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月を重ねて

 ふーっと長く息をついて、クヴァルト様の反応がないことに気づく。

 横を見ると、演奏前の状態と同じく、椅子にすわっていた。

 その表情は、なんだかひどく驚いているみたいで。

「あ……あの、クヴァルト様?」

 そんなに変な演奏だっただろうか。不安になって声をかけると、はっと身じろぎして、それから大きな拍手をくれた。

「すみません、あまりに素晴らしい演奏だったので」

 そう言ってもらえるのは嬉しいけれど、わたしより上手な奏者を知っているので、額面通りに受けとることはできない。

 微妙な顔をしていたのだろう、クヴァルト様は表情を少し改めた。


「たしかに、あなたより巧い演奏者もいるでしょう。ですが……あなたの演奏は、とても、楽しそうでしたよ」


『──きみはいつも、とても楽しそうに弾くよね』


 ……そう、昔も同じことを言われた。

 悲壮な曲を弾く時までそう見えるのはどうかと思ったら、そういう時は鬼気迫る感じらしい。

 鏡で見るわけにもいかないから、本当か知らないけど。


「だから、聞いていてとても心地よかったですよ、それは間違いなくあなたの才能でしょう」

「……ありがとうございます」

 面はゆくなって、口ごもりながら礼を告げる。

 けれど次にはクヴァルト様は心配げな顔つきになった。

「ですが、長い曲でしたから、疲れてはいませんか?」

 いつもながら心配性らしい言葉に、ちょっと笑ってしまった。

 午後はほとんど休み無く練習しているのだから、これくらいで疲れたなんてあるわけない。

 ……と正直に教えると練習時間を削られそうなので黙っておく。

「大丈夫ですよ、むしろ、うまく弾けたからまだまだ元気です」

 もう何曲か弾けそうなくらいだ。

 力こぶをつくる真似をして微笑むと、つられたように笑みをこぼす。

「……では、アンコールを、お願いできますか?」

 厚かましいですがと恐縮されるけど、わたしにとってはとても嬉しい申し出だ。

 勿論です! と快諾して、さて、なににしようか考える。

 実はそこまで決めてなかったんだよなぁ。

 弾きたい曲はあるのだけど、弾けるかどうかがちょっと怪しい。

 練習はしていたとはいえ、あれはちょっと速すぎて、まだ納得できていない。

 となると……これも難しいんだけど、多分なんとかなる。

「──じゃあ、もう一曲、月の光を」


 この曲は、いや、どの曲もそうだけど、特に出だしが肝心だ。

 静かに、柔らかく、ゆっくりなんだけど、遅すぎると感じないように。

 名前のとおりの月の光の下で、眠るように物思いにふけるように。

 空からきらきらした雫が落ちてくるみたいに。


 こちらの曲も本当は四楽章からなるのだけど、流石に全部は厳しいので、三楽章だけ。

 だから、五分くらいで曲は終わる。


 曲が終わると、部屋はひっそりと静かになる。

 その静寂を払うように、大きくないが熱のこもった拍手が響いた。


「素晴らしい演奏をありがとうございます」

 クヴァルト様の笑顔は、本当にそう思っているらしく、少なくとも喜んでもらえたことにほっとする。

 とはいえ、ここでのんびりもしていられない。

 そろそろ料理長が痺れを切らすか、メイド長のアディさんがしかりにくるかもしれない。

 一曲のつもりが長引いちゃったから、わたしたちは急いで母屋にもどる。

 少し遅くなっちゃったけど、みんな文句は言わず、すぐさま暖かい料理が運ばれてきた。

 興奮冷めやらぬわたしは、達成感もあり、いつもの食事がなおさらおいしくて、珍しくおかわりまでしてしまった。

 ドレスを汚さないよう気をつけながらだったので、食事が終わったのは、いつもより遅い時間だった。


「疲れていませんか?」

 食休みにと部屋を移ってから、心配そうに体調を窺われる。

 調子が悪いならすぐ部屋にもどっても、と言うクヴァルト様に、大丈夫ですよと笑ってみせた。

「元気ですから平気ですよ」

 本当に心配性だなぁとのんきに思いながら、食後のお茶を飲む。

「力の入った演奏でしたからね。命を賭けて臨んだ演奏会などと聞いたことがありましたが、事実なのだと思い知りましたよ」

 こっちの世界にもそういうひとがいるのか。

 体調が悪なっても、最期まで演奏し続けていたいと願う演奏家は多い。

 多分それは演奏家だけじゃなく、表現に携わるものはみんなそうだろう。

「だって、わたしたちはそれ以外に、自分を表現するものを知りませんから」

 表現というか、存在意義というと大袈裟かもしれないけれど。

 わたしの場合は演奏していなければ、ただのダメ人間だ。生活能力もまるでないし。

 だけど、ピアノを弾いている時は違う。その瞬間が得たくて、ピアノを弾いているのかもしれない。

 そして表現に満足する日はこない、もっと巧みに、もっと感情をこめて──きっと一生求め続ける。

「……それは、私も似たようなものかもしれませんね」

 ぽつりと呟いたクヴァルト様は、なんだか痛みをこらえるような顔をしていた。

 似たような、って、なんだろう。なに以外に自分を表せないと思っているんだろう?

 クヴァルト様はわたしよりよっぽどちゃんとしてるのに……

「──そうそう、聞きたいことがあったのですが」

 だけど、問いかけるより先に、あからさまに話題をそらされた。

 これ以上追求するなってことだろう、知りたくはあるけど、しかたがない。

「なんですか?」

 だからすなおに問いかけを返すと、

「どうして二曲とも、月にちなんだものだったんですか?」

 いつもより少し早口は、多分、気持ちのあらわれなんだろう。

 そうだ、その説明は後回しにするつもりで、放っておいたんだった。

 でも日本語のない世界で説明するのはなかなか難しい……ええと。

「わたしの国では、雪と月と花という三種をまとめて、美しいものの組み合わせとする考えがあるんです」

 大体花は桜らしいけど、この世界にあるかわからないので置いておく。

「それでわたしの名前、セッカは、その中の雪と花って意味なんです」

 生まれたのが冬で、雪が降っていたからの連想らしい。

 ずいぶんと雅な名前をつけたものだと思ったけど、きらきらした名前よりは断然いい。

 名前負けしてるなぁって気もするけど。

「それで、最初のピアノの先生が、じゃあ月の名前が入っている曲を弾けば、完璧ねって言って」

 選んで持ってきてくれた楽譜が、さっきの二曲だったわけだ。

 だからあの二曲は、ピアノをはじめたばかりのころのわたしにとっての目標曲で、その後はどれだけはじめてのころより巧くなったかを確認できるもので(はじめての演奏は両親が録画していたのだ)別格の曲だ。

「なるほど、あなたのためにあるような曲ですね」

「……それはちょっと言い過ぎだと思いますけど……」

 どちらもとても有名で、発表会の定番だし、色々な場面で使われたりアレンジされている。

 曲名を知らなくても、聞いたことがあるひとがほとんどだろう。

「ですが……少なくとも今は、あなただけの曲でしょう」

 少し言いづらそうに、でもはっきり告げられた科白に、ああ、そうかと思い至る。

 もしかしたら過去の神子が伝えた可能性はあるけれど、それはとても低い確率だ。

 従って「この世界」でこの曲を知っていて、なおかつ弾けるのは、今はわたししかいない。

 楽聖と評されたベートーヴェンの曲を独占しているなんて、とんでもないことだけど。

「それはちょっと優越感がありますけど、でも、どうせなら色々な演奏を聞いてみたいですね」

 わたしの演奏はわたしだけのもので、解釈はそれぞれだ。

 この世界の演奏者が、どんな判断をくだすのか、正直興味もある。

 正直に告げると、欲がないですねと笑われたけど、逆に欲の塊なんだけどなぁ。

 自分で演奏するのも好きだけど、みんなにも好きになってほしい。

 でもわたし一人では無理があるから、広がるものなら広がっていけばいい。

 そう考えると、神子がピアノ好きと吹聴してブームを起こすのもありかもしれない。

「まあ、あなたの世界の楽譜を今後広めるかどうかは、検討することにして」

 印刷するのなんのとなると、色々面倒だろうから、すぐとはいかないだろう。

 忘れはしないと断言されただけでもいいほうだ。

「目先のことを決めましょう。──明日も演奏をお願いできませんか?」

 ドビュッシー「ベルガマスク組曲」より 第3曲 「月の光」


 この曲だけが有名ですが、本文にあるとおり本来は四楽章あるうちのひとつです。

 とはいえ楽章全部を弾かずに一楽章だけとりあげるのはままあることです。

 月光ソナタも、趣味で弾いている場合は全部弾けないことも多いかなと。

 私も第一楽章しかやりませんでした。技術的に無理だったんです。

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