かれていた。
そこを読んでみると、神子として働いている間は生活の万事を神殿が。さらに仕事を降りたあとは、年金的なものが死ぬまで支給されるのが普通らしい。
異世界から召還したのだから、せめて生活に困らないようにとの配慮なのだそうだ。
「でも、クヴァルト様はそんなこと言ってませんでした」
ピアノの代金やらは国王側が払ったし、それはいわゆる慰謝料みたいなものらしいし。
今のわたしの生活費は……多分領主である公爵様が出しているんだろう。
邸の生活費とまとめてだろうから、執事頭たちは勿論把握しているはずだから、確認すれば一発だ。
フラウさんはてっきり年金をもらっていると思っていたらしく、道理で会話にズレがあったわけだ。
わたしがお金を気にしているのは、クヴァルト様も知っているから、年金をもらっているなら教えてくれるはず。
それがない、ということは……
「……多分、わたしが途中で辞めたからじゃないですかね」
責務を果たしていない神子な上に、やつらから逃げてきたのだから、あいつらがお金を出したくないのも当たり前だ。
国王側もそういう部分は指摘しづらいだろうし、迂闊に揉めるよりはと、ポケットマネーでピアノを用意したんだろう。
わたしの言葉に、フラウさんも納得したらしいが、同時に眉をひそめて怒りをあらわにした。
「でも、それだって悪いのは神殿でしょうに。納得がいきません」
……まあ、慰謝料だって本来あいつらからふんだくりたいところだけど。
でも、もとを正せばやつらの資金源は喜捨、つまり寄付なわけで。
それをわたしがもらうのは、ちょっとなぁというのが正直なところだ。
実際、ちゃんと仕事ができていないのは事実だし、働いていないのに給料をよこせというのは、流石にどうかって話だ。
まあ、望んでついた仕事じゃないから、ちょっと微妙なところだけど……
フラウさんも色々考えてはくれたけれど、トラウマ持ちで、この世界の人間でなく、魔力を自分で使えないとなると、かなり厳しいでしょうとのこと。
それになにをするにせよ、クヴァルト様の許可は絶対に必要なわけで。
……そうだよなぁ、外に仕事に行くとしても、働いているひとたちに知られずってわけにはいかないし、口止めを頼んでも、かれらはわたしに仕えているわけじゃないから無駄だし。
でも、今までに何度かその手の話をふっても、みんなスルーされたからなぁ……
先行きに不安なものしか感じなくて、わたしは重たいため息をついてしまった。




