月光のソナタ
そんなこんなで日々が過ぎ、夕暮れ間近の時間。
不調は一日だけだったので、昨日今日の午前中は普通に授業があった。
ようやく名前が書けるようになってきて、進歩が嬉しい。
まだ子供が書いたような字なんだけど……いずれ慣れるはずだ。
文章を考えて、ひとまず簡単なお礼状だけ先に書く予定になっている。
休みを挟んだあとは、フラウさんとそれをはじめるつもりだ。
楽譜の複写の枚数を減らして、書きとりをしているから、王妃様に笑われることはないといいなぁ。
で、いつもどおりの練習をして、──うん、と一人うなずく。
やっと、満足いくまでに到達した。
勿論まだまだ上を目指せばキリがないけれど、以前と同じくらいにはもどったと思う。
結局ぎりぎりになってしまったけど、おかげで納得できるものになった。
正直、今すぐ聞いてほしいくらいだ。この機を逃したら、今の感覚がどこかへいってしまいそう。
本当は明日の休みの日にと思ってたけど──
「フリーデさん」
「セッカ様? 練習中にどうされました?」
本館へもどってフリーデさんを呼ぶと、体調でも悪いのかとものすごく心配された。
彼女を呼んでくれた別のメイドも同じことを言っていて、……順調にわたしの評価はピアノ馬鹿になっている模様、否定できない。
「ええと……ちょっとお願いがあるんですけど」
必要もないのにひそひそ話をすると、案外ノリのいいフリーデさんは耳をかしてくれた。
お願い自体はさして難しいことじゃないので、内容を聞いた彼女は、お任せください、と太鼓判を押してくれる。
じゃあ、とわたしたちは早速階段へむかうことにした。
なにせ時間はあまりない、のんびりしていたら、クヴァルト様が帰ってきてしまう。
「もう何人か、手伝いを呼んでもいいですか?」
「はい、お願いします」
フリーデさんは途中で会ったひとに声をかけて、部屋にはもう二人の女性が増えた。
二人とも普段は他の用事をしているけれど、とある分野に置いてはこの邸でトップクラスの実力者らしい。
二人がわたしを見る目は、獲物を見つけた時のそれっぽくて……
「……お、お手柔らかにお願いします」
多分無理だろうけどそうお願いしておいた。
夕暮れ時の邸の中、はしたなくない程度に急いで階段を降りる。
裾を踏んづけそうなので、裾を持っているのだけど、こうしているとお姫様になった気分だ。
こんなに急いでいるのは勿論理由がある。
思ったより支度に時間がかかってしまって、クヴァルト様が帰ってきてしまったのだ。
馬車が見えました! と言われた時にはほとんど準備できていたので、こうして慌てているというわけだ。
「お、お帰りなさい!」
ドアを開けてコートを預けているところに、どうにか滑りこむ。
息を切らしているわたしに、クヴァルト様は不思議そうな顔をむけて、それから絶句した。
……や、やっぱりちょっとはしたなすぎただろうか。
深窓のご令嬢はダッシュしたりしないだろうし……
「その格好は、どうしたんですか?」
「あ、そっちでしたか」
「そっち……?」
いけない、つい口に出してた。
まあ、クヴァルト様が驚くのも無理はない。
普段はお母様の残していった、地味めのドレスばかりを着て、化粧も装飾品もつけず、髪の毛も邪魔にならないようゆるく結っているだけだ。
先日のお出かけの時には流石にそうではなかったけど、それでも化粧は最低限だったし、髪の毛もちょっと飾りをつけたくらい。
そんなわたしが、今は新しく買ってもらったドレスを着て、髪の毛も結い上げ、化粧をしているのだから、びっくりするのも当然だろう。
ドレスは深い紺色のシンプルな形だけど、裾に行くに従って濃い色のグラデーションになっていて、派手すぎない程度にきらきら光る糸が縫いこまれている。
胸元が素っ気ないのでと、問答の結果一粒だけ宝石のついたネックレスを発掘してもらい(どれもこれもじゃらじゃらしていて探すのが大変だった)似た石でできたイヤリングもつけている。
髪の毛はお団子にしてあり、あちこちにピンでパールの飾りが挿してある。
化粧は必死に抵抗したのでそこまで派手にはなっていない、至近距離だし踊るわけじゃないから、普通でいいとお願いしたのだ。
しかし、あんなにたくさんある化粧道具を、迷いなく選んで顔にはたいていく彼女らは、本当に凄かった……
そんなこんなでできあがったわたしの姿は、まあ、そこそこ見られるものだと思う。
「いえ、その……変ですか?」
みんな褒めてはくれたけど、女性の視点と男性のそれは違う。
ちょっと不安になって問いかけると、にこりと微笑まれた。
「とてもよくお似合いですよ」
よかった、お世辞であったとしても嬉しい。
「ですが、どうしていきなり?」
今日はフルコースの練習でもするんですかと不思議そうなクヴァルト様に、当初の目的を思い出す。
と同時に、そうかそういう時はこういう格好で食べるのか……とちょっと憂鬱になったけど。
「ええと、夕食の前に、少しお時間をいただけますか?」
料理長には根回しずみだから、実はまだ夕食は仕上がっていない。
寸前で止めておくように頼んであるのだ。
もし嫌だと言われたらあきらめるけど、きっと許してくれると思っている。
「それは構いませんが……」
案の定、わたしに甘いクヴァルト様は許可してくれたけど、わけがわからないといった顔だ。
今朝の段階ではなにも言わなかったから、それも無理はないけど。
わたしは、こほんと一つ咳払いして、もったいつけてお辞儀をする。
「クヴァルト様を、わたしの演奏会に、ご招待したいんです」
観客は一人だけだし、会場はいつもの部屋だけど。
頭を上げて様子を窺うと、ようやく納得したらしく、笑いながら同じように礼を返してくれた。
「それは光栄ですね、ありがたく招待されます」
「ありがとうございます!」
わたしは早速、別棟へとクヴァルト様を案内する。
ピアノの部屋に入るのは、これが二度目のはずだ。
最初の日に駆けつけて以来は、わたしもきちんと出迎えに行ってる。
それ以外の時も、クヴァルト様は気を遣ってくれているらしく、覗くようなことはしていない。
部屋には、着替えている間に置いてもらった椅子が新たに追加されている。
今日はとりあえず一人しか招かないので、一脚だけだ。
そこにすわってもらうと、わたしはピアノの椅子に腰かける。
「手が慣れているもののほうが弾きやすいので、わたしの世界の曲になります。──曲名は、月光ソナタ」
もっとも、この題名は本人がつけたものじゃないそうだけど。
それでもわたしが気にいっているのは、題名のせいもあるので、一応教えておく。
他の情報は伝えない、前情報なんてなくたって、音楽は楽しめるものだ。
すぅ、と深呼吸をひとつして、静かに手を降ろす。
第一楽章のはじまりは、ひたすらに静かに。
夜の隙間から覗く月の光のような。
微かな、けれど忘れられない色が浮かぶように。
第二楽章は打って変わって鮮やかに、明るく、軽やかに。
真昼の月のように、でもどこか狂乱が潜むような。
月の美しさに我を忘れてはしゃぐみたいに。
第三楽章は激しく、力強く。
静けさと明るさを越えて、新しいような、けれど同じものであるような。
変化する人々の気持ちを表すみたいに。
二十分弱の演奏時間は、長いか短いか、わたしにはよくわからない。
弾いている身にとっては、あっというまだから。
ただ、この曲を通して、一応わたしも整理がついてきたし、元気になってきたと、伝えたかった。
そして、少しでもお礼になればいい、と。
……曲が終わり、指を離す。
目立った失敗もなく、文句のないできばえだったと自画自賛できる。
今のわたしにできる一番の演奏だった。
ベートーヴェン「ピアノソナタ第14番」嬰ハ短調 作品27-2
彼自身による名前は「幻想曲風ソナタ」
通称「月光ソナタ」
言わずと知れたベートーヴェンです。
奏者によって印象が変わりますので、
試しに何人かのかたの演奏を聞いてみると楽しいと思います。
ちなみに私はバックハウス推しです。
どうしてこの曲が最初なのかの理由は次話あたりで。
クヴァルトの発言などもそうですが、
このへんかな、と思ったかたは拍手などでコメントいただけると、
私がとても喜びます(笑




