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必要な事柄(3)

「……眠そうですね」

 朝食の席でクヴァルト様に言われてしまう。

 色々考えてたせいで、あんまり眠った気がしない。

「午後は休んでもいいのでは?」

「……そうですね」

 他のひとが仕事をしているのに、昼寝もどうかと思いつつ、眠いのは事実なのでうなずく。

 すると、おや、とクヴァルト様が眉を上げて、それから心配げに見つめてきた。

「あなたがピアノの練習より睡眠をとるとは、よほどですね」

 ……その判断基準はどうなのかと、つっこめない自分が悲しい。

 今ピアノにむかうと色々考えちゃいそうだし……人払いしてからじゃなきゃ、恐くて弾けそうにない。

 でも、早く能力を解明しなければ、いつまでもその不安はつきまとう。

 そういう意味では、ピアノを弾くべきなんだろうけど……

「でも、コーヒー飲んだら大分目が覚めました、とりあえず大丈夫です」

 なにせこれから大事な署名が待っているのだ。

 ただでさえ上手じゃない字なのだから、ぼんやりしてさらに酷くはしたくない。

 敢えて砂糖を入れずに飲んだコーヒーはかなり苦かったけど、おかげで頭はすっきりした。


 その後、フラウさんとほぼ同時刻に使者がやってきて、四人で書斎に移る。

 執事頭のメサルズさんと、クヴァルト様の側仕えのジャンさんが待っていた。

 その二人とフラウさんが、一応見届け人というかになるらしい。

 ただ、二人は邸の人間なので、だめ押しでフラウさんもいるわけだ。

 使者のひとが恭しくさしだしてきた書類には、わたしがクヴァルト様の庇護下に入ることを了承する旨の文言が書かれている。

 その一番下に、クヴァルト様のサインと、わたしのを続けて、国王の承認が得られれば、公の立場は一応安定する。

 流石に緊張しながら、わたしは必死に覚えたこの世界の文字で、自分の名前を書く。

 すぐ上には綺麗な字でクヴァルト様のサインがあるから、なおさらだ。

 筆記体みたいなその字は、流石に書き慣れていて、きっと仕事でもたくさん署名しているんだろう。

 羽根ペンにインクを含ませて、ゆっくり字を書いていく。

 自動翻訳されていく文字は、たしかにわたしの名前なのだけど、とても違和感がある。

 この気持ちがなくなる日はいつになるんだろうか、なんて、最後の単語を綴りながら考えてしまう。

 その下には、漢字でも名前を書いておく、本人の意思だと示すためだ。

「……はい、たしかに。ありがとうございます」

 検分した使者がうなずいてくれて、ほっと息をついた。

 それから、わざと首につけていたペンダントを外し、用意しておいた綺麗なハンカチの上に載せる。

「あとは、これを。わたしがこの世界にきた時身につけていたものです」

 ト音記号のネックレスには、下の部分に小さな白い石が填まっている。

 あいつらはわたしが召喚された時、その姿を詳細に記録していた。

 服装などもそうで、だから、このペンダントも記述されている。

 やつらがごねた時のために、これを証拠として渡しておこうと考えついたのだ。

 そこまで言わないかもしれないけど、可能性はすべて潰しておきたいし、できることはやっておきたい。

 わざわざ首につけていたのも、もらいものではなく、わたしの持ち物だと使者にアピールするためだ。

「わかりました、お預かりします」

 使者は丁寧にハンカチを受けとり、紛失しないよう万全の注意を払います、と約束してくれた。

 とりあえずこれで署名は終わったので、使者はすぐに出立すると出ていった。

 遅くなったけど、クヴァルト様も仕事に行く。

「行ってらっしゃい、遅くなってすみませんって、わたしが謝っていたって伝えてください」

 部下のみんなが大変だろうから、挨拶につけ加えておく。

 クヴァルト様はわかりましたと相づちを打ちつつも、どこか浮かない顔だ。

 なにか問題でもあったっけ?

「……あなたは無理をしないようにしてくださいね。では、行ってきます」

 結局いつもどおり過保護な言葉を残して、馬車に乗ってしまった。

 なんだったんだろうと不思議がりつつ、フラウさんが待っているので部屋にもどる。

 書きとりも続けなきゃいけないし、この領地のこととか、覚えることはまだまだある。

 年が明けたら新年のお祭りがあるので、そのくらいに領民に挨拶もしなきゃいけないらしい。

 大変だけど、ちゃんとみんなに迎えてもらいたい気持ちもある。

 今は噂のおかげで静かに暮らしているけれど、異世界からきた神子なんて、みんな見てみたいに決まってる。

 信仰が根づいている国ならなおさらだ。

 その時のために、恥ずかしくないふるまいも身につけなければいけない。

 やることは山積みだけど、なにもないと余計なことを考えてしまいそうだから、ちょうどいいかもしれない。

 わたしはフラウさんの話に、真剣に耳を傾けた。


 昼食が終わり、フラウさんが帰ったあと、わたしは眠気に耐えきれずに昼寝してしまった。

 贅沢すぎると頑張ろうとしたんだけど、フリーデさんとアディさんの波状攻撃に負けたのだ。

 フラウさんとの授業中は眠気なんて感じなかったのだけど、集中したせいか、お腹いっぱいになったらがくっときたのだ。

 一時間ほど床に用意した素足スペースで眠ったら、我慢できない眠気は飛んでくれた。

 それからぐしゃぐしゃになった身なりを整えて、庭を散歩する。

 顔なじみになったおじいさんに今日の分の花をもらって、ご機嫌でピアノ室へむかった。

 最近は邸をぐるっと遠回りしてから、ピアノ室へむかうのが散歩ルートになっている。

 これでも歩数的には少ないのだろうけど、まあ、しないよりいいはずだ。

 フリーデさんに花を生けてもらって、机の上に置くと、そこからは席を外してもらう。

 練習中の音を聞かれたくないというよりは、魔力が変に流れてしまうのを防ぐためだ。

 本当は誰かいたほうが、どういう効果が出ているかわかっていいのだろうけど、なにが起きるか不安なので、実験みたいなことはしたくない。

 クヴァルト様にするのも、本当は嫌なんだけど……適任者という意味では、あのひとが一番なのも事実だ。

 他のひとだと、わたしに遠慮する可能性がある。

 まあウェンデルさんあたりだと、不敬だとか気にしないかもだけど、でも、立場的には彼女のほうが下なわけで。

 その点クヴァルト様は嘘をつかない信条でもあるから、どんな効果が出ても、ちゃんと口にしてくれる。

 それがわたしが凹むことであってもだ。


 でもとりあえず今は、好きな曲を練習しよう。

 悩んで弾けなくなってしまったら本末転倒だ。

 わたしはピアノでひとを不幸にしたいなんて思ったことはない。

 どちらかといえば逆で、ちょっとほっとしてくれたらいいとか、わたしが弾いていて楽しい気持ちをわけたいとか、そういうもので。

 精神論だけど、そういう気持ちを持ったままでいれば、そんなに悪い方向には作用しない……んじゃないかなと。

 考えなきゃいけないことは色々あるけど、でも、今はとにかく曲を弾きたい。

 ずっと弾けなかった分、弾きたい曲はたくさんある。

 バインダーから書き写した分でも、まださわれていないものがあるのだ。

 クヴァルト様が帰ってくるまで、そんなに時間もない。

 かぎられた時間を悩んで減らすなんて勿体ない、わたしはとにかく練習を続けた。

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