必要な事柄
「あの、クヴァルト様」
てんやわんやの休日から一夜明けて。
いつもどおり見送るところで、おずおず声をかける。
外套を着た姿で続きを待つ姿に、朝から言えずにいたことを口にした。
「フラウさんにも、知らせていいですか」
なにを、とは言わないけど、わかってもらえるはずだ。
知る人間は少ないほうがいい、と話した直後に、人数を増やす真似だ。
本当はよくない、でも──黙ったままでいるのも心苦しい。
それに、今後のことを考えると、彼女に知らせて、手伝ってもらうほうがたすかる気がする。
クヴァルト様はいくらか予想済みだったのか、表情も変えずにいいですよとうなずいた。
ちょっと拍子抜けするくらいに、あっさりと。
「あなたが決めたことなら、構いませんよ」
「……ありがとうございます」
優しい言葉である一方、責任もちゃんととらなきゃいけない重い言葉だ。
でも、なんでもかんでも甘えるわけにはいかない。
自分のことなのだし、もとの世界に帰れない以上、ここで生きていく地盤を固めなきゃならない。
そのために、あまり得意じゃないけど、わたしだって少しは考えたのだ。
クヴァルト様を見送ってすぐ、フラウさんがやってくる。
出迎えたわたしの表情がいつもと違ったからだろう、不思議そうに首をかしげながらおはようございますと挨拶してきた。
「おはようございます。あの、勉強の前に少し、お時間をいただけますか?」
「え? ええ、いいですけど……」
「一曲、披露させてもらいたくて」
演奏のことだと知ると、フラウさんはぱっと表情を明るくした。
それなら大歓迎です、と微笑む彼女にちょっと申しわけない気を持ちつつ、別棟へ案内した。
椅子に腰かけてもらい、わたしは鍵盤にむかう。
曲は何度も弾いている月の曲だ、フランさんははじめてだから、いいだろうと思った。
弾く前に、お礼の気持ちが通じるように、魔力が……流れるようにと念じておく。
何度か演奏しているし、練習の甲斐もあって、慣れた曲は大分指が楽に動くようになった。
力を抜く、というと語弊があるけど、完璧に弾くことに夢中になると、情感がおろそかになってしまう。
その点、今回は気持ちをこめて弾く余裕ができた。
そうなると、魔力も流れていそうだけど……弾き終わって様子を窺うと、明らかに驚いた顔をしていた。
「セッカさん、これは……魔力?」
「そう、らしいです。なにせわたしには自覚がないので、断言できないんですけど」
やっぱり魔力が渡っていたらしい。
わたしのふわっとした答えでも、彼女は納得してくれたらしい。
「どうやらこれがわたしの能力みたいで。でも、前例がないので、調べようとしているところです」
「そうですね……私もこういう形での魔力の伝達は聞いたことがありません」
話をするのにピアノ室は使いづらいので、自室へもどって再開する。
「あまり知られたらまずいので、当分は他言無用でお願いします」
わたしのお願いに、そうでしょうねとうなずくフラウさんは真剣な顔だ。
「今は他国との争いもほとんどありませんけれど、情勢が危ういころだったら、まず利用される力ですからね」
やっぱりその可能性を考えたらしい。
そんなに便利なのか……ピアノがないと発動しないって意味では、不便なところもあるけど。
でも、危険視してくれるなら、この先のお願いもしやすい。
「それで、今日の授業なんですけど、その前にやりたいことがあるんです」
勉強に関連したことではあるし、いずれはと話していたことだから、問題はないはずだ。
わたしは昨日考えたことを、フラウさんに伝えはじめた──
そして夕方、世界がオレンジから紺色へ変わるころ。
大体いつもどおりの時間に、クヴァルト様が帰ってきた。
午後は約束どおり散歩をしてからピアノの練習をした、歩数計が欲しいと思うところだけど、スマホはとっくに充電切れだ。
魔力を流したら使えるようになるんじゃないかと思っていて、そういう意味でも自分で使えるようになりたい。
スマホには大量のピアノ音源のデータが入っているし、タブレットには電子版の楽譜が入っている。
実際使うには紙だけど、持ち運びという意味ではやっぱりデータのほうが便利なわけで。
あれが読めるようになれば、相当数が弾けるようになるわけで……
わたしの広がった想像は、ドアの音で打ち切られた。
慌てて頬を軽くはたき、クヴァルト様を出迎える。
「ただいま帰りました」
にこりと微笑む姿は、まあ大体いつも笑顔だからわかりにくいけど、そんなに疲れてはなさそうだ。
大変な仕事とかもなかったんだろう、多分。
見るからに疲れてそうだったら、やめようかと思ってたんだけど、これなら大丈夫かな。
「お帰りなさい、クヴァルト様」
大分慣れてきたやりとりは、でも、なんだかくすぐったい。
「今日はあなたの演奏をお願いしても?」
「あ……それなんですけど」
クヴァルト様からリクエストとあれば、何曲でもこたえたいところだけど、ならなおさら用事をすませておきたい。
「その前にお話? というかがあって、書斎お借りできますか?」
話、なのか提案、なのかお願いなのか、よくわからないのであやふやだけど。
少し不思議そうにしつつも、クヴァルト様はすなおに書斎へ案内してくれる。
貴族の書斎は、食後に男性の語らう場所みたいな意味合いもあるそうだけど、クヴァルト様は本来の意味で使ってばかりらしい。
ちゃんと実用的な、でも、何代か前からのものだという装飾も立派な机には、いくつかの書類が載っている。
その机の上に、わたしは手にしていた手紙を置いた。
「あの、これ、フラウさんに添削してもらって書いたので、大丈夫だとは思うんですけど……」
「手紙……ですか?」
検分してください、と続けると、クヴァルト様が中を開く。
「……これは」
目を見開いて、素早く中身を読んでいく。
何度も見返したし、文字も練習したから、そうみっともないことにはなってないはずだ。
「あと、サインも書けるようになりました。……これで、署名もできます」
クヴァルト様はわたしに無理をさせたくなくてだろうけど、急かすことはしていない。
でも、フラウさんから話を聞いて、執事頭のメサルズさんたちに確認もとって、わたしなりに考えたのだ。
手紙は王妃様へ宛てたもので、まずは色々な配慮へのお礼。
そして、クヴァルト様にも感謝しているし、ここでの暮らしに満足しているので、問題がなければここにいたいということ。
魔力が原因で色々あったから、自分の魔力を察知できるようなりたいので、情報があれば欲しいこと。
トラウマのような症状が出ているので、王都へはしばらく伺えないことのお詫び。
それらを書いて、最後に練習したわたしのサインと、もとの世界でのわたしの名前──橘 雪花と添えた。
あそこにいた時、わたしは字を覚えさせてもらえなかったから、サインなども一切していない。
でも、今こうしてクヴァルト様の庇護下にいる状況だと、本当はそういうことに了承するサインがいるのだという。
なにか起きた時は、それが強みにもなるし、逆にクヴァルト様に責任がいくことにもなる。
この世界は行政もわりとしっかり機能しているらしく、そういった書類もちゃんと存在している。
つまり、なにも署名していないわたしの現状は、とても不安定なのだ。
やつらがわたしを返せと言ってこないのは、ここが王都ではないからと、多分王宮が止めているから。
だけどその王宮も、わたしの能力を知れば王宮にこいと招集するかもしれない。
手紙ひとつじゃ抑止力にはならないけれど、少なくとも周囲にわたしの意思は伝えられる。
それに加えて、公爵様を身元引受人としてサインしておけば、とりあえずやつらがごねにくくはなるはずだ。
わたしにできることは小さなことだけど、それでも、しておいたほうがいいに決まっている。
「サインもちゃんと書けますから、書類、あるんですよね? 署名します」
「──メサルズが話したんですね?」
まったく、と呟くが、執事頭は悪くない。
「わたしが聞いたんです、叱らないでくださいね」
フラウさんから世界の常識を聞いて、本も読んで、出した結論から問いただしたのだ。
メサルズさんも、主人であるクヴァルト様のためにとあっさり喋ってくれた。
いくら噂を広めていても、ちゃんとした証拠がなければ、指摘された時に困るのだから。
ただし、問題は、いきなりこれがわたしのサインですと書いて出しても、信用されない可能性だ。
王妃たちの前で書くのが一番いいのだけど、王都に行きたくないので、それはできない。
それも考えて、その結果が、もとの世界の名前を表記することだ。
「わたしの世界の文字を書けるのは、同じ神子くらいだと思います」
もしかしたら情報としては伝わっているかもしれないけど、漢字の、しかもわたしの名前まではないだろう。
ありがちな名前ではあるけど、同姓同名が呼ばれるとか、そんなこともないだろうし。
「そうですね……わかりました、明日の早朝、使者を呼びましょう」
場所柄もあって、王都への連絡係というのが、ちゃんと常駐しているらしい。
そのひとを呼んで、使者が見ている前で署名することで、たしかに本人が自分の意思で書いた、と確認してもらう。
あらかじめ書いておいたのを渡しては、強要されたり偽造された可能性が否定できないからだ。
そこにだめ押しで同じ筆跡の王妃への手紙を渡せば、まず信じてもらえるだろう。
「クヴァルト様から見れば、わたしは頼りないかもしれませんけど……」
なにせ十も年下だし、正直もとの世界でもピアノにかまけて常識に疎い部分もあった。
だけど、役立たずでいたいわけじゃないし、守られっぱなしでいたいわけでもない。
そこはちゃんとわかってほしい。──対等は、ちょっとおこがましいけれど。
「でも、ちゃんと言ってください。頑張りますから」
目の前の群青色の瞳を見つめて、はっきり言うと、クヴァルト様はまぶしそうに目を細めた。
それから、本当に嬉しそうに笑って、ありがとうございます、と言った。




